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俺は、料理も出来なきゃ裁縫も下手だ。小中の時の家庭科の成績は、五段階評価で三がベスト。とにかく手先は不器用で、家事なんてほとんど手伝わない。
……なのに、なんで俺は、家庭クラブの部室なんぞにいるんだ?
「いやぁ、助かったよ下村(しもむら)くん。伝統ある家庭クラブの廃部の危機を救ってくれて」
「いやいやいやいや、なんでそうなるんですか!」
「え? だって、暇なんだろ? 他の部活に入るわけじゃないし、バイトするわけじゃないって、さっき言ってたよね?」
変にニコニコ……ニヤニヤしながら、若い家庭科教師の軽部直也(かるべなおや)先生は入部届の紙を俺に渡してきた。……ムカつくことに、言ってることはその通りだ。
よくある話だった。中学の時に打ち込んでいたバスケは、膝を痛めたせいで続けられなくなった。すっきりしない終わり方をしたせいで、他の部活をやる気にもならない。まぁでも適当に決めようかと思っている内に、どんどん時間ばっかりが過ぎていって、一ヶ月経った今ではもう、どの部にも入りにくくなっちまった。
その上、家が高校から遠いせいで帰りが遅くなるからと、親にバイトを禁止された。で、暇そうにしてるところを担任が気に掛けてくれたはいいが、なぜかその話が軽部先生の耳に入って、放課後になって先生に呼び出され……今に至る。
「僕がいた時には家政科があったから、家庭クラブもけっこう活動してたんだけどねぇ。ほら、三年くらい前になくなっちゃっただろ? それからはもう、ぱったり部員がいなくなっちゃったみたいで」
訊ねてもいないことをぺらぺらと喋りながら、先生はパイプ椅子に座った。その長い手に促されるままに、俺も座る。なんか……、このまま済し崩しに入部しそうだな……。
「一応、ここの先輩に世界的にも有名なデザイナーがいるからさ。廃部にされたくなかったんだよね」
「知らねぇ……」
「あー、うん。知らないだろうね。ジュエリーデザイナーだから」
一生掛かっても俺には縁がなさそうな職業を口にして、先生は白衣の胸ポケットからボールペンを引っこ抜いた。
「はい、どうぞ」
「いや、俺入るとは……」
「入ってくれないの?」
百七十一センチの俺よりでかい男が上目遣いしたって、可愛くねぇっての! 今年で二十六だとか言ってたこの先生は、いっつもニヤニヤしてる癖に生徒へ頼みごとをする時だけこんな顔をする。っても今までは、頼みごとなんてホワイトボード消しといてとか、プリント運ぶの手伝ってとかばっかりだったけど。
「そんな忙しい部じゃないよ。嫌なら、籍を置いてくれるだけでいい。とにかく僕は、この部が残ってくれればそれでいいから」
珍しく、真剣な顔をして先生は言った。切れ長だけど大きな目が、じっと俺を見つめてる。そうやってると、男の俺から見てもけっこういい男だ。このままの顔で授業したら、もっと女子に人気が出るだろうな。
「……駄目かな? 下村くん」
あー、なんか断りにくい。多分、先生が真面目な顔してるからだ。いやいやでも、ここで承諾したって面倒が増えるだけだ。
「あの、俺別にそんなつもりじゃなかったんで」
「お願い、そんなこと言わずに人助けだと思ってさ! なんなら、誰か別の人が入るまででもいいから!」
この通り! とでも言わんばかりに、先生は手を合わせて頭を下げてきた。おいおい、生徒相手にこんな下手に出てていいのかよ。高校教師。
「……その、集会とか、いっつも男一人で寂しいんだよ。どこの学校の顧問も生徒も、女性ばっかりでさ。肩身狭いのなんのって。だから、君が入ってくれるとほんっと助かるんだけど」
「もしかして、それが本音ですか?」
あははっておい。マジかよ。伝統ある部がなくなるのが嫌なんじゃないのか? なんだったんだよ、さっきの説明は。この人、予想以上にいい加減だな。
「ほら、綺麗な女の子と知り合えるチャンスかもしれないよ? 入ろうよ、下村くん」
「……ったく、しょうがないなぁ」
どうせ部活もバイトも出来ないんなら、彼女作ってそいつに時間割くってのもありだな。
「入りますよ。入ればいいんでしょ」
我ながら単純だとは思うけど、そーいうことに興味津々なお年頃なんだから、これくらい普通だろ。多分。そうやって自分に言い訳しながら、俺は先生が持ったままだったボールペンを借りようと、手を出した。けど、先生はぼけっとしてる。
「軽部先生?」
「あ、ああごめん。ありがとうね、下村くん」
変だな。また、あのニヤニヤ笑いがなくなってる。代わりに、困ったみたいな笑顔を浮かべた。……なんだよ、入って欲しいんじゃねーのかよ。
「助かったよ、ほんと」
蓋を取ったボールペンを俺に渡して、先生はすっと目を逸らした。……よく分かんね。ま、いいや。さっさと書こう。えーっと……、一年一組、下村樹(たつき)、っと。
「でさ、さっそくなんだけど……、再来週の土曜日に市内の高校の部員を集めて合同調理実習するんだ。暇なら来ない?」
「俺、料理とか全然出来ませんよ」
言いながら、入部届の項目を埋めていく。今日……何日だっけ。えーっと、五月七日? で、ここに家庭クラブ、って書けばいいのか?
