夕暮れ

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 その日は、とても綺麗な夕暮れだった。  静かな街角にある古臭い一軒家が、俺の家だった。いつものようにきちんと戸を閉めてから三和土(たたき)に入ると、トイレに立ったであろう親父と顔を合わせた。 「お前、また怪我こさえてきたのか」  仕方がないなと言わんばかりの顔で俺を抱えて、台所へ向かう。この家の薬箱は台所にあり、必然的に治療はいつもそこで行うことになるのだ。  今日の怪我は目の上と耳たぶだった。先週できた傷は額の真ん中で、その時も親父に似たような顔をされた。そのせいだろうか、消毒液を塗った綿棒が少し乱暴に俺の目の上に押しつけられる。 「お前も少しは懲りたらどうだ」  相手が喧嘩を売ってきたんだから、買わないわけにはいかないじゃないか。縄張を荒らす奴は許さない。 「まぁ、足に怪我をしてないだけまだましか」  当たり前だろう。俺が足だの尻だのを怪我するような軟弱者に見えるか? 「とりあえずこれでいいな。さて、飯にするか」  そう言っておきながら、親父は煙草を一本くわえて火をつけた。うまそうに煙を吸い込んで、ゆっくり吐き出す。大嫌いなその臭いから逃げ出すため、俺は台所の隣にある居間に向かった。  居間で一人、うつらうつらしている間に、少しだけ夢を見た。  俺が拾われた時のことだった。  捨てられたのは雨の日で、拾われたのは晴れた日だった。俺を段ボールに入れて捨てた子どもが、せめてこれだけはと親に頼んで入れて貰ったミルクの皿と、雨よけの小さな傘が、俺に残されたものだった。すぐ傍は踏切で、ひっきりなしに電車(その時はそれがなんなのか分からなかったが)が通った。段ボールでできた家はそのたびに揺れ、激しい音が俺の耳を突き刺した。  まだガキだった俺は、音と揺れの恐怖にただ必死でなくことしかできず、頼みの綱だったミルクもすぐに底が尽きた。最初は助けてくれとないていたはずなのに、いつしか腹が減った、なにか食べ物をと叫んでいた。だが、誰も俺を顧みることなく、足早に俺の前を歩き去っていった。  俺の前に足を止める人がいないわけではなかった。しかし、その誰もが俺を哀れむばかりで、なにもしてくれなかった。俺も俺で、狭い段ボールだけが自分の縄張だと思いこみ、外へ出て食べ物を探そうとしなかった。  声らしい声を出せなくなり、目を開ける気力もなくなりつつある頃、俺は温かい大きな手に抱かれて、唯一の縄張を出ていくことになった。  その時のことは、靄がかかったようにぼんやりとしか覚えていない。気がつけば静かで落ち着いた場所に寝かされていて、傍にミルクの注がれた椀が置いてあった。なにも食べていなかったはずなのに、不思議と腹は減っていなかった。  俺は立ち上がって、おそるおそる周りを見回した。すぐ傍に、小山のような男が座っていた。 「お、やっと起きたか」  それが、俺が聞いた一番最初の親父の言葉だった。 「お、やっと起きたか」  目を覚ました俺のすぐ傍で、親父は晩酌をしていた。ちゃぶ台の上の肴は、珍しくまぐろの刺身だった。俺の分も、ちゃんと用意してある。 「年金入ったばっかりだしな。たまにはこういうのもいいだろ」  笑い皺の寄った顔で、親父はうんうんと頷いていた。だけど、俺は白身魚の方があっさりしていて好きだ。  最近、腹の調子が悪いからか、生ものや油の多いものを食べると戻しそうになる。俺ももう、若くはないということだろう。  親父も同じだ。俺を拾ってくれた時は、まだ髪の黒が残っていたが、今ではすっかり真っ白になっている。それに、顔だけでなく手も皺だらけで、ところどころにシミができていた。