レディカクタス

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 やあ僕の愛しのレディ、君は覚えているかい。僕たちが出会った日のことを。  あの日、外は大変な嵐だった。僕が寝床にしていたボロ小屋の軒下にもじゃぶじゃぶと雨が吹き込んで来て、たまらず雨風を凌げる場所を探しに飛び出した先に佇んでいたのが君だった。  僕は土砂降りの中彷徨って、たまたま塀の下にあいていた小さな抜け穴を通って一軒家の玄関先に辿り着いた。そこで震えていたら突然扉が開いて、奥さんが出てきて言ったんだ。「あら、ずぶ濡れ。かわいそうな黒猫ちゃん」って。  奥さんはすごい人だよ。雨に濡れた汚い野良猫を快く招き入れてくれたんだから。  でも、扉が開いた瞬間に僕の目に飛び込んで来たのは、窓辺に居た君だ。小さな鉢植えに乗った丸い躯体は空を自由に飛ぶ気球のようで、君の肌は朝一番の積雪のようだった。  紛れもなく、僕の初恋だった。  そうだ僕の愛しのレディ、あの日のことを忘れちゃいけないね。  奥さんが丁寧に面倒を見てくれたおかげで、僕の体調はみるみる良くなった。毛並みもすぐに整って艶々と光り、いつしか僕の自慢のひとつになった。  いつも窓辺の君を見上げていた僕は、窓から差すお日様の光を浴びると、僕の真っ黒な毛並みはよりいっそう美しく輝くことに気がついた。一歩踏み出すために体を捻ると、夜の海のように光の波が僕の背を走る。君にそれをアピールするために、何度も何度も窓辺の床を行ったり来たりしたけれど、君は僕に声を掛けてくれやしなかった。  だから僕は痺れを切らして、ついに窓枠に飛び乗ったんだ。君の隣にね。  あの日のことは謝るよ。ずっと君に無視されていたと思っていたんだ。だからちょっとじゃれるつもりで君をちょいと鼻先でつついたら、君のトゲが鼻に刺さって、僕はギャっと飛び退いた。  その反動で君の鉢を落としてしまったんだよね。  奥さんは「まあ、いたずらはダメよ」なんて言ってこぼれた土を集めて、君を元の場所に戻した。  その時、僕は初めて君が笑うのを見た。 「見かけによらずやんちゃなのね、美しい夜空の背の人」って。  僕が毛並みをアピールしていたのを君はちゃんと気付いていたんだね。思わず赤面した僕を見て、君はもう一度笑った。  そして、その日から僕らは言葉を交わすようになった。  ねえ僕の愛しのレディ、僕たちは間違いなく愛し合っていたよね。  毎日君の隣を目指して窓辺に飛び乗っても君の態度はいつも同じ。「こんにちは夜空の人」って一言だけ。僕はだんだん不安になっていた。 「ねえ、何か君の気に障るような事をしたかな」 「どうして?」 「僕は君ともっといろんな話がしたいんだよ」  君は驚いていたよね。本当はサボテンはあまりおしゃべりしないって事を、僕はその時初めて知った。  君があまり話さない代わりに、僕が窓から見える様々な風景についてたくさん話す事にした。向かいのアパートが外壁の塗り直しに失敗して変なグリーンになっちゃった事や、雷雨の日に雲に走った稲妻の恐ろしさや、奥さんの新しい車の滑らかな形ついて。  君はいつも楽しそうに聞いてくれた。「もっと聞かせて」って。  そしてある日、君がだしぬけに切り出したんだ。 「私も貴方を楽しませてあげたいわ」なんてね。  一体何が始まるのかと僕がドギマギしていたら「夜にまたここへ来て」なんて言うもんだから拍子抜けして、僕は「今じゃダメなの?」なんて食い下がったっけ。  実際、それは夜じゃなきゃダメだった。  奥さんが寝てからそっと窓辺に戻った僕は、君にとても驚かされた。  君が、小さなピンクの花をつけていたから。  鮮やかなピンクの花は君の頭をぐるりと囲うように咲いていて、まるで少女が花冠をかぶっているみたいだった。  あまりにも美しかった。 「驚いた?」  君は恥ずかしそうに笑った。 「驚いたよ、とても……」僕は柄にもなく口籠り「とても……綺麗だ」とそれだけ絞り出した。  言葉を紡ぐ代わりに、僕は君にそっとキスした。トゲが刺さらないように気をつけながら。  あの夜、僕たちは紛れもなく結ばれた。猫とサボテンは夫婦になれないなんて決まりはないんだから。  窓辺で静かに語り合う事が、僕たちの愛の形だった。     僕の愛しのレディ、きっと君は気付いているよね。僕に終わりが近づいていることを。君と僕では時の流れる速さが違う。僕の目はもうほとんど光を捕まえられないし、自慢の毛並みもすっかりまばらになってしまった。  それでも、鼻先で君を撫でればあの頃と変わらず君のトゲがチクチクと鼻をくすぐる。僕はもう慌てて飛び退くことはしない。  僕たちは結構良い夫婦だったよね。移り気な僕と、個人主義な君がこれほど良いパートナーになるなんて誰も想像しなかっただろう。君と窓辺で並んで見上げた悠々と揺蕩う雲の美しさや、命を育む夏の前の雨の匂いや、枯れ葉が擦れ合って奏でる交響曲こそが世界の本質だと思えたのは君と出会ったからだ。  食い物のことばかり考えて生きていたその日暮らしの僕に、君が教えてくれたことだ。    ああ、なんだか疲れたな。こんなにたくさん話すのは久しぶりだったからね。何も夫らしいことは出来なかった僕だけど、君が寂しい気持ちになるのを想像するのは辛い。  僕が空に昇ったら、一番に君の事を探すよ。だから何か合図を出してね。  この窓辺を探すのは大変かもしれないけれど、君の合図に向かって僕は会いに行くからね。  ああ、僕の愛しいレディ。さようなら、レディ・カクタス。  *  小さな同居人を失ってからもうひと月が過ぎた。  毎晩ペット用の簡易な仏壇に手を合わせてからベッドに入るのが私の習慣になっている。  今日もそうして静かに手を合わせ、顔を上げた瞬間なんだかいつもと違う感じがした。 「あら……?」  違和感の正体に気がつく。  窓辺に置いたサボテンが、ピンクの可愛らしい花をつけていた。手を掛けるでもなく窓辺に置いたままにしているから、しょっちゅう花をつけるわけではない。  たしか、前はあの子が来たばかりだった頃……  懐かしい気持ちで窓辺に近づいたとき、夜空で一筋、星が流れた。
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