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人を轢いてしまった。
真夜中、残業帰りに街灯も碌にない田舎町で信号機のある歩道を渡らず道路を横断してきたお爺さんを、確かな衝撃と共にぶつかり轢いてしまった。
慌てて車から出てお爺さんを見ると既に事切れているかもしれないくらいの出血量だった。
震える手でスマホを取り出して救急車を呼ぼうとし、悪魔が俺に囁いた。
今なら誰も見てはいない。
辺りを見回しても人影はいない。
車もヘッドライト付近に僅かなへこみがあるだけだ。
後で思えばこの時の俺は冷静じゃなかった。
助かるかもしれない命を見殺しにしたんだ。
俺は慌てて車に戻ると急いで家に戻った。
そこからの記憶はない。
いつの間にか風呂に入ってベッドで寝ており朝飯を食べて、習慣とは怖いもので、気が付いたのが出社のタイムカードの音だった。
社内でもまだ轢き逃げの話は出ていなかったが、昼休みにテレビのニュースを見ていたら報道されていた。
それもどこか他人事のように見て、車のへこみはいつ保険会社に連絡しようか悩んでいた。
今すぐにだと怪しまれるかもしれない。この事件と結び付けられるかもしれない。
でもあまりに遅いとそれはそれで不自然だ。
悩みながら帰宅するために車に乗ろうとすると女性社員に声を掛けられた。
「そのへこみ、どうされたんですか?」
滅多に女性に話し掛けられないのに、こんな時にそんなことを訊ねないでくれ!
「ちょっとぶつけてね」
「そうなんですね。お身体はご無事なようで良かったです。それじゃ」
一体なんだったんだ?今まで会話もしたことない彼女の背を見送り自身も車に乗り込む。
まさか昨日のことを目撃していたとか?
そうだとしたらどうしよう。
車の中でしばらく思案したが、相手が行動を起こさない限りどうしようもない。
そう思って帰路についた。
そして、その月の十五日に脅迫状が届いた。
事故を起こした道路に横たわるあの老人と様子を見ている俺を映した写真を同封し一通の紙に口座番号と金額が書かれていた。
これは脅迫だ。
あの時、自分以外に人は居なかった筈なのにやはりどこかで誰かに見られていたんだ!
やはり彼女なのか?あの時の言葉は暗に見ていたぞという警告なのか?
そして、そのまま毎月十五日に同じ写真と口座番号と金額がか書かれた手紙が届くようになった。
ちなみに轢き逃げのニュースは二日目には芸能人の結婚で騒がれなくなったし、警察も今のところ俺の元へは来ていない。
俺は少し安心して保険会社に連絡して車の修理をした。
それから俺は件の彼女の真意を探るべく積極的に話をするようになった。
最初は彼女もこちらの様子を伺っているようだったが、何回か食事に行くうちに自身のことを話すようになる程度には親しくなっていった。
今日も定番となってしまったカフェで仕事終わりにお茶をする。
お互い車なので居酒屋よりはこういうカフェの方が女性も喜ぶと思って選んだが、どうやら正解のようですっかり気に入ってくれた。
「私、バードウォッチングが趣味なんですよね。この間は奮発して夜鳥も見れる双眼鏡買っちゃいました」
「へぇ、そうなんだ」
そのこの間はいつのことなんだ?事件より前のことなのか?その双眼鏡で事件を見て写真を撮ったのか?
問いただそうとする気持ちを理性で抑えてひとつずつ聞いていく。
やはり双眼鏡は事件の前に購入しているようだった。
「バードウォッチングって意外とお金が掛かるんですよね。どこかへ行ったり、双眼鏡やカメラも色々種類もあるし。だからいつもお金が足りなくて貧乏してるんです」
なんて和やかに笑っているが、それが脅迫の原因か?ならそんな趣味やめてしまえ!
怒鳴りたくなるのを我慢する。
元々轢き逃げをした俺が悪いんだ。
だけれど、こんな脅迫が続いたら俺の心身と残高がすり減ってしまう。
ここは、彼女も殺すべきなのか?
もう、一人殺してしまったんだ。
今更もう一人増えたところで関係はない。
「あの……」
「なんだい?」
俺が彼女をどうやって殺そうか考えていると訊ねられる。
「どうして私なんかを誘ってくださるんですか」
君が脅迫者かもしれないからだよ。
「なんでだろうね?」
にこりと笑っても内心はいつ殺そうか算段をつけているから人間って怖い。俺ってこういうやつだっけ?
彼女は俺が笑うと赤くなるけれど、それも演技なんだろう。
下手にトリックやなんかを考えても実際にやるのは難しい。
お爺さんの時みたく、不意の事故を装えばいい。
いや、車はもう傷付けたくないから通り魔に見せ掛けるか?