最近は、体の節々にもがたがきているらしく、階段の上り下りですら辛そうだ。  そろそろ、覚悟した方がいいかもしれない。きっと、お互いにそう思っているだろう。  だけど、だからこそ、俺は変わらず親父と接してきた。きっと、俺は最期のその時が来るまで、親父の隣で飯を食い、親父の足下で寝ているだろう。たとえそれが、本能に逆らう行為であっても、俺はかまわない。  それが、少しでも親父への恩返しになるのならば。  古臭い呼び鈴が鳴ったのは、夕食を食べ終えてすぐだった。親父は皿洗いを途中でやめて、玄関へ向かった。なんだか気になって、俺もその後に続く。  玄関に立っていたのは、厚化粧をした若い女だった。見覚えがある。 「どうしたんだこんな時間に」 「ちょっと、お父さんに話しておきたいことがあって」  そう言いながら、そいつは勝手に三和土に入った。我が物顔で靴を脱ぎ捨てて居間に入り、いつもの親父の席に座り込む。 「変わらないわね、この家」 「変わらないさ。変える金もない」  親父は女の向かいに座り、煙草を手に取った。とたん、そいつはすごく嫌そうな顔をした。 「煙草はやめてって、言ってるでしょ。体によくないし、家にも臭いがつくじゃない」  煙草嫌いは俺も同じだが、こいつとは仲良くなれそうにない。他人の家で、さも自分の家のように振る舞うのもいけすかないし、親父を見る時の嫌な目が気に入らなかった。 「お父さんだって、もう若くないんだから。そんなものやめて、ゲートボールでもしたら?」 「嫌だよ。一度行ってみたが、あれはつまらん」 「お父さんて昔からそうだったわ。なにを勧めても文句つけて、結局は部屋でごろごろしてばかりだったじゃない。そんなだから友達も少ないのよ」  つま先でも噛みちぎって、この小うるさい女を黙らせてやろうか。そう思ったが、こいつはこいつなりに親父のことを思って言っているかもしれないと考え直し、とりあえず女の足下までいった。香水のつもりなのか、やたらと鼻につく甘い香りが気になった。 「そんなことより、話ってなんだ」  ちゃぶ台の下からでも、今の親父を想像できた。苦虫を噛み潰したような顔をして、煙草のフィルターをいじっているだろう。 「単刀直入に言うわ。お父さん、私たちと住まない? 一人でこんな家に住んでたって、寂しいだけでしょ」  同情してやってるつもりなのだろうか。その居丈高(いたけだか)な口調は、きっとあの嫌な眼光と一緒になって、親父を突き刺しているに違いない。 「……お前の家はマンションだろ。住めるわけないじゃないか」 「大丈夫よ。エレベーターだってあるし、家の中の段差だって、ここより遙かに少ないわ。それに隙間風も吹かないし、アロマを焚いてるから空気もきれいよ」  なにを言ってるんだ、この女は。わけがわからない単語ばかり並べていれば、親父や俺が納得すると思っているのだろうか。 「煙草の吸えない家なんて、嫌だね」 「ベランダで吸えばいいわよ。ホタル族って知ってる?」 「蛍は関係ないだろ。とにかく俺は、この家を離れるのは嫌だ。それに」  突然、親父はちゃぶ台の下から俺を引きずり出した。 「こいつはどうするんだ。マンションじゃあ一緒に住めないだろ」  女の嫌な視線が、今度は俺に突き刺さる。 「そんなかわいげのない老いぼれ猫、どこかに捨ててくればいいでしょ。どうせ先が長くないんだから」  捨てる……。どこかに、捨てる? 「いい加減にしろ!」 「たかが猫一匹で怒鳴らないでよ! だいたい……」  たかが、猫一匹……。ああ、そうだ。俺はこいつとは違う。親父の本当の子にはなれない。ずっと前から分かっていたんだ、そんなことは。俺は親父と、言葉すら交わせないんだ。  ……いいや。