「まぁ、そこのところは俺も手伝うから。それに、他の子達が率先してやってくれると思うから、下村くんはお皿洗いとかやってくれたらそれでいいんじゃないかな」
「皿洗いも面倒臭ぇ……」
「あらら。そんなんじゃモテないよー」
……悪かったな、家事できねぇ男で。我が家はそういう教育方針だったんだ。面倒臭がるヤツは厨房に入れるな! っていう。
「先生だってモテてないじゃないですか。気持ち悪がられてますよ、女子に」
「へー、そうなんだ。なんで?」
反撃のつもりだった俺の暴露は、先生には一切通じてない。それどころか興味深そうに身を乗り出してきた。なんか調子狂うなぁ、この人。
「なんか、いっつもキモい笑い方してるし、授業つまんないって」
授業がつまんねぇのは俺の意見でもあるけど。興味持てたのは、雑菌の勉強する時に見たビデオくらいだ。黄色ブドウ球菌がどうの、サルモネラ菌がどうのっていう。
「ふふふ、そうかそうか。そりゃあまた」
「……なんでそんな嬉しそうなんですか?」
「いいや。ショックだよ。けど、教え子に僕の気持ちが届かないのはいつものことだから」
おいおい、毎年どのクラスでもあんなんなのかよ。改善しろよ、教師。
「家庭科なんて、真面目にやるのは一部の女の子だけだからねぇ。僕の時よりは興味を持ってくれる男の子も増えたけど、やっぱり人数は知れてるから。授業してると時々虚しくなるよ」
「いいんですか? そんなこと生徒に言って」
「下村くんなら、同情して真面目に授業受けてくれそうだから」
はぁ? まぁ頼まれたら断れない性格してるのは認めるけど、同情でつまんねぇ授業を真面目に受けるほど優等生じゃないぞ、俺。
「それより、調理実習来てくれるの?」
「まぁ、行きますよ。どうせ暇だし」
「よし、じゃあ再来週の土曜日、十二時半に駅で待ってて。調理実習は十三時からだよ。エプロンだけは持ってきてね」
えーっと、再来週の土曜日……、十二時半……、一応、携帯のスケジュール帳に入れとくか。
「あ」
「……なんですか」
「メルアド、教えてよ。……こっそり」
こっそり? あー、教師と生徒でそういうのは無しとか言ってたな。担任が。教師から破ってどうすんだよ。
「いいんですか? うちの学校って、そういうの禁止されてるんでしょ」
「うん。だからこっそり。秘密にしてよ。お互い、知ってた方が便利だと思うんだ。ほら、連絡事項も増えるだろうから。家の電話に掛けてもいいならそっちにするけど」
……ってことは家族に家庭クラブなんてもんに入ったことがバレるのか……。絶対爆笑されるな。もしくは説教。俺みたいな家事のできないヤツが家庭クラブでお料理なんて! とか言われて。あー、明るくない未来が見える。
「……携帯でお願いします」
「はーい。赤外線通信でいい?」
そんな感じで、俺達はメルアドと番号を交換した。先生はまたニヤニヤしてたが、いつもより上機嫌っぽい。
「入部届、これでいいんですか?」
「うん。ありがとう」
ボールペンと入部届を返すと、先生は立ち上がった。今更気付いたけど、けっこうガタイがいい。運動部の顧問やってそうなのにな。
「じゃ、今日はこれでおしまいだな。お疲れさん」
「お疲れ様です」
「これから、よろしく」
目の前に、出される手。握手とか何年振りだろ。手ぇでかいな。
「よろしくお願いします」
ちょっと汗ばんでる手を握り返すと、先生は初めて自然な笑みを浮かべた。そういう笑い方できるんなら、最初からしとけばいいのに。ま、いいか。
「で、お前入っちゃったの? 家庭クラブに?」
隣の席の中畑(なかはた)雪人(ゆきひと)が、思いっ切り馬鹿にした顔で言ってきた。猫みたいな目が、俺を覗き込んでくる。こいつも俺と同じで、家庭科とか全く興味ねぇタイプだ。……家は定食屋やってるくせに。
「悪いかよ」
「いーや、悪くはねーよ。俺がお前を理解できないだけ。なんでそんな面倒臭そうな部に、頼まれただけで入るかねぇ?」
「漫画ばっか読んでる読書部よか、よっぽどマシだ」
「ちゃんとブンガクサクヒンも読んでるっつの」
「天野(あまの)先生の勧めたヤツだけだろ」
悪いかよ、って俺と同じことを言って、雪人は頬を膨らませた。身長も顔つきもガキ臭いこいつは、今年大学を出たばっかりという新米古文教師兼読書部顧問、天野先生に片思い中だ。どうも、一目惚れらしい。ま、相手にされてないみたいだけど。
「先生のオススメ、けっこう面白いんだよなぁ。やっぱあの人、センスいいわ」
「お前そんなん分かるのかよ。入試の国語最悪だったとか言ってたじゃねぇか」
「なんの話? それ」
駄目だ。記憶力までイカれてやがる。俺も彼女欲しいけど、片思いでこいつみたいになるのは嫌だ。
「それより軽部ってさ、天野先生と仲良いよな」
「は? 知らねーけど」
「良いんだよ。なんか、時々一緒に帰ってるとか言ってた。幼馴染みらしいぜ。……あいつ、天野先生狙いじゃねーよな?」
「いやだから、知らねーって」
「あー、気になる! 職場結婚とかありがちだし! 幼馴染みだし!」
始まったよ、妄想。そんなに気になるなら本人に聞けばいいんだ。恋は人をチキンにする。覚えとこう。きっとなんかのテストに出る。
「馬鹿な妄想してていいのかよ。次、天野先生の古文だろ」
「あ、そうだった!」
いそいそと教科書とノート、筆記用具を取り出してる内に、雪人の顔がニヤニヤし始めた。ほんっと、こいつみたいにはなりたくない。
「課題、完璧なんだろ? 見せてくれよ」
「おう、任せとけ!」
こいつが勉強までアホじゃなくてほんとに良かった。おかげさまで毎回出る古文の課題は、しっかり写させてもらってる。うーん、便利。
写し終わった辺りで、チャイムが鳴って天野先生が入ってきた。ほっそりしてて、優しそうな目で、肌は白くて、ふわふわした黒髪をバレッタで留めてる。お上品な雰囲気の美人だ。確かに、雪人が気に入る気持ちもちょっと分かる。ただこの人、育ちが良いのか悪いのか、時々鈍くさい。その上、世間知らずだ。付き合いたいタイプじゃねーや。
授業は分かりやすいけどゆっくり。一年の間はこんなもんなのかもしれない。でも、そのせいで何人か寝てる。隣のアホはきらきらした目で美人先生を見上げてるけど。
不意に、先生と目が合う。なんでか、えらく愛想の良い笑い方をされた。いや……、隣のアホに笑ってやってるのかもしれねぇ。気のせいだろ、多分。
授業が終わると、天野先生は俺を手招いた。アホが睨んできたが、気にせず向かう。多分、ホワイトボード消しといてくれとかそんなんだろ。うちの学校は基本、先生が消すことになってるから。
けど、先生はホワイトボード消しを取ろうとした俺の手を制した。そして、自分で消していく。……あれ?
