心配の種

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 看護師さんに案内されながら、私は外科病棟の三階にあるというデイルームへ、足早に向かった。院内の廊下は、暑くもなく寒くもなく適温に調整されていた。先ほど測ったばかりの体温は平熱だった。けれども、私の頭の中は、不安と動揺と苛立ちで、のぼせるほど茹だっていた。  郵便配達員の夫が、路上で頭を打ち付け、救急で病院へ運ばれたのは今回が初めてではない。これまでにも、配達中にバイクで何度か転倒した。  一人で歩いている時に何かにつまづいて転んだこともあった。自転車をこいでいる最中に、車と接触して突き飛ばされたこともあった。その度に、連絡を受けた私は、血相を変えて病院へ駆けつけたのだ。  不幸中の幸いで、どの事故も致命傷になるような大事に至ることはなかった。けれど、頭や顔面を包帯でぐるぐる巻きにされた痛々しい姿を見たり、一時的に意識を失って事故の前後の記憶が飛んでしまったりする症状に陥った夫を目の前にするだけで、私はいたたまれず、心配で胸が張り裂ける思いをしてきたのだ。  大きな窓から、眩しすぎるくらいの太陽の光が差し込んでいる。広々としたデイルームには、四人がけのテーブル席がいくつも並んでいた。入院患者たちがそれぞれのテーブルで、面会に来た家族や知人と思われる人々と談笑している。 「やあ、ここ、ここ」  窓際のテーブル席で、座ったまま夫が片手を上げた。弱々しい声で私を呼んでいる。頭と右手に包帯を巻いている。着ているパジャマは病院で借りたものだろうか。 「ちょっと、大丈夫なの?」  私は、夫の穏やかな笑顔を見て、少しだけほっとしながら席に着いた。 「ああ、大丈夫。大丈夫。ちょっと頭を打って、肘にひびが入ったくらい」  呑気な口調で、夫が答える。彼はいつもこんな調子だ。良く言えば楽観的。悪く言えば現実逃避。  まあ、深刻になりすぎて落ち込んでしまうよりは、ましなのかもしれないが。その分、私が極度の心配性だから、ある意味バランスがとれた夫婦なのだ。 「それで、今回は何があったの?バイクの事故?」 「いや、それがよく憶えていないんだよ」  なんとも頼り気ない夫の答え。 「えっ、バイクに乗っていたかどうかも憶えていないの?」 「うん、気がついたら病院のベットの上で……」 「頭の傷は?」 「ちょっと後頭部にたんこぶの小さいのができているぐらいかな」  夫が、指さしながら答える。 「痛くないの?」 「ああ、今は全然痛くないよ」  私は、胸をなで下ろす。けれども、すぐに心配になって夫に訊ねる。 「精密検査はした?主治医の先生は、なんて言ってるの?」 「ええと、検査……検査……。ああ検査はいろいろやっていたよ」 「それで?」 「うん、今のところ、特に問題ないみたい……」 「ほんと?」  私は、夫が心配をかけないよう嘘をついているのではないかと勘ぐった。夫には、そういう優しいところがある。でも今は、そういった優しさはかえって邪魔だ。どんなに深刻であっても、事実は事実として、正面からしっかり受けとめなければならない。夫婦が力を合わせて困難に立ち向かうには、まずはそれが必要不可欠なのだ。 「本当に、大丈夫?先生からちゃんと説明を受けたの?」 「ああ、聞いた。聞いた」  夫が額を指で擦りながら答える。嘘をついている時の、いつもの癖だ。 「嘘でしょ」 「本当だってば」 「じゃあ、主治医の先生を呼んできてよ。私も直接、検査結果とか、病状とか、今後の見通しとか、いろいろ説明を聞きたいから」 「あー、えーっとね、主治医の先生は、今日は外来で他の病院に出掛けているから、いないんだ」 「何それ。そんなことあるの?」 「最近の病院は、お医者さんのやりくりも大変なんだよ」  夫が生半可な知識でわかったようなことを言う。これも、いつものことだ。  まあいい。先生のことは後回しにしよう。それより、うっかり置いてきぼりにしていたけれど、そもそも、怪我の原因が何だったのかをつきとめなければ。 「救急車は、誰かが呼んでくれたの?」 「うん、そうみたい」  夫は、質問が変わって、ややほっとしているように見えた。 「あなた、その時どこにいたの?外、それとも、どこかの建物の中?」 「うーん、それもはっきり憶えていないんだよね」 「救急車を呼んでくれた人の連絡先とかは?」 「わからない……」  他人事みたいに頼りなさげに答える夫に、私は頭を抱えた。  こういう夫を見ている時、私は妻というより、出来の悪い弟に接する姉のような気分になる。   実際の私に兄弟姉妹はいなかったけれど、たぶん弟がいたら、その存在というのはこんな感じだろうと思わせる雰囲気が夫にはあった。  もちろん、私が夫より二つ年上なことや、私たちには子どもがいなかったことも、大きな要因かもしれない。  弱々しくて、時々生意気で強がりで、いつも心配をかける存在。それが度を過ぎると、弟どころか、私は息子を思う母親の気持ちにさえなってしまうのだ。 「それじゃあ、真相をつきとめようにも、何も手掛かりがないわね」  私は、腕組みをして天を仰いだ。ごちゃごちゃになりかけた頭を整理する。  そうしているうちに、二人の会話は途切れ、しばらく沈黙が続いた。    やがて、夫が口を開いた。 「手掛かりかあ……」  相変わらず脳天気な夫。まあそういうところが可愛くもある。だが、続いて出てきた夫の言葉に、私は一瞬、頭の中が真っ白になる気がした。 「もしかしたら、事故じゃなくて事件かも……」
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