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若い夫婦
「ねぇ、あなた、今日は仕事、遅くならない?」
「そうだなぁ。できるだけ早く帰るよ」
「寄り道はダメよ」
「わかってるよ。まっすぐ、君のもとへ帰ってくるから」
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
背後に飛び交う瑞々しい夫婦の会話。女はそれを耳にし、ほっこりした気分。
「あなた、忘れ物よ」
「忘れもの?」
「ちょっとこっちに来て」
そこで会話が止まる。どうかしたのだろうか? 振り返るとそこには、唇を重ね合わせる二人がいた。
さすがにちょっとやり過ぎじゃない?
悟られないようサッと向き直ると、女は自身の倫理観に尋ねる。若い夫婦だから? 若すぎる夫婦だから? それくらいはしょうがないか――二人の行為を咎めることなく、夕飯の支度を続けた。
「ただいま」
しばらくして、背後で声がした。どうやら亭主が帰宅したようだ。
「あれ? ただいまぁー」
妻からの返事がない。
「ねぇ、ただいまってばぁ」
不安が滲む夫の声。ねだるように妻に帰宅を知らせる。違和感を覚えた女は、後ろを振り返る。するとそこには、冷たい目で夫を睨みつける妻が鎮座していた。
「あなた。隠し事してるでしょ?」
「え?!」
「正直に言って!」
「か、隠し事なんて――」
「わたし知ってるの! あなた、浮気してるでしょ!! 証拠だってあるんだから! もう言い逃れはできないよ!」
スマートフォンを手にした妻は、荒々しい手つきで画面をなぞり、夫に突きつけた。
「誰? この女?」
「そ、それは――」
「楽しそうに手をつないでる写真、いっしょにご飯を食べてる写真、誕生日をお祝いする写真。それだけじゃない……いっしょにお風呂に入ってる写真だってある。浮気してるじゃないの!」
今にも泣き出しそうな夫。すると妻が、俯く夫の頬を叩いた。鈍い音が響く。それを見た女は、慌てて止めに入った。
「ちょっとちょっと、おままごとなんだから、ムキにならないの。そんな妙な設定にしなくてもいいじゃない。もっと楽しく遊べば――」
涙目の息子――俊の頬を、母である女がさすってやった。
「あなたでしょ?」
「えっ?」
「彼の浮気相手、あなたでしょ?」
呆気に取られる女。息子の幼馴染である千里の視線が突き刺さる。
「答えなさいよ!」
「千里ちゃん、落ち着いて……急にどうしちゃったの?」
腰を屈め、千里と目線を合わせる女。そこにはいつもの幼い笑顔はなく、ひとりの女の憎悪に満ちた瞳があった。
「ぎゃっ!」
頬に痛み。じわじわと熱を帯びてくる。手をあててみると、真っ赤な血が滲んでいた。千里の手にはカッターナイフ。女は、自分が切りつけられたことに気づいた。
「これから先、少しでも彼に近づいたら、こんなんじゃ済まないからね」
低い声色で脅してくる千里の迫力に気圧され、逃げ腰になった女は、後ずさるように尻もちをついた。
「あっ、そろそろ帰らなくちゃ」
時計に目をやる千里。まるで別人にでもなったように、その幼さを取り戻した。
「俊くん、おばちゃん、ありがとう! わたし、帰るね! また遊ぼうね!」
帰り支度を済ませ、鼻歌を歌いながら千里が玄関へと向かう。顔色を失った女は、震える息子の手を握った。おどおどしながら、彼女を玄関まで見送る。
「じゃあね!」
靴を履き終えた千里が玄関ドアを開ける。と、その時だった。何かを思い出したように振り返る千里。ポケットからスマートフォンを取り出すと、それを見せつけてきた。
画面には女が楽しそうに男と手をつなぐ写真、一緒にご飯を食べる写真、誕生日を祝う写真。それだけじゃない。男――千里の父と女が一緒に風呂に入る写真が次々と晒された。
「お宅の夫婦関係がうまく行ってないからって、ヨソの家の男に手を出すんじゃないよ」
大人の声色へと変化した千里は、突き刺すような目で女を睨みつけた。
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