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1.はぁ、はぁ⋯⋯すみません空気が薄くて。
初めて夢中になった男は2次元だった。
映像化もされた小説『蠍の毒を持った女』のレオナルド・ストリア。
私は彼のことを心から愛していた。
現実世界の男には不満ばかりだ。
「七海、結婚しよう」
目の前でプロポーズしているのは10年以上付き合った男タケルだ。
しかし、私は全くときめかない。
彼は今まで定期的に浮気をしてきた。
その度に泣いて縋られたので、許してきたが全く懲りない。
彼はケチくさく1円単位まで割り勘する。
時間にルーズで1時間くらい待たせても謝りもしない。
彼とずるずると付き合って10年だ。
正直、また新たに男を作るのが面倒で、彼を引っ張ってきた。
しかし、私は本当にこれから死ぬまで彼と付き合うつもりなのだろうか。
(でも、私も30歳だしな⋯⋯)
「七海? 返事は?」
自信満々の顔で見つめる彼は断られる可能性を考えていない。
私の女盛りの20代を独占しただけあって自信があるのだろう。
「私、好きな人いがいるの⋯⋯」
生まれて初めて本音を人に話した。
結婚するならば、私が如何にオタクかを知って貰っておいた方が良いと思ったのだ。
私が彼に不満を抱きながらずるずる付き合っていたのは、私には本命がいたからだ。
決して、私が触れることを許されない至高の存在レオナルド・ストリアだ。
3次元の私が2次元に触れることはない。
「はあ? 浮気してたのかよ。このビッチ女が」
ここで何人のカップルが成婚したのかと思うような高級レストラン。
目の前のナイフで胸を突かれた女は私が初めてだろう。
モラハラ夫になるかもしれないと思っていた彼氏は、DVヤローになるリスクも持っていたようだ。
意識が途絶えていく。
助産師として私は追われるように仕事をしていた。
小さい頃から夢に見ていた仕事で、念願の命の誕生の現場には立ち会えてきた。
しかし、仕事は私の人生の保証はしてくれない、してくれるのは給料という形での生活保障だ。
幸せが欲しい⋯⋯私の心のオアシス⋯⋯レオナルド。
目を開けると、そこには銀髪に空色の瞳をした男がいた。
まさしく私が思い続けていた人レオナルド・ストリアだ。
「レオナルド! 本当にレオナルド・ストリア?」
(あれ? 私、ナイフで刺されたんじゃ)
私は興奮して彼に近づき、濡れた落ち葉で滑って転んでしまった。
起きあがろうとした私を彼が支える。
その手の温もりが衣服越しに伝わってくるようで、私は感動のあまり震えた。
(なんと温かい手⋯⋯好き過ぎる)
小道を作る為に置かれている脇に並べられた岩に血がついている。
(転んで頭ごっちんしたのか⋯⋯)
「あぁ、レオナルド様⋯⋯好きです。私を今すぐにでもあなたのものにしてください」
思わず出た本音にレオナルドが目を逸らした。
「どうしたのだ? 頭を打っていたようだが大丈夫か? 君と私の関係は政略的なものなのに⋯⋯君はいつからそんな風に僕のことを⋯⋯」
「頭! 打ったのですか? そういえば流血してますね。私の心もレオナルドに会えて嬉しいので泣いています」
頭に手をやると、手が真っ赤に染まった。
かなり後頭部から血が出ているようだ。
「もしかして、私、リリアナ・マケーリ侯爵令嬢ですか?」
「そうだよ。流血のリリアナ⋯⋯」
七海としての私は胸を刺され死に、異世界転生したのだろうか。
(それとも、神は私が死ぬ前に大好きなレオナルドを見せてくれているのかもしれない⋯⋯)
私は夢かもしれないが、今リリアナ・マケーリになっているらしい。
リリアナ・マケーリはヒロイン、ミーナ・ビクトー男爵令嬢に散々嫉妬し嫌がらせする悪役令嬢だ。
嫉妬の原因は自分の婚約者であるレオナルドがミーナに夢中で、自分を見てくれないからだ。
(レオナルドの心を得られなくても、彼の側にいられて尽くすことができるのに何の不満があるのか⋯⋯)
「レオナルド様! 私、あなたの愛はいりません。ただ、あなたの側にいたいのです。朝起きてあなたがいて、夜寝る時にあなたがいる。そんな幸せがあれば死んでも良い!」
「本当に頭をやってしまったようだ⋯⋯君は僕のことなんか愛していない。むしろ、実家の為に僕を利用しようとしているはずなんだが⋯⋯」
戸惑ったように小さな声で私に伝えてくるレオナルドが愛おしい。
(君が好きだと叫びたいってこういう感じね!)