「下村くん、家庭クラブに入ってくれたんですよね?」
「え、ええ。なんで知ってるんですか?」
「直……軽部先生から聞いたんです。嬉しそうでしたよ」
上の方が届かないのか、背伸びしながら先生は言った。そういう仕草、可愛いよな。
「私からもお願いしますね。軽部先生のこと」
「へ? ああ、幼馴染みなんでしたっけ」
「ええ。あの人って誤解されやすいけど、根はいい人ですから……。末永く、付き合ってあげてください」
な、なんなんだ、この結婚式前の花嫁の母親みたいな発言。この人もたいがい変だ。
「あ、それと中畑くんにこれを」
「えーっと……、『李陵(りりょう)』?」
「少し読みにくいけれど、短編だから試してみてください、と伝えてくれますか?」
先生が直接伝えた方が喜びますよ、とは言わない。んなことになったら、あいつは間違いなくこの後の授業を全て腑抜けのままこなすだろう。腑抜けなアホが隣にいると、俺まで注目されやすくなるじゃねぇか。
「分かりました」
「ありがとう。家庭クラブ、頑張ってくださいね」
ふわっと、綿飴みたいに笑って、先生は後片付けを終えて去っていった。軽部先生と一緒で、そういう風に笑うと普通に綺麗なんだけどな。
「たーつーきぃ!」
「うっわ、なんだよ!」
いきなり背後から雪人の声が聞こえて、俺は危うく先生から借りた文庫本を落としそうになった。でも、お構いなしに雪人は飛びかかってくる。
「お前までライバルになる気か!」
「馬鹿、興味ねぇよ! 年上で教師だぞ!」
後ろから羽交い締めにしてきた雪人に叫んだが、このアホは聞く耳を持たない。
「年上だろーが教師だろーが、惚れたら一緒だっつの! てめ、あの人に色目使ったらぶっ飛ばすからな!」
「うるっせぇな! お前と一緒にすんな!」
あーもう、こんなことばっかやってっから、クラスの女子に馬鹿にされんだろ、俺ら。天野先生さえいればいいお前は構わないだろうが、俺は人目ってもんを気にするんだよ。今も、くすくす笑ってるヤツやら馬鹿にした目のヤツやらばっかりで、クラスの女子からろくな視線をもらってない。
絶対、ここじゃ彼女なんか出来ない。再来週の土曜に一縷の望みを託して、俺はしがみついてくるアホを引き剥がした。
調理実習の日の土曜、俺は約束通り駅前で先生を待っていた。ほんとなら、土曜にわざわざ何十分も電車乗ってここまで来るなんてやってらんねーと思うとこだけど、可愛い彼女獲得のために頑張ってみた。これで、集まった女の子が軒並み趣味じゃなかったらどうしよ……。天野先生みたいなお嬢さんタイプばっかっぽいけどなぁ。偏見だけど。
ぼけーっとしながらそんなことを考えてた時、携帯にメールが届いた。……軽部先生からだ。そろそろ着くって……。
斜め前の駐車場からクラクションが鳴った。黒いワンボックスカーのパワーウィンドウが開いて、見知った顔が俺に笑う。
「下村くん、こっち! 乗って」
「はい」
ゴミ一つない助手席に乗って、俺はシートベルトを締めた。カーコロンの匂いが、けっこうきつい。先生はやたらとニコニコしながら、車を発進させた。
「今日はよろしく頼むよ」
「こっちこそ。……会場って、遠いんですか?」
「うん。車で十五分くらいかな。電力会社に、IHクッキングヒーター普及のためのシステムキッチンがあってね。まぁ、モデルルームみたいなところ。そこで作るんだよ。あ、エプロン持ってきた?」
「はい」
小学校の時に家庭科で作ったエプロンは、かなり出来が悪い。けど、事情を話して母親に借りるわけにも行かず、俺はそれを持ってきた。絶対に笑われるな……。
「意外と、真面目なんだね」
「へ?」
いきなりなんなんだ、この人。
「天野先生から聞いたよ。課題は毎回提出してるし、授業もちゃんと聞いてくれるし、頼まれたことはきちんとやってくれるって」
「は、はぁ」
「家庭科の時も、前は面倒そうだったのに、今はけっこうちゃんと聞いてくれてるよね」
「そう、ですか?」
時々居眠りするけど。学校遠いと朝が早くて、ついつい。
「……あれ? 吃驚しない?」
「え? なにが?」
「天野先生と僕、噂になってるって聞いたから名前出してみたんだけど。そういうの興味ない?」
自分からネタ晴らししたら意味ねーだろ。そういうカマ掛けるのは。
「別に、興味ないですけど。あー、知り合いに一人、食いつきそうなアホはいます」
「ふふ……、それ、君のクラスの中畑くんだろ」
ニヤニヤしながら、先生は随分と楽しそうに言った。
「先生は好きなんですか? そういうの」
「まぁ、人並みにね。自分が噂になるとは思ってなかったけど。しかも明里(あかり)となんて、ねぇ」
なんだ、別に付き合ってるとかじゃねぇのか。とか言ったら興味あると思われそうだから、言わねぇけど。
「あいつとは、ほんとにただの幼馴染みだよ。仲は悪くないけど、あいつも僕もそういう関係じゃない。ただ、家の方向が一緒だから、時々連れて帰ってるだけだ。それに」
「……それに?」
「あんなぽけぽけしたお嬢さん、趣味じゃないね」
赤信号でブレーキを踏んで、先生は深々と溜息を吐いた。うーん、俺と似たような趣味してんのかな、この人。
「中畑くんも、いい加減そういうとこに目が行きそうなもんだけどねぇ」
「へ? 先生、知ってるんですか?」
「うん。明里から聞いてるよ。っても、あいつの話を総合して僕が勝手に判断しただけで、本人は一切自覚ないけど」
うっわー、哀れなヤツ。他人にはバレてて本人は気付いてないって、どんだけ疎いお嬢さん好きになっちゃったんだよ、あいつは。
「ま、話聞いてると面白いから、しばらくそのままの関係でいて欲しいけどね。僕は」
「はぁ、そんなもんですか」
そんなもんです、と俺の言葉を繰り返してから、先生は車を発進させる。
「さて、そろそろ着くよ」
先生の言葉通り、電力会社のビルが見えてきた。ちらほら、制服の女の子も歩いている。ちょっとわくわくしてきた。
絶対、好印象持たせる! そんで、せめて一人はメルアド交換!
「……良し!」
「気合い入ってるねぇ」
のんびりそんなことを言う先生を尻目に、俺はさっそく歩いている女の子を眺め始めた。ああ、早く始まれ調理実習!
