街の灯火

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街の灯火 「日向さんもどうですか」  師走のあわただしい午後。仕事をひと段落した同僚たちがさっきから飲み会の相談をしているのには気が付いていた。焼き鳥がいいか、もつ鍋がいいか。日本酒の地酒はあるか、それともワインがいいか。定時の少し前、私に飲み会の誘いをかけてくるのは決まって新入社員か、一番若手の社員だ。おそらく誰かの入れ知恵だろう。 「いや、今日は用事がありますので。すみません。少ないけど会計の足しにしてください」  そう言っていくらか包む。するとその新人がうやうやしく頭を下げる。彼の役目もそれで終わりだ。「日向さんは欠席だそうです」「ああ、そう」遠くの方で会話が聞こえてくる。気がつけば私も職場の中で上から数えたほうが早いくらいの年齢になった。若い連中からすれば飲み会になど来ないほうが気が楽というものだろう。  用事というのは結婚記念日のことだ。記念日には私が料理するというのがもう何年も前からの我が家の慣わしだ。職場の帰りにスーパーに寄って食材を買う。妻はくたくたに煮た大根が好きなので、記念日にはちょっと手の込んだ出汁で作るおでんを作る。時間のかかる牛すじは昨日から下処理をしている。ステーキでもカニでももっと豪勢なものを作ってもいいと言っていたのだけど、妻にとってはこれが一番のごちそうらしい。  若くて金のないときに時間だけは余っていたのでよく作った料理だ。今の会社で正社員になり、いつの間にかそれなりの役職に就くようになったのでこんなに手間のかかる料理は1年に一度になった。妻が気を遣っていたのかそれとも本当に本心からこれが一番の好物だったのか、今となってはもう聞く術もない。  料理といえば思い出すのが鴨そばだ。妻は料理の得意な人だった。私の一番の好物は妻の作った鴨そばだ。と言っても手間のかかる料理ではないので料理自慢の妻はそれを言うといつも嫌がるのだが。なにしろうちで鴨そばと言っている料理はそもそも鴨を使っていない。市販の乾麺に鶏胸肉の炒めたものを載せただけ。どうやって味付けしているのか、結局最後まで教えてくれなかった。醤油やめんつゆをつかって甘辛く味付けしてあることは確かなのだけど。  鴨そばは私にとって人生のどん底を象徴してもいる。仕事がなく逃げるように引っ越してきたボロアパートで作ってくれたのが鴨そばだった。 「どんなに辛い時でもお腹は空くでしょう」というのが妻の言葉だ。「そういうときには暖かいものを食べるの。そうしたらなんとか大丈夫だって思えるようになるから」  その日は大晦日で、アパートには布団すらなかった。私たちはなんとか隣の住人から貸してもらったカセットコンロをつかって鍋からその鴨そばを食べ、お互いにしがみついてなんとかその夜を乗り越えた。願わくばもういちどあの鴨そばを食べたいと思うのだけど、それは叶わない。  電車の吊り革につかまりながら私は私がこれまでに手にしたものと失ったものについて考えた。その手触りと、残滓について思いを馳せた。そのうちにあたりが薄暗くなり、街灯に火が灯る。集合住宅の窓にオレンジ色の灯りがぽつぽつと点灯しはじめた。右手にさっき買った食材の重みを感じながら遠くのほうで暮れていく太陽をながめていた。 了
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