送迎者

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 誰かのためにならお金を使えるが、自分のためとなると、途端にケチになる。このことに気づいたのは、母さんの変化を感じ始めた頃のことだった。  実家にいた頃――学生時代はどうだっただろうと、記憶を掘り起こす。やはり、ケチ、という印象はない。しかし、母さんは自分の分だけおかずの量を少なくしたり、ダイエットなんてしていないくせに「ダイエットしてる」とか言って、数が足りないスイーツを自分だけ我慢したりしていた。  お金の使い方に違和感を覚えなかったから、昔からのケチ(よく言えば節約上手)で自己犠牲なところがあることに、なかなか気づけなかった。  他人の面倒はよく見るくせに、自分の面倒を見るのは下手くそだった。  もっと早くに気づいていたら、違う今を生きているのだろうと思うと、ふわふわとした気分になる。  夢を見て、その中で溺れて、ああ幸せだなぁ、なんて呟く。  ハッと目を覚まして、現実の渦に呑まれて、後悔をブクブクと膨らませる。  父さんが死ぬまでの間、母さんとは病院で会っていた。家に行くことはなくて、だから家が荒れ果てていることに気づいたのは、父さんが死んだ後のことだった。  明らかにゴミとわかるものも、明らかにゴミではないものも、あちらこちらに放られて荒れた家に、父さんは帰ってきた。  沈んだ母さんに声をかけながら、最低限の片付けをすることにした。 「みかんの皮、捨てるよ」  返事はない。しかし、返事を待っていたら何もできない。  私は綺麗に折りたたまれたみかんの皮を、ひとつひとつゴミ袋に入れていった。もともと母さんは、みかんの皮を適当にむく人だった。そんな母さんがみかんの皮をこうして丁寧に扱うようになったのは、父さんの影響だった。  私が小さい頃、父さんが「みかんの皮をどっちが上手くむけるか勝負しよう」と言い始め、むいた皮を綺麗に折りたたむところまで競ったことがある。審判は、母さんだった。母さんに贔屓してもらわないと、私は父さんに勝てなくて、悔しくて悔しくて、食べきれないほど皮をむいた。  そんな私の姿を見て、「じゃあ私もやってみようかな」と、母さんも皮をむき、たたみ始めた。はじめは私に勝たせるために下手くそを装っているのかと思ったが、その視線は真剣そのもので、大真面目に下手くそであることがわかった。 「え、悔しい。もう一回」 「もう、みかんないよ」 「うそ。箱で買ったのに?」 「うん。それで、このむいちゃったみかん、どうする?」 「あら……。冷蔵庫にでも、入れておく?」  母さんは今も、こうしてむいて、たたんでいたんだな。  時の流れが歪むのを感じた。あの時のままと、時が経ち、老いた今とがぶつかり合い、激しく波打つ。 「これも、片付けようね」 「――ッ!」  山のように積まれた、父さんが好きだったつまみ菓子に手を伸ばした時、母さんが怒鳴った。なんと言ったのか分からないくらい、砕けた言葉を叫んだ。  怒りのような熱く尖った感情を吐き出した後、まるで火が消えたように背を丸め、言った。 「お迎えはいつかなぁ」  ああ、ひとりにしてはならない。と、思った。 「しばらく、こっちにいるよ」 「何言ってるのよ。あなたにはあなたの生活があるでしょう」 「でも、さ?」 「子どももいるんだから。年寄りよりも、若者の面倒を見なさい。その方が、未来のためよ」 「そりゃ、そうかもしれないけどさ」 「私が、お父さんを追いかけるとか、思ってる?」 「うーん。まぁ」 「そうしたい気分だけど、そうできないよ」 「なんで?」 「私は自分で自分の命を終わらせる勇気なんてないし。孫をそういうおばあちゃんがいる子にしたいと思わない。それに、一緒に連れて行ってもらえなかったのなら、せめてお父さんが見られなかった世界を見ないとね」  強引に笑う。  こんな顔、見たことあるな。  あの時は、変な笑い方、としか思わなかったけど。  母さんのこの顔は、無理をしている時の顔だったんだ。 「それならやっぱり、運転したら」 「そうね。外へ出ないと、見られなかった世界を見ることなんて、できないものね。うん。考えておくわ」
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