が、俺の期待は脆くも崩れ去った。
「先生、手おっきぃー、背高ーい! どれくらいあるんですか?」
「そんなに大きくないよ。百七十七、八かな」
「おっきぃですよー!」
「眼鏡とか似合いそうですよね」
「コンタクトなんだよ。眼鏡は苦手でね。あ、そんなに火力上げなくても大丈夫だよ」
「先生、結婚しないんですかー?」
「そうだねぇ、親はそろそろしろってうるさいけど」
「先生、絶対いい旦那さんになりますよね! 家事なんでも出来るし、優しいし」
「あ、下村くん、これもう使わないから洗っといて」
軽部先生は、見事なまでに女子の心を掴んでいた。なんせ、調理はテレビで観たことあるプロみたいに手際が良いし、なにかと親切丁寧に教えてくれて、その上プライベートな質問にもぽんぽん答える。いつもみたいにニヤニヤ笑ってるはずなのに、今日はその笑顔すらどっか爽やかに見える。
対して俺は、米すら炊けない、手作りエプロンは下手くそ、ろくに受け答えできないで、予想していたのと正反対の扱いを受けている。……まぁ、多少諦めはつくけどな。今日の先生は、男の俺から見ても変にカッコいいから。
あれよあれよと言う間に調理は終わり、後は食べるだけになった。後日、簡単な感想文を書かされるらしいが、とりあえず今日はこれで終わりだ。あー、なんか虚しい。
やたらとファンシーなランチョンマットが敷かれたテーブルに皿と箸を並べ、俺達は食事を始めた。普段、家で食べてる飯より格段に美味い。
俺が黙々と食べてる間にも、先生はなにかと質問攻めにされていた。
「先生、彼女とかいないんですか?」
「ああ。いないよ」
「別の学校の生徒なら、付き合っても怒られないですか?」
「駄目じゃないかなぁ。ほら、一応君達、まだ未成年だから、犯罪になっちゃうよ。結婚できる年齢だけど」
「じゃ、三年待ってくれます?」
「私、後二年!」
「ははは、その頃には別の人を好きになってるよ。それに、二年後は僕もう二十八だよ」
「それくらいの年の差、平気よねぇ」
「私も! 年上っていいよね」
「ねー! うちのクラスにも大学生とか社会人と付き合ってる人、けっこういるし」
マジで? っつかそれって、同級以下は眼中ねぇってことか? ああもう、俺最初から望みねーじゃん。
「そう? 僕は年下好きだよ」
ってなんで俺見て言うわけ? 先生。周りに年下の女子侍らせといて……。自慢か?
「じゃー、私立候補しよーかな?」
「えー、だいたーん」
「あはは、さすがに犯罪はちょっと……」
「でも、そういうのっていいですよ。恋は障害がある方が燃えるって言うじゃないですか」
俺の障害は目の前にいる、レアな男の家庭科教師だ。畜生。
「うん。そうだね。ほんと、障害があるほど頑張れる」
「……もしかして、好きな人いるんですか?」
「あ、バレた?」
へ? マジでか。ならなんでこんな女だらけのとこに……って、仕事ならしゃーないわな。
「どんな人ですか?」
「年下?」
「うん。年下。ちょっと無愛想だけど、真面目で可愛い子だよ」
あー、そういうの好きそうだな、この人。こんな恋バナとかに入らないタイプ。……って言うなら、天野先生も当てはまりそうだけど。
「でも、多分僕は恋愛対象じゃないと思うんだよね。その子にとっては。だからちょっと、辛いかな」
「年上に興味ないんですか? その子」
「そうみたい。それに……僕自身にも、問題あるから」
「もしかして……教え子とか?」
「あはは……」
おいおい、否定しないのかよ。あんた、さっき自分で犯罪だとか言ってたろ。
「いいんですか、それ。犯罪ですよ?」
「うん。だから、片思いのまま。障害多いと燃えるってさっき言ってたけど、さすがに実らないんじゃないかな、この恋は」
「諦めて私にしません?」
「あ、まただいたーん」
「ははは。とりあえずはまだ、新しい恋をする気はないかな」
「じゃ、その気になったら連絡くださいよ。メルアド教えるから!」
「駄目なんだ。そういうの。うちの学校って厳しいから」
「ちぇー」
……なんか、意外な一面を見た気がする。この人、生徒好きなのか。全然気付かなかった。
「さ、そろそろ食べ終わらないと、三時までに片付けられないよ。ここ借りてるのはそれまでだから」
「はーい」
結局、先生の恋バナはそこで終わった。それでも他愛ないことを話しながら、女子はきゃーきゃー言ってる。俺はその話を聞き流しながら、そっと溜息を吐いた。
「どうしたの? 凹んでるけど」
「……ほっといてください」
帰りの車の中で、俺は溜息ばっか吐いてた。駄目な自分を実感させられた上に、隣で運転してる教師の意外な面を知ってしまって、けっこうショックだった。
「タイプの女の子、いなかった?」
「いましたけど、みんなあんたのことばっか気にしてたじゃないですか」
今日は散々だったんだから、言葉遣いがぞんざいになることくらい許して欲しい。
「そう? まぁ、年上に憧れる年頃なんじゃない?」
「……あんたは、それを逆手に取ったりしないんですか?」
きょとん、とした顔で、先生は俺を見た。いや、運転中なんだから前見ろよ。
「ああ、さっき言ってた片思いの話?」
ちょっとだけ顔が赤い。照れ隠しみたいに前を向いて、先生は困ったように笑う。
「逆手に取っても意味ないよ。完全に眼中にないみたいだから」
「はぁ」
「辛いよねぇ、ほんと。中畑くんの気持ち、ちょっと分かるよ」
「その割には、あいつみたいにがっつかないですよね。俺が知らないだけで、そいつの前ではがっついてんですか?」
うーん、って唸ってから、先生は首を横に振った。
「がっついてるよ、精一杯。でも、それも気付いてもらえない。だから……、もういいんだ。その子が卒業するまで一緒にいられたら」
えっらい乙女な思考だな。男の方がロマンチストだとか、どっかで聞いたことあるけど……。
「卒業するまでったって、家庭科の授業って二年で終わりでしょ。そいつが三年になったらどうするつもりなんですか? ストーカー?」
「やだな、犯罪はしないってば。そうだな……、そのためにも今、頑張っておかないとね」
「頑張るって、なにを?」
「裏工作……ってほどじゃないけど、繋がりをね、断たないようにしてる」
ちらりと、先生は俺の顔を窺った。……もしかして、俺の知ってるヤツなのか?