そういえば、俺は一つだけ方法を知っている。  気づけば、女は立ち上がっていた。 「とにかく、一緒に住むこと、考えておいてよ」  親父は苛々しながら煙草に火を点け、「さっさと帰れ」とだけ吐き捨てた。 「本当に考えといてよ、お父さん」  それだけ言って、女は殊更に大きな音を立て、家を出て行った。外はもう、暗闇だけが支配する世界だった。  煙草の煙が、安い電灯の光の中で揺れている。ふぅ、と親父が息を吐くと、穏やかだった煙の波がぐちゃぐちゃに乱れた。 「風呂にでも、入るかな」  呟く親父の背中は、ひどく狭く見えた。  俺は、静かに勝手口へ向かった。風呂場の電気がついたのを確認して、外へ出る。  玄関から道路まで、香水の臭いはたっぷり残っていたから、後をつけるのは簡単だった。暗闇の中でぽつりぽつりと街灯が光っていて、あいつはその後を辿るように歩いていた。  俺が忍び寄っていることに、全く気づいていない。この鈍感な性格が、俺にとっては幸いだった。  少し立ち止まり、息を整える。女が街灯の真下に行くまで待とう。ひどく憎いはずなのに、不思議と俺は冷静だった。ひょっとしたらこれが、忘れていたはずの本能なのかもしれない。  助走をつけて、首筋へと跳んだ。爪が肩に食い込んだことでやっと女は俺に気づいたらしいが、もう遅い。  どこを狙えばいいか、わかっていた。  俺は、振り払おうと暴れる女の首に、思い切り噛み付いた。思ったより、固い。  女が叫んだ。かまわず、更に深く噛んだ。血が口の中に溢れる。肩に食い込んでいた爪が、肉を裂いた。なにか、固いものが爪に触れた。滑り落ちそうになり、もっと上に爪を食い込ませた。血が更に溢れる。  だが、女が体を振り回すせいで、とどめがさせない。それどころか俺は、しがみつくことで精一杯になっていた。 「この、糞猫!」  ひときわ大きく、女の体が揺れた。たまらず、俺は爪を引き抜いて地面に降りた。  ごん、という鈍い音がしたのは、その時だった。  先ほどまで暴れていたのが嘘のように、女は大人しくなった。口から溢れた白い泡と、首から流れた血が混ざって、服を赤く濡らした。  街灯にもたれかかるようにして、女は座り込んだ。そのまま、ぴくりとも動かない。  まだだ。これで終わりじゃない。俺にはまだ、やることがある。そして、俺は女の体に食らいついた。  次の日の朝、俺は慣れない体にぎくしゃくしながら家に帰った。勝手口から入ろうとして思い直し、玄関に向かう。 「親……お父さん、おはよう」  玄関から声をかけると、しばらくして親父は眠い目をこすりながらやってきた。 「……どうした?」 「昨夜(ゆうべ)はごめんなさい。私、言いすぎたわ」 「……いいよ。お前の言うことも、もっともだ」 「本当に、ごめんなさい」 「いいから。それよりお前、顔色悪いぞ。服も少し汚いし、どうしたんだ」 「昨夜、ちょっとね。ひどいこけ方をしちゃって」 「あがっていけ。消毒くらいできるぞ」 「いいの。それより、あの子のこと、大切にしてあげてね」 「あの子? ああ、そういえば昨夜から姿が見えないな」 「そこで見かけたわ。すぐ帰ってくるんじゃないかしら。お父さんもあの子も、もういい年なんだから、あんまり無理しないでね。あと、煙草も控えてあげて」 「わかったわかった」 「……じゃあね。さよなら」 「気をつけて帰れよ」 「うん。ありがとう」  玄関を出てすぐ、俺は元の体に戻って、勝手口へ向かった。腹の中にはまだ、女の血肉が残っていたが、もうこんなものは必要ないだろう。  女が行方不明になったと聞いたのは、その翌日だった。    
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