たばこ

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 木曜日、2限が終わった頃。急遽、3限と4限がまとめて休講になった。交通に関するトラブルの影響らしい。3限と4限がなくなっても5限はあった。全部なくなってしまえばよかったのに。  1回くらいさぼったって単位は取れる。だから、5限の1コマくらいさぼってしまえばいい。そう思うのに、私にはできない。  どうしてか教授にいたく気に入られてしまった。講義に臨む姿が立派だとかなんとか。「いつでも進路や講義に関する相談に乗るから」と言われて、聞いてもいないのに教授の電話番号を教えられた。次いで、私の番号を聞かれた。断り方が分からなかった。以来、着信がある度に不安がよぎるようになった。教授から電話がかかってきたことはまだ一度もない。もしも講義を休んだら、余計な機会を与えてしまうかもしれない。不発弾に心を蝕まれている。  講義の終わり頃に出される課題もいやだった。通常は、提出した課題は翌週以降に採点されて返される。そのはずなのに、私が課題を提出すると、その場で出来栄えを確かめられることが何度もあった。私だけ。満足そうに頷かれたり、分からないところはないかと聞かれたり。ひどいと思う。ひどいと思うけれど、勝手に寄せられた期待を裏切れない。褒められた態度は崩せないし、その態度にふさわしい成績を収めなければいけない。  5限。行きたくないけれど、さぼるわけにはいかない。それまでどうしよう。一度、家に帰るか、5限まで大学に残るか。  色々こだわった結果、自宅と大学の距離が遠くなってしまった。ここで2コマ分の時間を潰すのも、自宅まで往復するのも億劫だった。  突如、空白と所在なさを押し付けられて、身の置き所に困った。そういうことを話していたら美咲が反応した。 「うちくる?」  美咲のその言葉で、やるせなさから掬われて心が浮上した。美咲といると楽。 「あ、うん。いく」  ずいぶんと軽やかな誘いだと思った。少しでも重々しい雰囲気があれば、私も重々しく受け止めて、相手の意図を探って、できる限りの忖度をするつもりでいた。  いや、そういう態度で誘いや申し出に対するのが私の常であったというだけで、今はなんの心積もりもなかった。額面通りに言葉を受け止めて、そのとき思い浮かんだ言葉をそのまま口にしていた。正直、油断していたと思う。  私を利する、あるいは、相手が損する誘いや申し出があれば、その真意を探る。だから、まずは利害関係について調査する。不明確な点が見つかれば、さらなる調査を実施する。今回に限っては、そういった習慣をなおざりにして「いく」と答えていた。  家に行くだけ。ただそれだけのことなのだから、そこに特別な利害関係が発生することもない。そう思えば、今回の怠慢について特別思うべきところはなかった、と判断してもよい気もする。どうだろう?  大学生になって初めて親元を離れて一人暮らしを始めた。もちろん家主は私。家に関する全権を私が握ることになった。この家のすべてを支配したと思った瞬間、私の中に動物めいた縄張り意識が生まれた。余所者を私の家に招くことは、完全に掌握したはずの家に関する権限を一部明け渡すことのように思われた。惜しい。人を家に入れたくない。私の家、私だけの場所、ここを汚されたくない。  人を家に入れたくないから、相手にもそういう意識がないか配慮するようになった。少なくとも「迷惑じゃない?」と尋ねるくらいのことは特別な注意を払わなくてもできるはずだった。 「美咲はさ、あけすけというか、ずけずけというか、あまり遠慮しないタイプじゃない?」  私は、少し先を行く美咲に話しかけた。 「どうだろう? その言い方の方が遠慮がない気がするけど?」 「そうなんだよね。私は遠慮を知る慎ましやかな女のはずなのに、無遠慮にお邪魔しますって言ってて、ちょっとびっくりしてた」 「なにそれ? 私が誘ったんだから遠慮しないでよ」  美咲は「それに」と付け足す。 「私は、素でいられる人と一緒にいたいから、私には遠慮しないでほしいな」  素の私。