「これ以上は止めよう。なんか、恥ずかしいよ」
「はぁ。ま、手伝えることがあるなら、俺も手伝いますよ」
「はは、ありがとう。でも多分、手伝えないんじゃないかな」
ちょっとムカついた。そりゃ、クラスの女子には馬鹿にされてるけど、それでも少しくらいは出来ることあるだろ。俺にだって。
「……ねぇ、下村くん。女の子、好き?」
俺の様子に気付いているのかいないのか、先生は突然大真面目な顔をして訊いてきた。
「は、はぁ? なんすか、いきなり」
「好きだよね、そりゃ。今日、思いっ切り凹んでたし」
なにが言いたいんだ、この人。
「僕は嫌いなんだ。……女の子」
「は? 年下好きって言ってたじゃないですか」
「うん。……ま、そういうこと」
なにがそういうことなのか、さっぱり分からねぇ。大人っぽいヤツがタイプとか、そういう話か? なんなんだ、この人。
わけが分からなくて黙ってる内に、駅に着いた。先生は、なんか知らねぇけど寂しそうな顔をしてる。
「今日は、お疲れ様。……また月曜に部室までおいで。感想文の用紙、渡すから」
「はい。……えっと、ありがとうございました」
シートベルトを外して外に出ようとした俺の手を、先生は運転席から引っ張った。……なんだ? いきなり。
「ごめんね。変な話、して。……忘れてくれたら嬉しい」
「変、なんですか? ただの恋バナでしょ」
「……うん。そ、だね」
なんでそんな、泣きそうな顔してんだよ。……ほんと、今日の先生は変だ。先生の手に力がなくなる。俺は納得行かないまま、車を降りた。
「じゃあね。さよなら!」
「さようなら」
頭を下げて、俺はドアを閉めた。車の発車音を聞きながら、俺は改札に向かう。……けど、もやもやした気分は晴れなかった。先生の言葉の意味が、よく分からなくて。
年下好きなのに、生徒に片思いしてるのに、女の子は嫌い。がっついてるけど、気付いてもらえない。三年になっても繋がってられるように、今から工作してる。でも、相手は眼中にない。……どういうことだよ一体。
帰りの電車に乗って、俺は先生の言葉を整理しようとしていた。じゃなきゃ、気分が晴れないままだと思ったから。でも……、余計に頭がこんがらかっただけだった。かと言って、誰かに相談するってのも変だし……。って、あれ? あそこにいるのって。
「天野先生」
「あら、下村くん。こんにちは」
ふにゃっと、天野先生は笑った。今日はいつもと違って、髪を下ろしてラフな格好してる。って言っても、やたらふわふわした動きにくそうな服だったけど。なんか、海外の人形みたいだな。
「こんにちは。学校行ってたんですか?」
「いえ、ちょっと市立図書館に。下村くんは……、調理実習の帰りですか?」
「なんで……あ、軽部先生に聞いたんですか?」
案の定、先生は頷いた。よたよたしながら、俺の隣にやってきて座る。
「直ちゃん、あなたのことよく話してるから……、私まで覚えてしまって」
あ、下の名前で呼んでる。しかもちゃんって。そういえば、さっき軽部先生も明里って呼んでたな。幼馴染み、ねぇ。天野先生なら知ってるかな。
「あの、ちょっと訊きたいことあるんですけど、いいですか?」
「はい、なんなりと」
「軽部先生の好きな人って、知ってます?」
天野先生は、口に手を当ててぽっと頬を染めた。な、なんなんだこの反応。もしかして、ほんとは軽部先生のこと好き、とか?
「それは、私の口からはちょっと……」
「さっき、生徒って聞いたんですけど」
困り顔をしたが、それでも先生は頷いた。うーん、と可愛らしく唸ってから、俺の顔を覗いてくる。
「直ちゃんに、直接訊ねた方がいいと思いますよ。あの人は照れ屋さんだから、ちゃんと言ってくれないかもしれないけれど」
「なんか、訊きにくくて。手伝えることあるかって訊ねたら、ないっぽいこと言われたし」
「ああ、それは……」
ないでしょうね、と小さな声で先生は呟いた。……なんだ、そりゃ。
「あの……下村くん」
改めて、先生は俺に向き直る。少し後ろに下がって、なぜか三つ指を突いた。ふわふわした長い髪が、先生の白い頬に掛かる。……なんなんだ、いきなり。
「なにがあっても……、あの人と仲良くしてあげてください。あの人はきっと、それだけで幸せなので」
「は、はぁ……」
なんかまた、婚前の姑みたいなこと言い出したぞ。この人。確か、軽部先生より年下のはずなのに……、なんか母親みたいなこと言うよな。
深々と頭を下げた天野先生を見下ろしながら、俺はすっかり困り果ててしまった。車内なのに、ほんとおかしな空気だ。
「あら、私そろそろ降りないと。さようなら、下村くん」
「あ、はい」
まだ電車が止まらない内から、先生は立ち上がった。よろよろしながら出口に向かっていくと、電車はやっと止まる。ひらひら手を振って、先生は降りていった。
……なんだったんだ、一体。まるで……、俺が軽部先生のこと嫌いになるかもしれない、みたいな言い方にも思えたけど。っつか、ほんと気の弱い姑みたいな人だよな。
……俺と仲良くするだけで、軽部先生は幸せ、ねぇ。そういや、軽部先生も言ってたな。卒業するまで一緒にいられたら、それでいいとかなんとか。……って、え?