そうと決まったらホームセンターで包丁でも買おう。他のものと一緒に、怪しまれないように。
そして俺は犯行に及んだ。
休日の夜、聞いておいた連絡先から呼び出して背後から突き刺し、驚いたのかバランスを崩したのか正面を向いた彼女を何度も刺した。
そして絶命したのを確認して包丁を突き刺したまま警察と救急車に電話した。
警察車両と救急車はすぐに来た。
事情聴取の際には考えておいた言い訳でシラを切る。
「夕飯でもと思って呼び出して目的地に着いたら彼女があんなことになっていたんです」
彼女とは何度も食事に行っており、本人も周囲に話をしていたことから俺と彼女は夕食を共にしていても不自然はない。
その場はそれで警察署に行くこともなく解放された。
翌日、俺は警察署に呼び出された。
任意同行だから断ってもいいとは言われたが、ここで変に断っても印象がつくだけだ。
何を聞かれたいか分からないが、ここは上手く切り抜けるしかない。
大丈夫だ。
一人目もバレなかった。
今度もきっと上手くいく。
軽々しくそうたかを括って警察署に出向くと、取調室に連れて行かれた。
「君が犯人だろう?」
老年の刑事に開口一番そう言われた。
「なんでそう思うんですか?」
「痴情の縺れが一番動機としてはあり得るからさ」
安直な理由に笑いが出そうになる。
そもそも俺と彼女はそんな関係じゃない。
「俺と彼女はそんな関係じゃありませんよ」
苦笑して刑事に答えるけれど、刑事も笑いながら返してくる。
「そうかなぁ。彼女の部屋に日記があってね。頻繁に食事に行っているようだけれど?」
「食事に一緒に行くくらい同僚の誰とでもしますよ」
事実、こうなることを踏まえて轢き逃げからは積極的に同僚と食事をしたり行動を共にした。
彼女だけが特別じゃない。
「背後から刺された後、腹を何度も刺されたんなら余程の怨恨じゃないですか?」
俺が言った言葉に刑事は笑みを深くする。
「なんで腹を刺されたことを知っているんだい?」
しまった、と思って舌打ちをしたくなる。
「報道では背後を刺した後に正面を刺したとしかどこも言ってないはずだけれど、君はどこでそれを知ったんだい?」
嵌められた!
「……それは」
「君が犯人だろう」
今度は疑問符はなかった。
俺が犯人だとこの刑事は最初から断定していたんだろう。
何の策もなくここまで来たんだ。認めるしかない。
「なんで彼女を殺したんだい?」
俺は十五日の脅迫者のことを話した。
「ふーむ。聞いていた彼女の人物像とかけ離れていると思うが、君は彼女が目撃者だと思ったんだね?」
「はい。それに毎月十五日に今日ですねって言うんですよ?怪しいじゃないですか」
「それは給料日のことじゃないかい?君たちのところは毎月十五日が給料日だろう?
それに、彼女は純粋に君が好きだったみたいだよ。日記にも書かれてある。食事に誘われて嬉しいとも」
だろうな、と思った。彼女の俺を見る目には段々と熱が籠っていった。
「それじゃあ、脅迫者は誰なんですか?」
「それなんだよねぇ。新たな謎が増えてしまったよ」
そう言い残して老年の刑事は取調室から出て行ってしまった。
彼女が脅迫者じゃなくて純粋に俺のことを好きでいてくれたのなら申し訳ないことをしてしまった……。悔いても仕方がないが、俺にはもう彼女の冥福を祈るしかない。
それから独房で数日間祈る日々を過ごしていると、また老年の刑事に取調室へ呼ばれた。
「目撃者がわかったからね。一応報告をしておこうと思って」
「本当ですか!?一体誰なんですか!?」
俺を散々苦しめ、俺の勘違いのせいとはいえ同僚を殺してしまった切っ掛け。
憎い、留置所に入れられても殺したい相手。
「それは言えないなぁ。犯人は中学生だしね」
刑事のその一言でそういえば轢き殺してしまったお爺さんに中学生の孫がいるとニュースでやっていたな、と思い出した。
話題に飢えていたニュースはお爺さんが呆けていることも、孫がそれをいいことにクレジットカードを乱用していたことも報道していた。
その孫だ。
直感だったが脅迫者は俺が轢き殺したお爺さんの孫だと思った。
俺は刑務所に入ることになったが、刑務所から出たら絶対にその孫には今度こそ復讐してやると心に決めた。
こうして俺はまた思い込みから人殺しを決意することになる。
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