うまく想像できないけれど、あまり立派なものではないと思った。 「素の私を見たら、私のこと嫌いになるかもよ?」 「いいじゃん。そのときはそのときじゃん。お互い大人だから、嫌い同士でも上手に付き合えちゃうでしょ? 付き合わないって選択肢を用意してる私って、実は紳士的なんじゃないかな」  嫌われたくないが先に立つ私には、美咲の言葉はまぶし過ぎた。理解はできるけれど、納得することはむずかしい。嫌われてもいい、そういう生き方ができれば少しは楽になれるのかもしれない。  でも、そっか。美咲がそういうのなら、きっと、遠慮しなくてもいいのでしょう。 「まあ、でも。遠慮はしなくていいけど、警戒は必要かもね。誘われたからってホイホイついて行っちゃダメだよ」  遠慮についても警戒についても、人より厳重に取り締まっているつもり。反論したかったけれど、直前の失態に刺激された謙虚が膨れ上がっていて、適当な言葉を練り上げられない。 「こまこは男ウケしそうだから心配」 「あっ……」  思うところがあった。 「ん?」  ここは遠慮を発揮すべきところと思ったけれど、美咲だから、遠慮せずに言ってみる。 「それって悪口でしょ?」 「えっ? 褒め言葉のつもりだけど?」  美咲は歩みを止めて答える。私が構わずに追い抜くと、即座に再起して元の位置に復帰する。先程と同じペースで先導する。 「美咲の言いたいこと分かるよ。従順そう。押せばいけそう。そういう意味でしょ?」 「う~ん……、悪口のつもりはなかったけど。半分はかわいいなって意味」  不満をぶつけるつもりだったのに、かわいいに照れてしまって揺れる。 「……もう半分は?」 「まぁ、お察しの通り……?」  少し大げさに溜め息をついてみる。 「私の遠慮ってそういうのじゃないよ。自分が踏み込まれたくないところには踏み込まないだけ。あとは常識的な気遣い。それだけだよ」 「従順そう。いいじゃない? 他人のために自分を曲げられる。そういうやわらかい雰囲気って素敵だと思うよ。実際がどうであれ、そう思わせられることも才能だと思うけどね」 「みんな、折れやすそうな人ほど折ろうとするでしょ。私、それでずっと損してきたから」 「ああ、うん。まあ、あるかもね」 「他人に威圧感を与えたり、委縮させたりするような無愛想は最低。だから、愛想は必要だと思ってるけど。でも、それだけだよ」 「へぇ、そうなんだ。こまこの意外な一面を知っちゃった」 「……えと。かわいいは嬉しかった。それはありがと」 「こまこ、かわいい」  2回目の「かわいい」は恥ずかしくて聞こえない振りをした。  大学から歩いて5分程度。小ざっぱりとした家。手狭だからものは少ない方がいいのかもしれない。 「なんかきっちりしてるね」 「そう?」  部屋の中をまじまじと見つめる。ものが少ないから、部屋のおおよそのところを知るのに手間はかからなかった。ひとつ、ひどい違和感を放つものがあった。 「ねぇ? これって護身用?」  私はガラス製の物々しい灰皿を指差した。もういかにもって感じの。 「それって護身用になるのかな? 相手にとられたら意味なくない?」 「じゃあ、なに用なの……?」 「なに用だと思う?」  ガラス製の灰皿は、少しずつ角度の異なる面を無数に貼り付けたような格好をしていて、どの角度から見ても、やかましく光を放つ。なんだかすごく尊大な存在に見えた。 「……分かんない」 「これはね、たばこを吸ったときに出てくる灰を収めるための皿。灰皿って言うの。来客の際はこれに菓子を盛り付けたりもする。お菓子食べる?」 「美咲、たばこなんて吸うんだ……。意外……」 「そう? よく似合うって言われるけど?」  たばこは男の人が好んで吸うものというイメージがあった。だから、そう言っただけ。美咲という個人に焦点を合わせた場合、彼女にはたばこが似合うのかもしれない。 「たばこ、嫌い?」 「うん。嫌い。大嫌い。すっごく嫌い」 「吸ったことは?」 「ないけど、味も臭いも知ってる。父親が吸ってたから」 「それは知ってるとは言わないよ。まったく別物だもん」 「とにかく嫌い。