「違います! むしろ私を利用してください。食い尽くして抱いてください。あなた様の為に生き、死にゆく存在です」
私は長年恋焦がれた推しを前に興奮していた。
レオナルドはヒロインのお相手ではない。
いわゆる、ヒロインに恋焦がれ捨てられる当て馬だ。
ただ、ヒロインがモテて魅力的だということを表現する為の存在だ。
(振り向いても貰えない相手を想い続ける一途さが好き過ぎる!)
「レオナルド⋯⋯あなたとの時間が堪らないのです⋯⋯」
私は薄れゆく彼の姿に手を伸ばしながら、意識が遠のいていくのを感じる。
彼の瞳に今の私リリアナ・マケーリの姿が映っている。
赤いウェーブ髪に緑色の瞳⋯⋯私は物語において舞台装置にすぎないリリアナ・マケーリだ。
意地悪に耐えるミーナの芯の強さを表現する為に作られた悪役令嬢だ。
クリスマスカラーのワガママ娘の彼女はレオナルドを悩ませたけど、私は彼を幸せにしたい。
大好きなレオナルドと一緒に少しでもいられればそれで良い。
リリアナ・マケーリは帝国一の大金持ちの侯爵家の令嬢だ。
そして、実は経済的に困っているストリア公爵家のレオナルドと婚約する。
彼の地位目当ての婚約で、マケーリ侯爵家はこの婚約を機にレオナルドの家の持っている権力を吸い尽くす。
(吸い尽くされたいのは、私の方だわ⋯⋯)
「本当に酷く頭を打ったみたいだな⋯⋯僕のどこがそんなに好きなんだ?」
呆れたように頭を掻きながら話すレオナルド様の澄み渡る空のような瞳が吸い込まれそうに美しい。
(レオナルド様が話しかけてくれている! 意識を手放すのは勿体無いわ)
「はぁ、はぁ⋯⋯すみません空気が薄くて。レオナルド様の一途なところが好きです。ミーナ様を思い続けているところが!」
私の言葉にレオナルドは困ったような表情をした。
「私がミーナ様とレオナルド様を結びつけて見せます。大好きです。レオナルド様! あなたの幸せの為にこれより生きていくことを誓います」
「リリアナ⋯⋯君がそこまで思い詰めているとは⋯⋯」
私を見つめながら頬に手を添えてくるレオナルド様に私は感動の涙が溢れてきた。
(なんと慈悲深い!)
「レオナルド様、ミーナ・ビクトー男爵令嬢がお見えです」
執事がレオナルドに耳打ちした言葉は私の耳まで届いた。
ミーナが聖女の力に目覚めるまでは、レオナルドとミーナは恋人だった。
ミーナが王宮暮らしではなく、レオナルドを訪ねてくるということは今はまだその段階だ。
「私、用事を思い出しました! レオナルド様、大丈夫ですよ。あなたは絶対にミーナ様と幸せになります」
私はレオナルド様に囁くと、聖地巡礼に向かう準備をした。
彼は私の急に変わった態度に驚いているようだった。
(無理もないかな⋯⋯リリアナはミーナに嫉妬して意地悪する悪役令嬢だもの⋯⋯)
「待ってくれ! せめて、頭の傷の治療を受けたまえ」
後ろからレオナルド様の良いお声がした。
それだけで、世界が薔薇色に染まる心地がする。
(程よく低く甘い声、たまらないわ⋯⋯)
私に彼の慈悲は必要ない。
私は彼がこの世界にいるだけで幸せなオタクだ。
(早速、『蠍の毒を持った女』の世界⋯⋯この夢の世界を探索させてもらおうじゃない!)
『蠍の毒を持った女』は作者の失踪により未完に終わっている。
物語はアッサム王子とミーナが結ばれたところで途絶えているのだ。
私は男主人公とヒロインが結ばれた後の物語など蛇足だと思っていた。
どうせ描かれるのは2人のイチャイチャで、私のお目当ては当て馬レオナルドだからだ。
この時の私は作者の失踪理由も、この物語のタイトルの意味も何も分かっていなかった。
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