「まさ、か」
まさか、そんな……こと、ねーよな。……いや、でも、そう考えるといろいろ……辻褄が合う。俺は年下で、生徒で、女の子じゃない。三年になっても繋がってられるように……、家庭クラブに入れられてる。でも俺は……、あの人なんて眼中にない。
「は、はは……まさかな」
洒落になんねーだろ、ホモとか。あ、ゲイだっけ。そりゃ、あの先生は家庭科なんて科目の教師やってるし、家庭クラブの顧問やってる。喋り方もちょっと女っぽいところはある。けど、見た目も行動も、そんな風には見えない。
気のせい、気のせいだ。多分。そう自分に言い聞かせてみたけど、気付いたら俺は、別れ際に見た先生の泣きそうな顔を思い出していた。まさか、な。
「どーしたんだよ、暗いじゃん」
月曜の朝、学校に来るなり雪人は俺にそう言った。一昨日のことが気になって、俺は寝不足だった。……我ながら、繊細だ。
「お前は楽しそうだな……」
「へへ、分かる?」
鞄の中身を机に入れながら、雪人は気持ち悪いくらい嬉しそうに笑った。それから、周囲をきょろきょろ見回して、俺に耳打ちしてくる。
「誰にも言うなよ? 土曜日、先生とデートした」
「はぁ!?」
「馬鹿、声でかい!」
慌てて俺の口に手を当てて、雪人はまた気味悪い笑みを浮かべた。
「市立図書館で、オススメの本教えてもらった。そんで、先生の行きつけの喫茶店でケーキ食べた。可愛かったなぁー、私服……」
あー、それで先生、あんな時間に電車乗ってたのか。雪人の家は学校の近くだから、先生もわざわざこいつのために休日返上で市内に出てきてたわけか。意外と愛されてんなー、雪人。
「なんかさ、服も髪もふわふらひらひらしててさ、ちょうちょみたいで」
「はいはい」
「綺麗だったなぁー」
こりゃ、今日一日ずっとこの調子だな。……ま、いつも通りだったとしても、こいつに相談したところでマトモな答えが返ってくるはずないか。
今日は、放課後に家庭クラブの部室で一昨日の感想文を書かなきゃいけない。当然、先生も来る。……聞いてみるかな。あんまり、深刻にならないように、冗談っぽく。
「軽部のことも、姉さんみたいな人だって言ってたし……」
「ね、姉さん? 普通、兄さんだろ」
「それが、昔っからお菓子だのお裁縫だのに興味ある人だったらしくてさ。だから、天野先生にとってはお姉さんみたいなもんなんだってよ」
おいおい、本格的に俺の予想当たってるっぽくね? いや、気のせい気のせい。
「二人で時々帰るのも、恋バナしてるかららしいし。気があるなら、そういう相手と恋バナなんかしねぇよな。ん? どうしたんだよ。顔色悪いぞ」
……気のある相手と恋バナなんか、しない。そうだよな……。でも、だからこそ先生は恥ずかしがって話を止めたんじゃ……?
「おーい、樹? たーつーきー?」
「え、ああ、なんだ?」
「大丈夫か? ほんとに顔、青いぞ」
心配そうな顔して、雪人は俺を覗き込んだ。……そんなに顔色、悪いかな。俺。
「保健室行くか?」
「……いや、いい。授業中に寝る」
「古文寝るなよ。天野先生、寝るヤツ増えてきたって悲しんでたから」
はいはい、って適当に返事して、俺は机に突っ伏した。
目を閉じて思い出すのは、やっぱり軽部先生の泣きそうな顔だった。……意味深過ぎだろ。あれは。気にすんなって方が無理。……けど、男に好かれたって……。
気が付いたら昼飯、気が付いたら放課後、って感じで、俺はほぼ全部の授業で爆睡した。唯一古文だけは、雪人の再三の妨害で寝られなかった。天野先生は苦笑いしてた気がする。
そして放課後、読書部の部室に向かう雪人と一緒に、俺は部室棟に向かっていた。空が青い。ムカつくくらい青い。
「お前、なんか悩んでることでもあんの?」
「……お前に言ったって、どーしようもねぇ」
「うっわ、信頼ねーの。言ってみろよ」
……言えるかよ。男の軽部先生に好かれてるかもしれねぇなんて。
「どうにかなったら言うよ。まぁ待ってろ」
「ちぇー。ま、いいけど。お前も幸せになれよー」
ったく、すっかり恋人気分だな。こいつの頭、一ヶ月経ってもまだ春なんじゃねーか? つか、さり気なく恋愛ごとだって気付いてるし。
「じゃ、俺こっちだから」
「ああ、じゃーな」
適当に手を振って、俺は読書部の部室に消えていく雪人を見送った。あいつ、あれでけっこう頭良いのかもな。野生の勘かもしれねぇけど。
馬鹿なことを考えてる内に、家庭クラブの部室に着いた。こないだ他校の女子が話してたところによると、家庭クラブの部室なんてものがあるのはうちくらいらしい。大抵は部室なんてもらえなくて、家庭科室で活動してるとか。やっぱ、優遇されてたのかな。家政科あったから。
「お、来た来た」
「ども」
軽部先生はもう部室に来ていた。テーブルに座って、レポート用紙に細々となんかを書いてる。向かいの席には原稿用紙とシャーペン。どうやら、あれが俺の感想文用らしい。
「部室棟は七時まで開けてられるから、ゆっくり書いていいよ。あ、それと、天野先生に文章の添削してもらうように頼んでるから、二、三日したらまた来てね」
「はい」
それだけ言うと、先生は黙ってレポートに戻った。俺もシャーペン片手に、原稿用紙と向かい合う。……けど、文章がなんにも出てこない。調理実習行ったって言っても、ろくになにもしてないから当たり前か。
「見た感じの雰囲気とか、味の感想なんかでもいいよ。どうせ成績が出るようなものじゃないから、気楽に気楽に、な?」
「……はい」
この人が女だったら、俺ももっと素直に好きになれたのかな。雪人みたいに。……って、まるで俺、先生が好きみてぇじゃん。……男なのに。
もやもやする。……おかしいだろ、この状況。ほんとに恋愛してるわけじゃねぇのに。なんで俺、こんな悩んでんの? 先生も言ってただろ。俺はこの人なんか、恋愛対象じゃない。眼中にないんだ。……なのに、なんで。
「……ねぇ、下村くん。明里がなんか言った?」
「へ?」
「いやね……、土曜、たまたま帰りに君と会ったって言ってたから。あいつ、変なこと言わなかった?」
変なことっちゃあ変なことか。あの、気の弱い姑さんみたいな発言は。
「なにがあっても、軽部先生と仲良くしてやってください、って」
「あいつ……。ごめんな、わけ分かんないだろ」
苦笑する先生の顔を窺いながら、俺はとりあえず頷いておいた。分かりたくない、が正直なところだ。
「気にしなくていいよ。あ、なんか飲む? お詫びに奢るよ」
「いいですよ、別に……」
「そう言わずに。僕もちょっと、コーヒー飲みたいところだったから。なにがいい?」
「じゃ……、飲むヨーグルト」
了解、って言って先生は部室を出た。……今日の先生はなんか、変だ。どこが変ってわけじゃないけど、いつもと違う気がする。……俺がいつもと違うから、そう見えるんだろうか?