いや」  私はたばこが大嫌いだった。  美咲がたばこを吸うと知って、ショックを受けているみたいだった。美咲のことは好き。けれど、その好きが揺らいでしまうかもしれない。 「私の実家さ。キッチンとリビングはカウンターで仕切られてるだけで、空間的に繋がってる形だったの。父親はキッチンにはめったに入らないから、キッチンの外側でカウンター越しにたばこを吸うんだけど。そのとき、換気扇のあるキッチンに向けて煙を吐き出すから、キッチンが煙くなるの。私がいてもいなくてもお構いなし」  本当に不愉快だった。まったく気遣いができない人間だから仕方がないとも思っていたが、結婚した姉が姪っ子を連れてきたときは、暑くても寒くても、たばこはベランダで吸っていた。当たり前の配慮だ。その当たり前の配慮にすら、ありつけずに私は煙を食らった。  先生は、喫煙は百害あって一利なしと滔々と語っていたし、私もよくよく納得した。「なぜ喫煙者は身体に悪いものを吸うのですか? なぜ喫煙をやめられないのですか?」、「依存性があるからです」。その害悪が、ただ他人の都合のみで不可避の代物となっていることがひどい理不尽に感じられた。  それが身体に悪いと教わったからかもしれない。たばこの煙にさらされると、めまいがしたり、頭が痛くなったりした。 「本当にいやだった。私はたばこの煙がいやだから、わざとらしく咳き込んだりするんだけど、みんな、気づかない振りする。私がいやがってるって分かってるくせに、誰もなにも変えようとしない。お父さんもお母さんもひどかった」 「お母さんも? こまままも吸うの?」 「吸わないけど、相談しても、まともにとりあってくれなかった。私の嫌いはいつも軽んじられてた。ろくでもない親だったと思う」 「ふうん。こまこ、すごいね」 「え? なにが?」 「身内の欠点って普通隠さない? 私だから話してくれるの?」  美咲がほのかに口元をゆるめて尋ねる。 「えっと、そんな大げさに考えてなかった」 「あら、残念」  たばこから想起された嫌な思い出。舌の上に落ちた灰の感触を愚痴として吐き出したかっただけ。身内の欠点というより、ただ単に私がつらかった話をしたかっただけ。 「美咲、あまりそういうこと気にしなさそうだけど……?」  美咲は、好き嫌い、得手不得手をあけっぴろげにしていて、嫌いや不得手を理由に依頼や要求をつっぱねることは日常茶飯事だった。 「そんなことない。家族の性質って、私の輪郭に穴を空けて押し入って、勝手に私のアイデンティティーになる。私にはどうにもできない私。できるだけ隠していたいよ」  珍しく、重々しい物言い。  私は深刻さを測りかねていた。普段なら立ち止まって、内情の調査に時間を割くところだけど、美咲だから、遠慮せずに疑問をぶつけてみた。 「でも、家族ってただの他人じゃん」  美咲はうっすら微笑んだ。 「そうかな?」 「そうだよ」 「じゃあさ、私の父親が元殺人犯で、母親がクレプトマニアだとしたら?」 「元殺人犯……?」  想像の枠を大きく越えた例え話。思わず、うまく飲み込めなかった言葉を吐き出した。もう一度、言って聞いて形を確かめたかったのかもしれない。 「そっか、そうだね。殺人犯は卒業できないね。じゃあ、殺人犯で。ついでに、弟が近所のお姉さんの元ストーカーで、警察から警告を受けて以来、部屋から出てこない引きこもりだとしたら?」  私の困惑を解きほぐすような形で言葉を繋ぐけれど、私の意識は「元殺人犯」の発する違和感を見逸れていた。 「全部、私とは関係のない人たちの話で、こまこはこれからも私と仲良くしてくれる?」  改めて「元殺人犯」の意味を研究しようとするも、そのための時間は与えてもらえなかった。 「……もちろん」 「言ったでしょ? 例え話だって」  深刻に受け取らないでよと美咲は笑う。  矛盾していると思った。自分で深刻な雰囲気を作ったくせに。私が想定よりも重く受け止めてしまったから、後からテコ入れしているのかもしれない。できるだけ軽薄に見えるように。 「こまぱぱはたばこを吸って煙を吐き出す。