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区役所に向かう途中、松野菜乃が歩道の段差に蹴躓いた。
「大丈夫か」
隣を歩いていた松野修平が、咄嗟に手を差し伸べ、蹴躓いてよろめく菜乃の体を支えた。
「ごめん。大丈夫」
そのやり取りを、二人とは逆方向から歩いてきた主婦が目の当たりにした。
「仲のいいご夫婦ですね」
その主婦が品のいい笑みを浮かべながら言ってくれた。二人もその笑みに答えるように、笑顔をくっつけ、ペコリと一礼した。
主婦も一礼して、立ち去ってゆく。その背を見送り、だいぶ小さくなったところで、
「聞いたか?」
修平が囁いた。
「うん。仲のいい夫婦やって」
菜乃の小声に、修平が噴き出す。菜乃もつられて笑った。
二人はまさに今、離婚届を出しに区役所に向かっていたのだ。その二人を「仲のいい夫婦」と称されても。
十年前、今と同じように区役所に婚姻届を出しに来たときは、こんなことになるなんて思っていなかった。
新生活の準備を相談しながら揃えたのは、離婚しようとしている今でも楽しかった思い出だ。
二人の間に子供ができ、順風満帆な生活を送っていた。その頃、修平は仕事が忙しくて残業続きで、家には寝に帰るだけになっていた。
子供の夜泣きや身の回りの世話を一人で担った菜乃。業績悪化で思うように会社に復帰できなかった。子供の発育に悩んだり、発熱でつきっきりになったり、子供に掛かり切りの生活。修平のことまで気が回らなかった。
子育てで必死な、会話がまともにできない菜乃より、自分の話を聞いてくれる後輩と仲を深めていた修平。菜乃にとっては裏切り以外の何ものでもなかった。
毎日喧嘩ばかりだった。
やがて、二人は離婚することにしたのだ。
離婚したら子供をどうするのか、真剣に話し合った。不思議なことに、他人になる準備をすることが、冷静に話し合えるきっかけだった。親権は菜乃だが、成人するまで二人で協力して子供の世話をすることになった。
区役所に向かう途中で、通りがかった主婦に「仲のいい夫婦」と言われ、笑えるようになるなんて、喧嘩ばかりの日々を送っていたときは想像もできなかった。
隣で笑う菜乃を、修平は懐かしく思った。そうや、菜乃はこんな笑顔をする人やった、と。子供みたいにクシャっと笑う顔を、可愛いなあと、惹かれたのに。いつの間に忘れていたのか。
菜乃は菜乃で、蹴躓いたときに支えてくれた修平を懐かしく思った。結婚前、困った時はいつでも助けてくれる頼りがいのある人だった、と。
最後の最後で、見ず知らずの人から、「仲のいい夫婦」と見られるなんて、「夫婦」って、何なんだろう。別れることになった今でも、二人には分からなかった。
「ま、最後にそう見えたのが餞だよな」
修平の意見に菜乃も頷く。
今日から別々の生活のスタート。仲のいい夫婦に見えたのは、そのスタートの餞だと二人は思ったのだ。
「行こうか」
「うん」
二人は区役所に向かっていったのだった。
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