十五分経っても、先生は戻ってこなかった。気になって余計に手が付けられねぇ。……鍵は置いてってるし、ちょっと探してくるか。
部室の鍵を閉めて、俺は自販機へ向かった。自販機置き場は、部室棟から徒歩二分くらいなもんだ。ゆっくり往復したって、十分掛からない。なにやってんだよ、先生。
「あ、下村! 天野先生知らね?」
歩いてたら、読書部の部室を飛び出た雪人と鉢合わせした。なんか焦ってる。
「見てねぇ。軽部先生知らね?」
「知らねぇ。……ジュース買いに行くって言って、戻ってこないんだよ」
「こっちも。……なんなんだよ、あの二人」
雪人の顔が、青ざめる。
「もしかして、ほんとはあの人達やっぱり……できてるんじゃ」
「は? お前が言ってただろ。天野先生は軽部先生のこと、姉さんみたいなもんだって思ってるとかなんとか」
それに軽部先生は……、生徒に片思い、してる。
「じゃ、なんで二人してこんなに帰りが遅いんだよ! 俺、ちょっと見てくる!」
「あ、おい!」
雪人につられて、俺も走った。本気で走ったのなんて久し振りで、痛めた膝がすぐに違和感を覚える。雪人は普段からは想像も出来ないくらいの速さで部室棟を駆け抜けて、自販機置き場まで真っ直ぐに向かっていた。俺は、その背中を見失わないようにするので精一杯だ。
自販機置き場には、見知った二人が立っていた。軽部先生と、天野先生。……けど、おかしい。天野先生……泣いてる?
「天野先生!」
雪人が大声を出して、天野先生に駆け寄った。ばつが悪そうな顔をして、軽部先生は目を逸らす。……なに、したんだよ。あの人。
「先生、大丈夫? どうしたの?」
敬語も忘れて、雪人は天野先生にそう訊ねた。先生はゆっくり、首を横に振る。
「中畑、くん。なんでもないんです……」
「じゃ、なんで泣いてんの? なんでもないはずないでしょ!」
「私が、悪いんです。だから気にしないで」
泣き笑いの顔で、天野先生は雪人の肩を優しく叩いた。その時、後ろにいた俺と目が合う。
「……下村くん、ごめんなさい。おかしなこと言っちゃって」
「一昨日のことなら……気にしてませんから」
ちらりと、天野先生は軽部先生を見た。それから頭を下げて、心配顔の雪人を連れて去っていく。
自販機置き場には、俺と軽部先生だけが残った。
「……軽部先生」
「みっともないとこ、見せちゃったな」
苦笑いをして、先生はやっと俺の方を向いた。手には、紙パックのコーヒーと飲むヨーグルトを持ってる。
「どうしたんですか?」
「うん。ちょっと、ね……」
「俺と、関係あるんですか?」
あるはずだ。じゃなきゃ、天野先生は今更謝らない。案の定、軽部先生は下を向きながら、頷いた。
「一昨日のこと、ですよね。別に……大したことじゃないですよ。さっきも言ったけど、俺は気にしてないです」
「……うん」
「天野先生を怒らなくても、いいじゃないですか」
「違う、んだ」
先生の歯切れが、悪い。また泣きそうな顔をしていた。……なんか、苦しい。
「……怒ったんじゃ、ない。頼んだんだよ。……余計なこと、するなって」
「怒ってるじゃないですか」
「……違うんだ。困るんだよ。君が……離れていってしまったら」
離れる? 繋がりを……断たないようにする、ってことか……?
「……でも、もう手遅れかもしれないな。君のその顔だと」
先生は口の端を歪めて、自嘲した。初めて見る、辛そうな笑い方だった。
「気付いてるかもしれないけど、言うね? 僕、君のことが好きだよ」
「……先生」
「やっぱり、あんまり驚かないな。……明里に言われて気付いたの?」
俺は頷くしかなかった。先生の顔があまりにも……苦しそうで、なんにも言えない。
「あいつがあんなこと言わなきゃ、もうちょっと片思いのままでいられたのに。二ヶ月ちょいで失恋、か」
なにを言ったらいいか分からなくて、今度は俺が俯いた。先生の長い影が、俺の足元まで伸びている。
「ごめんな。気持ち悪いよな? 部、辞めていいよ」
「先生……」
……なにか、言いたかった。気持ちに答えたいとかじゃない。多分これは、同情心から来てると思う。でもなにか……、言わなきゃと、思った。
けど、俺がなにか言う前に、激しい足音が背後から響いてきた。足音はすぐに俺を追い抜いて、目の前の先生に飛びかかる。
「雪人……!?」
止める暇なんかなかった。雪人はなんにも言わずに先生をぶん殴って、白衣の下に着たシャツの襟首を引っ掴む。
「ふざけんな! あの人に八つ当たりしてんじゃねぇよ!」
「中畑くん……、ごめん」
「謝るなら天野先生にだろ!」
もう一回、雪人は腕を振りかぶった。慌てて俺がその腕を掴むと、とんでもなくきっつい目で俺を睨んでくる。
「んだよ! 邪魔すんな!」
「……雪人」
俺が首を振ると、雪人は舌打ちして先生を離した。
「ぜってぇ謝れよ! 後で!」
それだけ言って、雪人はまた走って部室棟へ戻っていった。俺と先生は、ぼけっとしたままその後ろ姿を見送る。なんつーか……、台風みたいなヤツだよな。
「……とりあえず、戻りますか?」
「うん……」
先生は素直に頷いて、歩き出した俺の少し後ろについてきた。殴られて赤くなった頬に、もう温くなってるだろうパックのコーヒーを当ててる。長い影は、やっぱり俺の足元まで伸びていて、先生の足の長さがよく分かった。……ああ、この人ってスタイルいいんだなって、ぼんやり思った。
家庭クラブの部室に着くまで、俺達はなんにも喋らなかった。鍵を開けて中に入った俺は、真っ先に電灯を点けた。安っぽい灯の下で、さっきまで向かってた原稿用紙が白く光る。
「……明里は、知ってるんだ。僕がゲイだって」
椅子に座りもせず、先生は喋り出した。温い紙パックを押し当てた頬は、さっきよりも酷い色になってる。俺も座れなくて、先生の隣に突っ立った。
「ずっと前に、話したことがあってね。明里はそれでも、僕のこと慕ってくれた。僕も、明里にならなんでも相談できた。……だから、君のこと話してたんだ。帰りの車の中でね」
「それで……、あんなことを?」
「うん。あいつ、そういう機微に疎いから……。だから中畑くんの気持ちにも気付かないし、君が僕の気持ちに気付くんじゃないかとも思わない」
また、先生は下を向いた。
「ほんと……、ごめんな。変なこと言って。……変なことついでに、さ」