その煙をこまこは吸う。避けられないこと。同じ家で過ごして、お互いの吐いた息を吸って、ときどき同じ病気をもらったりする。自分の吸ってきた空気ってアイデンティティーの一部にはならない?」  少しだけ考える。考えて言葉をまとめる。  何度も何度も煙を吸い込んだ。けれど、私は最後まで灰の色には染まらなかった。 「悪いけど、少しも共感してあげられないや。美咲は美咲だし、私は私。ひとが雰囲気の色に染まるとは限らないでしょ? 美咲はその色に染まらなかった。だから、区別のある自分と他人を混同されるのが嫌なんでしょう? それだけでいいじゃない。私はたばこを吸わないし、ましてや、たばこの煙を他人に吸わせたりは絶対しない」 「分かんないよ。嫌って遠ざけたはずの性質が、どうしようもないくらい自分の色だったと気づくときが来るかもしれない。10分後のこまこはたばこを吸っていて、10年後のこまこは吐き出した煙を自分の子供に吸わせているかもしれない」  ありえない。例え話だとしても受け入れられないと思った。 「……怒るよ」 「怒らないでよ。だって、分からないじゃない」  私は護身用の灰皿を固く握って、高く振り上げた。 「死ぬ! 死ぬ! ごめんって!」  一瞬で青ざめる美咲の顔を見て満足する。灰皿をテーブルに戻すとガタンと大仰な音がした。重かった。腕がぷるぷるした。 「おっかない……」 「これで分かったでしょう。たばこは健康寿命を縮めるのです。ひとの健康を奪ってはいけない。単純な道徳の問題。そこを疑われるのはとってもとっても心外です」  私は、自他の区別なく健康を奪う行為は肯定したくないけれど。 「そうだね、ごめんね。でも――」  続く言葉に備えて、灰皿を手元に引き寄せておく。 「ちょ、ちょっと……!」 「ん?」 「それ、くれる……? 今、使いたいの」 「なあに? 今ここで吸うの?」 「いやなら外で吸うけど」 「……いいよ。慣れてるし、美咲の家だし」  私は大人しく灰皿を美咲の方に寄せた。  美咲はそれを受け取って、ポケットからたばことライターを取り出した。 「そう。ありがとう」  そう? ありがとう? 私の話聞いてなかったのかな?  私の顔を見て、美咲が笑う。 「こまこ、めっちゃ不満そうな顔するじゃん」 「するよ! 吸うか吸わないかは美咲が決めること。でも、近くで吸われたときに私がどんな気持ちになるかは伝えたよ。それが美咲の答えなんだなって」  私は美咲のことを睨んで言った。 「吸っていいって言ったくせに? こまこが忖度して、私を喜ばせる言葉を言うでしょう? そうしたら、私、今後も同じものをこまこに期待すると思う。付き合いが長くなったら、いつか我慢の限界に達して、こまこの愛想も尽きる。そのとき私は知るの。こまこからもらった喜びは虚無だったんだ、虚無を生み出すためにこまこに苦心させていたんだって」 「なあに? 私がいけないって言ってる?」 「口が寂しいの。ダメならダメって言ってよ、我慢するから。私は遠慮しないでって言ったでしょ。そういうの回りくどいよ」 「えぇ……、うわぁ……。ひっど……」  灰皿手に入れたら、やたら強気になるじゃん。 「嫌いになった? もとから嫌いだったらごめんだけど」 「うん。けっこう嫌いになっちゃったかも」 「私はますます好きになっちゃった。この気持ち、煙に巻かないとやってられない」 「……なに言ってるの?」 「たばこが吸いたい。すごく吸いたい。そう言ったの。こまこも一服どう?」 「いらない。ありえない」 「こまちゃん、ありえないなんて言わないで。食わず嫌いはいけない。多様性の時代だよ。知らずに嫌っちゃ相互理解が遠退く一方。少数派にも手を差し伸べてみてよ」 「うわぁ……。ひどい言葉。信じられない」 「なにがいけないのでしょう?」 「なにもかもだよ」  悪事にも使えてしまう誘い文句を、善を気取って言う態度! 悪徳以外のなにものでもないでしょう! 「知らないけど嫌いって突き放されたら寂しいなぁ。知った上で嫌われるなら、それはあなたの感性だから諦めるしかないけれど。試食とか試飲とか、それくらいの歩みよりはあってもいいんじゃないかしら?」 