09.沸騰したお湯

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09.沸騰したお湯

 それから数日のあいだ、透はもう一度ちゃんと話を聞いてほしいと何度も和子に訴えた。けれど、和子はけっして首を縦に振らない。 「子どもだってまだ小さいし、今からお金がかかるのよ。それに会社を辞めてお店開いても、失敗したらどうするの? 借金だって必要なんでしょ。貯金だって将来のために貯めてるんだから」  和子はそう言って反対するばかりだった。透にしても和子に強い口調でそう言われると、それ以上は反論できそうもなかった。  それでも、平日の夜は透の帰りは遅かった。コーヒーの淹れ方や軽食の作り方を習いに行ったのだろう。  本格的な梅雨がやってきた。毎日のように街を雨が濡らした。うんざりするほどの雨。千夏も学もお父さんと遊びに行きたいと言いたそうにはしているが、どこか遠慮しているみたいだった。雨のせいで、どこにも出かけられないと思っているのかもしれない。  次の日曜日がやってきた。目を覚ますと、前日からの雨の音が部屋の中に静かに響いていた。そんな雨音に混じって、台所から何か物音が聞こえてくる。和子は起き上がる。千夏と透がぐっすりと眠る向こうで寝ているはずの透の姿がない。  和子は子どもたちを起こさないようにそっと置き出し、台所に入る。そこではコーヒーを淹れる準備をしている透の姿。 「おはよう。和子、もう起きたの?」 「もう起きたのって、透さんこれは……」  出来立てのサンドイッチが皿の上に並んでいた。ハムとレタスとチーズを挟んだもの。それにスクランブルエッグを挟んだもの。 「このあいだの和子とのやりとりを師匠に話してみたんだ。そしたら、今までの修行の成果を奥さんに見せてやれってね」  そう言いながらも透は手挽きミルでコーヒー豆をガリガリと挽きはじめた。そうするうちにお湯が湧き上がる。挽いたばかりのコーヒー豆をフィルターに落とし、沸騰したお湯が適温に冷めるのを待ち、そっとフィルターにお湯を注ぐ。台所いっぱいに香りが広がる。 「和子はゆっくり座って待っててよ」  透にそう言われ、和子はお茶の間で子どもたちが起きてくるのを待つ。台所に立つ透を見たのも何年ぶりだろう。和子は真剣な表情でコーヒーを淹れる透に、若い頃の透の姿を重ねる。
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