声が、震えてる。……先生は眉を顰めて、必死に涙を堪えていた。
「……図々しいお願い、していいかな?」
「先生……?」
一滴(ひとしずく)、二滴(ふたしずく)、涙がコンクリートの床に落ちた。じわっと広がって、小さな円を作る。
「……もし、良かったら……、嫌いにならないで、くれないか? もう、好きにならないから」
笑いながら泣く先生を見るのが、辛い。いつものニヤニヤ笑いは好きじゃないけど、家庭クラブに入ってからこの人が見せた、真剣な顔や自然な笑顔は……、嫌いじゃなかった。
「ごめん、な。はは……、嫌、だよな。退部届、取ってくるよ。ちょっと待ってて」
馬鹿みたいに明るい声でそう言って、先生は後ろを向いた。俺は声を掛けたいはずなのに、なんにも言葉が出てこない。……駄目だ。このまま行かせちゃ、駄目な気がする、のに。
とりあえず引き留めようと、思い切って口を開こうとした時だった。ゆっくりと、ドアが開く。ドアの向こうで、ふわりとした黒髪が揺れた。
「直ちゃん……」
「明里? それに……中畑くん」
軽部先生と同じところに真っ白な湿布を貼った雪人を後ろに連れた天野先生は、深々と頭を下げた。その細い手は、雪人に貼られてるのと同じような湿布を携えている。後ろの雪人は最初、ばつが悪そうな顔をしてたけど、結局は一緒になって頭を下げた。
「ごめんなさい。私のせいで……」
「……いいよ。遅かれ早かれ、こうなってたんだ。それに中畑くんの言う通り……、僕の臆病を明里に八つ当たりしてたとこもあったんだ。明里が謝ることじゃない」
酷く優しい手つきで、軽部先生は幼馴染みの細い肩を抱いた。顔を上げた天野先生の頭を、ゆっくり撫でる。まるで……ほんとの兄ちゃんみたいに。
「ごめんね、明里。お前は僕のことを思って、言ってくれたのに……」
「直、ちゃん……、ごめんなさい……」
天野先生が、ゆっくり……軽部先生の胸に、縋る。すっぽりと収まった細い体を、軽部先生はそうっと抱き締めた。後ろにいた雪人は、目を見開く。
気が付いたら俺は、軽部先生を引っ掴んで無理矢理振り向かせていた。ぽかんとしているその顔の、赤くない方の頬を平手で思いっ切り引っぱたく。気持ちいいくらいの高い音が響いて、俺以外の三人は呆然とした。
「……あんたなぁ」
異常なほど、ムカつく。抑える気なんか、これっぽっちも起きなかった。さっきまで全然出てこなかった言葉達が、次々と頭に浮かび上がる。俺は思いっ切り息を吸い込んだ。
「俺が好きとか言っときながら、目の前で女と抱き合うんじゃねぇよ! しかも、その女を好きなヤツの前で! ガキだからって馬鹿にしてんのか! 平手だっただけマシだと思え!」
「え、おい、樹?」
「へ……? え、えぇと……」
雪人の顔が青くなった後、赤くなる。天野先生がぽかんとしたまま雪人の方を振り返る。でも頭に血が上った俺には、後ろの二人は関係なかった。
「あんた、俺が好きなんだろ! 簡単に諦めんじゃねぇよ! 大体、俺なんにも言ってねぇだろ! 答え聞く前から諦めてんじゃねぇ! そんなだから臆病風に吹かれるんだよ!」
「あ、ああ」
「好きにならないから嫌いにならないでくれ? ふざけんな! 嫌われたくないなら好かれようとしろよ! 好きなんだろ、俺のこと!」
「う、うん」
「大体、家庭クラブなんかに無理矢理入れられた時点で、変だと思ってたんだ! 俺より家庭科好きなヤツなんてごまんといるのに、なんで俺なんだよ! どう考えてもおかしいだろ!」
「も、申し訳ありません……」
「今更謝られたってどうしようもねぇよ! っつか、謝んな! 好きならもっと開き直れ! もっと堂々としろよ! そしたら俺だって」
俺だって……? 俺、なに言おうとした? 軽部先生の顔が、明るくなっていく。後ろの天野先生と雪人は、二人で見つめ合っててこっちの様子に気付いてない。
「俺だって、なに? ねぇ、教えてよ。下村くん」
「……気の迷いだ。絶対、気の迷いだ……!」
「そうなの? ほんとに? ねぇ、僕開き直っていいの?」
俺、ほんと、なに言おうとしてたんだ? 思い出したら、今までの人生が根底から覆される気がする。思い出したら、いけない気がする。
目の前の男は子どもみたいに真っ直ぐな目で、俺を見つめた。……駄目だ、思い出しちまう。
「ねぇ、嫌われたくないよ。君に好かれるように、努力する。簡単に諦めないよ。だって」
大きい手が、俺の肩を抱いた。……泣きそうなくらい、力強い。
「下村くんが、好きだから」
両方の頬を真っ赤に染めて、先生はそう言った。俺と雪人がぶん殴ったから赤いのか、緊張してるから赤いのかは、よく分からない。
先生が俺を引き寄せた。……スタイルのいい体が、近付く。だ、駄目だ。俺はまだ……今までの人生に、未練がある!
「……っ、調子に、乗んな!」
「う……っ」
……やべぇ、また殴っちまった。しかも綺麗に鳩尾(みぞおち)入った。先生が体をくの字にして腹を押さえてる。今更だけど、これって退学もんじゃねぇ?
「せ、先生、ごめん」
「い、いや……、いいよ……、大丈夫」
どう考えても大丈夫じゃなさそうな声で言って、先生はよろよろ立ち上がった。
「頑張ってみるよ。君に好かれるように。……こんな風に、殴られなくても済むように。だから、ちょっとだけ……付き合ってくれる?」
満身創痍、ってわけでもないけど、どう考えてもしんどそうな体で、それでも先生は笑った。いつものニヤニヤじゃない、自然な笑い方で。
きっとこれは同情心から来てる。自分にそう言い聞かせながら、俺はゆっくり頷いた。気付いたら俺も、笑っていた。あー、なにやってんだろ、俺。
俺は、料理も出来なきゃ裁縫も下手だ。小中の時の家庭科の成績は、五段階評価で三がベスト。とにかく手先は不器用で、家事なんてほとんど手伝わない。
なのに俺が家庭クラブにいる理由は、多分この変わった顧問が、不覚にも気に入ってしまったから。
「あ、ところで夏休みに合宿とかあるんだけど、どう? どうせ男二人だから、同じ部屋で二人きりだよ」
「下心見え見えですよ先生。捕まるぞマジで」
……それが好きになるまで、どれだけ時間が掛かるのかは……、俺にも分からない。
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