「よくもまあ、そんなに悪い誘いをもっともらしくできるね! 美咲、すごいよ、呆れちゃう」 「ありがと」 「褒めてないから」 「じゃあ、吸うよ」 「吸うの?」 「うん。こまこがたばこの話ばっかりするから、どんどん口が寂しくなって」 「ねえ、身体に悪いよ。やめなよ」  言っても意味なんてないと知ってる。  私が知っているたばこの悪性は、やっぱり、美咲も知っていて、それでもたばこを吸っている。正論なんて少しも役に立たない。それでも言ってみる。 「たばこ、やめてほしいの?」 「誰のためにもならないでしょ? やめた方がいいと思う。やめなよ」 「でもね。たばこってやめるのむずかしいんだよ。特にひとりでやめるのはむずかしい」 「知ってるよ。だから、始めないのが一番だった」 「通り過ぎちゃった。それはもう選べないなぁ」  美咲の細長い指先がたばこを一本取り出した。本当に吸うつもりらしい。 「ひとつもいいことなんてないでしょ? どうして始めちゃったの?」 「ひとつもいいことなんてないからだよ。だから始めちゃったの。私は毒が欲しかった。毒が欲しかったの。自暴自棄ってやつだったのかな?」  弱みを含ませた湿った声色。 「自分がいやで、傷つけたくて、でも、痛いのはいやで。たばこってちょうどいい自傷だったんだよね。苦い煙を吸い込んで咳き込んだとき、罪悪感が和らぐのを感じた。端的に言えば、気持ちよかった」 「罪って……?」 「私にはどうにもできない私の禊。身内が罪を犯したら、誰かが私を罰しようとする。手持ち無沙汰だったの。早く相応の罰を受けて身軽になりたいなって思って。痛くなくて、気持ちのいい、都合のいい罰があるじゃない? やだ、たばこって素晴らしいじゃん」  そっか。美咲は罰としてたばこを選んだ。自分を罰するために健康を遠ざけたかったんだ。 「今から吸うたばこは? それも禊なの?」 「ううん、ただの惰性」 「ねえ、言ったよ。美咲は美咲。自分を傷つけなくたっていいんだよ」 「ありがとう。でも、私はこまこと違って確信できないの。私は殺すかもしれない、盗むかもしれない、つきまとうかもしれない。その可能性を咎められてると思ったら、正直、納得しちゃったんだよね。納得してるくせに楽な罰を進んで選びとっちゃう。根本的に人間がダメなんだろうね」 「ダメなんかじゃないよ」 「こまこ、さっき言ってたでしょう? 他人を萎縮される無愛想は最低。私の性質はそういう類いのものなんじゃないかな? そのはた迷惑な性質を温存することは罪だって私も思う。手放せるものでもないんだけどね」 「そんなの……、美咲はそんなことしないよ」 「ええ? 自信ないなぁ」 「じゃあさ、私をそばに置いときなよ。私がそんなことさせないから」  私は美咲の右手をとって、胸元で固く握った。 「なにそれ? 最高。ずっとそばにいてくれるの?」 「たばこやめるなら」 「ええ、やばい、めっちゃうれしい」  美咲が嬉しそうに頬を赤らめる。 「たばこやめる?」 「…………」  迷うな! このバカ!  握る手に力を込める。 「こまこが協力してくれるなら、もしかしたら、やめられるかも」 「協力……?」 「さっきも言ったけど、一服付き合ってほしい。こまこと一緒に吸いたい。それを最後の一本にしたい」 「なんでだよ! 私が吸う必要ないでしょ!」  私が声を荒らげると、美咲は楽しそうに笑う。 「私とこまこは他人。私の罪も罰も他人事で、こまことはなんの関係もない。こまこの考え方はさっき聞いたけど。私、勘違いしたいの。私とこまこを混同したい。私の一部をこまこに混ぜて、こまこの一部を私に混ぜたい」 「なに言ってるのか全然分かんない!」  本当に分からない。美咲は私をどうしたいんだろう?  でも、美咲のためだったら我慢できると思う。 「……私が一緒にたばこ吸ったら、それを最後にするの?」 「うん」 「……本当に?」 「うん」 「……絶対?」 「絶対」 「……分かった」 「やったー! イエーイ!」  えっ、ちょっと、どういうテンションなの?  美咲は両手を突き上げてバンザイした。 