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【八神くんと名塚くんのとあるクリスマス・イブ】
「メリーーークリスマス! プレゼントは? おーれーーー!」
「頭に響くからもう少し静かな声にしてくれ、頼むから」
休日に、八神の部屋まで無遠慮に名塚が上がり込んでくる。それはクリスマス、とか時期は関係なくいつもの光景であり、いつもの名塚だった。
もはや八神も諦めており、いきなり入ってくるな、と諭すことはない。その代わり振り返ることも座椅子から動くこともせず、今も机と向き合い続けていた。ひとつの問題を解き終わり、愛用のシャープペンシルで回答を書き込む。頁を捲り、次の問題を読む。
「とーるくんは何してんのよ?」
やはり気にした素振りもなく、八神の肩に手を添えて名塚が覗き込んだ。「げ、イブまで勉強かよー。しかも数学」
「冬休みになったら予備校の冬期講習なんだ。それまでに復習をやっておかないと」
「ふーん、眉間にしわ寄せてか」
何を思ったのか、名塚が手のひらを八神の額に当てる。「おー、とーるのおでこ温かくて気持ちいい」
「人のおでこを湯たんぽ替わりにするな」
「ちょっと休めば? 休憩も必要だろ」
「だから、その暇がないんだって」
さすがに絶え間なく話しかけられると問題が頭に入ってこない。
少し黙っててくれ。そう言おうと、八神が顔を上げた時だ。
「って言っても、頭痛いんだろ? いま」
目が、合う。
変わらない抑揚のまま、名塚が八神の頭を撫でた。「薬飲んだ?」
「………」
「? どした、口開いてるぞ?」
「………なんで、頭痛のこと」
「そりゃ、徹の顔見れば? なんか元気もないし」
名塚の顔は、至って真面目だった。
「いやだから、薬は飲んだのかって。取ってこようか? リビングのあの小棚にあるよな、確か。上から二段目の」
「………」
普段は喧しいくせに、その実よく見てて、察して、気遣える。そんな面を見る度に、好きだと再認識させられる。名塚真という、目の前の男を。
八神は頬杖を付いて項垂れた。「………反則だろ、こんなの」
「何が? よくわかんねーけどとりあえず薬取ってくるわ」
「いや、薬はいい。ここにあるから」
言って、八神は机の引き出しからいつもの頭痛薬を取り出す。
「だから……水を持ってきてくれると助かる」
「任せとけ」
名塚が笑顔を見せ、襖の開閉にも気を使った様子で部屋を出て行く。
それだけで、痛みが軽くなった気さえするから不思議なものだった。
「………やっぱり、反則だ」
シャープペンシルを置き、座椅子の背もたれに身を預けて、八神は独りごちた。
*
「………なあ、徹」
「なんだ」
「薬飲んだし、休憩すればって言ったのもおれだけど」
「何か問題があるか?」
「いや、問題というか、この格好が………なんというか、予想外だったというか………」
今現在、名塚が座椅子に座り、その膝を枕にして八神は寝転がっている。全て八神の指示であり、なんなら彼は眼鏡も外していた。
「プレゼントはおまえなんだろ?」
「いや………言ったけども………徹が真に受けると思わないじゃんか………」
やはりいつもからかい半分で言っているのか、とか、しどろもどろな名塚を見るのは新鮮で面白いな、などと思いつつ、しかしいつまでも困らせるのも忍びないし、今の八神にその気力がないのもまた事実だった。
「おまえの言う通りだよ」と、素直に八神は言った。
「確かに、調子が悪い状態で勉強しても捗らなかったな。だから落ち着く場所で少し休むことにしたんだ。問題あるか?」
「………落ち着く? おれの、膝が?」
心許ない名塚の声は、こちらが落ち着かなくなる。目を合わせてられなくて、八神は横を向いた。「じゃなかったら、わざわざおまえの膝を借りない」
「………そっか」
顔は見えない。でもその声音から、名塚が笑っているのがわかった。「徹が落ち着くんなら」
名塚の指が、八神の額に触れる。少し冷たさを感じる心地が八神にはちょうど良かった。
「……指が冷たいな。外は寒いのか?」
「あ、わりぃ。やだった?」
「いや、むしろ気持ちいい」
「徹って変わってるよな」
「おまえには言われたくないな」
「そりゃあ寒いぜ、クリスマスだもの。残念なことに雪は降ってないけど」
「そうか……クリスマスだもんな。おまえも浮かれるわけだ……」
他愛のない会話のなか、目を閉じるとうっかり寝てしまいそうになる。
「根詰めすぎなんじゃねえの?」と上から掛けられた声に、八神は目を瞬いた。
「勉強。今まだ高二の冬だぜ?」
「まだ、じゃない。もう、だ」
「感覚の違いって恐ろしい」
「俺の進路はおまえも知ってるだろうが」
八神の進路。それは両親が開業している眼科の跡を継ぐことだ。ちなみに誰に強制されたものではなく、自分の意志で八神はそう決めていた。幸い両親も応援してくれている。
就職先が決まっているようなものとはいえ、まずは医師免許を取得しないことには始まらない。そのためには何が何でも医学部に合格しなくてはならないのだ。勉強なんて、いくらしても足りないくらいだ。