「な、なんなの?」 「だってうれしいじゃん! 私のために大嫌いなたばこを吸ってくれるんでしょ! うれしいじゃん!」  言いながら、美咲は左手のたばこを咥えて、新しくもう一本を取り出した。それを私に手渡す。  心臓が、すごく、どきどきする。 「私と同じようにして。フィルター側、こっち側を咥えて」  見よう見まねでたばこを咥える。「10分後のこまこはたばこを吸って」いるかもしれない。美咲がそう言ったのはちょうど10分前だったかもしれない。 「火は私のたばこからあげるね。最後だから、忘れられない思い出にしたいの」  いいのかな。このまま吸っちゃって。  時間の流れが不規則になる。詰まって滞ったり、急いて速まったり。 「これ、タール数高めだから、あんまり初心者にやさしくないよ」  たばこなんて大嫌い。絶対に吸いたくない。それは今も変わらない。 「煙はいきなり吸い込まないでね。口のなかでいったん冷まして」  心臓がばくばく言う。怖い。そう思うと急に泣きたくなった。 「火をつけるには空気が必要でしょう? たばこを咥えながら息を吸い込んで。酸素を送るの」  美咲は、咥えたたばこの先端にライターの火を当てる。すぐにたばこの先端が赤く光る。  たばこだ。たばこの臭いだ。くゆる。血の気が引いていく。 「こまこはたばこの味も臭いも知ってるんでしょう? こまこの知ってるたばこはどんな味で、どんな臭いがするの?」  私の知ってるたばこは……。 「苦くて、まずい。鼻腔に、舌に、まとわりつくの。教わらなくたって分かる毒の味と臭い。吸い込んだら、たばこの粒子が内側に付着してざらざらする。ざらざら。でも、時間が経つと、付着した組織に馴染んで違和感がほどけていく。そのとき、赤い血に灰色が混じった気がして怖くなる。めまいがしたり、気持ち悪くなったり、頭が痛くなったり」 「たばこ、めちゃくちゃ嫌いじゃん」 「ずっとそう言ってるじゃん」  言って泣きそうになった。 「うん」 「累積していく毒を、ただ引き受けることしかできない。ずっと、この毒は私にとっては致命的なんじゃないかって思ってた。本当に怖くて、本当に苦しかったのに。誰も私の嫌いを気にしてくれなかった」 「こまこ、つらかったね。かわいそう」  火の点いたたばこを咥えた美咲が、私の髪を撫でながら言う。 「こまこは従順そう。私もそう思ってた。どれくらい従わせられるか試したいと思って家に呼んだの。たばこが嫌いって言うから、押せば嫌いなたばこも吸ってくれるかなって」  美咲の指先が、私の髪を、私の頬をなぞる。 「間違ってないよ。従順だと思われるのは大嫌い。大嫌いだけど、結局、断われないの。悪い人になりたくないだけ。それだけなのにむずかしい」  現に、たった今、大嫌いなたばこを吸おうとしている。  美咲の顔がすぐ近くにある。 「火、つけるよ」 「うん」  火の点いたたばこの先端を、私が咥えるたばこの先端に近づける。  どきどきする。苦しいくらいに。  たばこの先端が触れ合う瞬間に息を吸い込んで酸素を送らなければならない。いきなり煙を吸い込んではいけない。口の中で温度を下げなければいけない。 「こまこ、断ってもいいんだよ」  赤いたばこの先端が、ゆるやかに遠ざかった。 「なあに、今さら?」 「今さらって、まだ引き返せるところじゃん。始めないことが一番。さっき、そう言ってたでしょう?」 「うん」 「じゃあ、どうして?」 「美咲にとって、たばこは罰だったんでしょう? 罰だとしたら、私も潔く受け入れようと思って」 「なにか悪いことでもしたの?」 「なにも。小心者だもん。悪いことなんてしたことない。でも、たくさんの可能性があった。壊したいものがたくさんあった。その可能性の分の禊」  遠ざかった赤い先端を追いかけて、たばことたばこの先端を触れ合わせた。私は勢いよく息を吸う。ふたりの間でたばこの、触れ合った箇所が赤く輝いた。私は口腔に流れ込んでくる熱い煙を吸い込んだ。
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