「まあ、そりゃそうだけどよお」
「五教科七科目だぞ? やってもやっても終わりがない」
「徹の頭でもそうなんか?」
「俺を過信しすぎなんだ、おまえは……。俺くらいのやつは、どこにでもいる……」
額に手の甲を載せて、深い息を吐く。薬が効いてきたのか、心地良さと共に、八神の意識も混濁してくる。
「……だから……不安なんだ。やってもやっても、足りない気がして……」
「……徹?」
「いつもそうなんだ……自信がなくて……何をどうしたところで……何も為せないんじゃないかって……そんな気がして、ならなくて」
八神はいつも、自分の内面を見せない。十年来の付き合いである名塚でさえ、彼の口から本心など滅多に聞いたことがないのだ。ましてや、弱音など。
「そうしたら……俺には、何もないんじゃないかって」
「………」
この言葉は、徹の内なる声だ、と。
直感で、名塚は思っていた。普段は出さずに、心の奥へとしまい込まれている、彼の感情の波。
だから、遮ってはいけない。この声を止めてはならないんだと、名塚は自らに言い聞かせていた。
「必死なんだ、いつも……父さんも、母さんも、おまえ、にも……見捨てられたくない、から……」
それがどんなに辛いものでも。どんなに、異を唱えたいものでも。
「勉強……しなきゃ……」
うわ言のように零れた声が、やがて規則的な寝息に変わる。
名塚はもう一度、ゆっくり八神の頭を撫でた。
祈るように、何度も何度も、撫でた。
*
それから、幾ばくか経った頃。
「……ん……真……?」
「お。おはよ、徹」
「……いま、何時だ……?」
徐に八神が目を開け、眠る前と変わらない位置にいる名塚が問い掛けに応える。
「四時、かな。もうすぐおじさんたちも仕事終わるな」
「そんなに寝てたのか……俺は」
目を擦り、一度息を吐いてから八神は起き上がった。首筋に手を添え、軽く動かしてから名塚に向き直る。
「悪かったな、ずっと膝貸してくれてたのか。おまえ足痺れて」
「なあ、徹。あのさ」
珍しく真剣な様子の名塚に、立ち上がろうとしていた八神が動きを止めた。「どうした?」
「おじさんとおばさんもそうだと思うけど」
ぎゅっ、と名塚が八神の手を握る。
「少なくとも、おれは絶対おまえの傍にいるからな。たとえおまえが大学に落ちようが、浪人しようが、結果医者にならなくても、なんだって」
「………は?」
「むしろ見捨てるとか有り得ないし、何にもなくたっておまえがおまえなだけでおれは……ってか、何にもないなんてことあるわけねーし! おれ徹のすげーとこいっぱい知ってるし! 徹選手権があったら優勝できる自信あるってかおれ以外が優勝とか有り得ねーし! おじさんとおばさんには悪いけどそこは全力で」
「……いや、待て。熱弁はありがたいが、ちょっと止まれ」
言われた通りに名塚は止まる。当の八神と言えば、
「というか、何の話をしてるんだ? おまえは」
胸を打たれるどころか、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
「何の話って、徹の話だろお!」
その変わり身ぶりがあまりに納得いかなくて、名塚は叫んでいた。掴んでいた手も離し、勢いのまま目の前の男に人差し指を向ける。
「おまえが不安とか、何もないとか言うから!」
「俺が? 言うわけないだろ、そんなこと。おまえ寝てたんじゃないのか?」
「寝てたのは徹だろうが!」
「おかげで頭痛も治ったな。ありがとう」
「え? あ、それはよかった。どういたしまして……って、そうじゃなく!」
「俺の傍にいるのはいいが、おまえも早く自分の進路を決めろよ。俺が医者になるのは自分のためであってニートを養うためじゃないからな。俺は自立し合った関係がいいんだ。というか落ちるとか縁起でもないこと抜かすな、冬休み中出禁にするぞ」
「それは長い! せめて一日にしようぜ、徹! あれは言葉のあやだし謝るから!」
「まあそれはもののたとえだが」
しれっと言い放ち、八神は机に置いてあった眼鏡に手を伸ばした。綺麗に拭いてから眼鏡をかけ、瞬きをする。
「うん、よく寝てスッキリした。俺はこれから勉強を続けるから。またな。あ、今日はもう立ち入り禁止だ。開けるなよ」
「え? な? おい、とーる?」
言うなり、名塚はさっさと部屋から追い出され、ぴしゃんと襖が閉められた。先程までの弱った様子など、微塵も感じさせない容赦のなさで。
「いや、なあ徹! ちょっと待てって、話を」
「忘れてた」
「え? な」
「メリークリスマス」
一瞬襖が開けられたかと思えば、八神は名塚に小さな袋を渡してきた。クリスマスの装丁がされている、所謂子供が喜びそうなお菓子の詰め合わせ。
なんだよこれ、と問い返す間もなく、再び襖は閉められている。
完全に、名塚のことなど置いてきぼりで。
「………なんっでだよお、なんか納得いかねーんだけどお? おい、徹! 徹ってばよ!」
以降、名塚がいくら叫んでも、目の前の襖が開くことはなかった。
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