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北風が窓ガラスを叩く。
部屋に差し込んでいた西日がいつのまにか陰っていた。
柱時計を見上げると17時を指している。
「もうこんな時間なのね」
液タブとペンから手を離し、パソコンの画面から顔を上げる。
そろそろ夕食の支度をする時間だ。
さて、冷蔵庫には何が残っているだろうか。
腰を上げて伸びをして、四畳半の部屋から直通の台所へ向かった。
ピンポーン……。
チャイムが鳴った。
「? はーい」
「開いていますよ」と声を掛ける前に、勢いよく玄関扉が開いた。
「佐々木さん聞いてよ! ひどいのようちの人! ミネストローネが良いって言うの!! どう思う!?」
駆け込んできた女性が私の服を掴んで揺する。
「ちょ、ちょっと幸さん? 何ですかいきなりどういう状況??」
「たつくんが! コーンスープよりミネストローネが良いって言うの!!」
わっと泣き崩れた女性の名前は飯田幸さん。
引っ越してきて2カ月ほどたつ新妻さんで、何かあるたびにこのように押し入ってくる隣人だ。
「コーンスープよりミネストローネ??」
まったく意味が分からない。とりあえず泣きじゃくる彼女をなだめていると、開きっぱなしの玄関扉を何者かがノックする。
「佐々木さんも思うだろ? こんな寒い日にはミネストローネだってな」
帰ってきたばかりなのだろう、スーツにカバンを持ったまま、若干うざったい物腰でそんなことを言ってのける男がいた。
幸さんの夫である飯田達也さんだ。
私はため息をつきながら答える。
「いえ、こんな寒い日はこたつにお鍋とお酒ですね……」
「たつくん! なんなのよミネストローネミネストローネって! 私、たつくんが喜んでくれると思ってお鍋いっぱいにコーンスープつくって待ってたんだからね!!」
私の胸で泣いていた幸さんが立ち上がってかれに詰め寄る。
「へん! コーンスープなんて子供のスープだってんだ! 俺は大人なミネストローネが飲みたいんだよ! 昨日からずっとな!」
「まあ! 私なんて昨日からコーンスープって決めてたのに!!」
幸さんの顔が熱したヤカンのように赤くなっていく。
「ちょっとちょっと、ここ私の部屋なんで! 喧嘩するなら戻ってくださいよ!!」
こちとら仕事後で疲れてるのになんで犬も食わない夫婦喧嘩の仲裁をしなくちゃいけないのか……。
「佐々木さんちょっと待ってて!」
幸さんが怒り肩で私の部屋から出て行く。
「へん、思い知ったか!」
達也さんが勝利宣言をするが、幸さんはすぐさま戻ってきた。
「はい、これ、佐々木さん飲んでみて!」
鍋いっぱいのコーンスープをお椀によそって私に差し出す。
「え……」
お椀の中の湯気がたつ薄黄色の液体からまろやかな優しいおいしそうな匂いが漂ってくる。
幸さんを見ると飲めと言わんばかりの良い笑顔だった。
「えっと……」
「私のよそったコーンスープが飲めないの? 絶対美味しいから飲んでみて! 熱いならほら! ふーふーしてあげるから!!」
幸さんは一生懸命フーフーしてお椀を更に私に近づける。
もはや受け取るしかなくなった私は温かなお椀を両手で包んだ。
「そ、それじゃあ、一口だけ……」
一口すする。
クリーミーなコーンの甘みとスープのうま味が口いっぱいに広がった。
「あ、美味しい……」
私が呟いた瞬間、幸さんは達也さんを見上げて勝ち誇った。
「ほーら! 佐々木さんはコーンスープの方が良いって! 謝って! たつくん私とコーンスープに謝って!!」
「ぐぬぬぬ!」
悔しそうな達也さん。
「いや別に私コーンスープの方が良いって言ってな――」
「そこまで言うなら戦争だ幸ぃ! 佐々木さんちょっと台所貸してくれ!!」
「え、あ、あの? なにが? あなたたち一体何で喧嘩してるの??」
私の声など既に聞こえていないようだ。
達也さんは私の台所を勝手に使い、冷蔵庫の中を物色し、トマトを見つけ、幸さんは達也さんの後ろで「コーンスープの方が美味しいんですぅ!」と煽り続け……そしてなんやかんやあって達也さんとくせいミネストローネが出来上がってしまった。三人分。
「……幸さん、後で使った材料とか請求しますね」
「それはもちろん任せて! でもどっちが美味しかったか白黒つけてね?」
「頼むぜ佐々木さんよ。漫画家さんなんだろぉ?」
「漫画家は関係ないですそれ。はぁ、善処します……」
私の部屋での試食会となった。
前向きに考えれば、夕食を作る手間が省けたということになる。
まあ、そういう事にしておこう。
私はスプーンを手に、お皿に盛られた赤いミネストローネを一口すする。
トマトの酸味と、スープのまろやかさが絶妙だった。
野菜がたくさん入っているのも嬉しい。
私はスプーンを置き、両手を組んだ。
「うーん……」
「どっちですか? どっちが美味しかったんですか!?」
「どっちだ佐々木さん! やっぱりコーンスープなんてお子様のスープだろ!?」
「たつくんひどい! 佐々木さん! もう一回コーンスープを味見して!」
幸さんがいつの間にかお椀に注がれた熱々のコーンスープをスプーンにすくって私の口に。
「あつあっつあつ!! 冷まして!!」
「負けてられるか! 佐々木さん! ミネストローネもっと食ってくれ!!」
反対サイドから達也さんがスプーンですくったミネストローネを私の口元に。
「あっついあついですって! おち、落ち着いてくださいお二人とも!」
やけどするわ!
両手を広げて二人を跳ね飛ばした私は立ち上がってそれぞれを指さした。
「そもそも! 何の勝負なんですか! 喧嘩してましたよね? どうして喧嘩してたんですか! その結果私がどこかのお笑い芸人みたいに両サイドから熱々スープ攻めにされる意味は!? 私漫画家ですが!?」
肩で息をしながら叫び散らかす私を見て、二人は正座して頭を下げた。
「すみませんでした。俺、どうしてもミネストローネが飲みたくて……帰ってきたらコーンスープだったから、それで幸につらく当たって……」
「子供か!」
私がツッコむと達也さんは面目ないとうつむいた。
どうやら正気に戻ったようだ。
「ごめんね佐々木さん。私は、その、今日はたつくんとの記念日だったの。だから……」
顔を上げてどこかぽっとほほを染めた幸さん。
「記念日?」
訊き返すと彼女は「え?」と呆け顔の達也さんを見つめた。
「そうよ、たつくん。覚えてない。結婚する前にあの寒い公園で二人で飲んだコーンスープ。結婚してからも毎年飲もうねって決めたあの日の味を……」
「……あぁ!」
達也さんはすぐに幸さんを抱きしめた。
「ごめん! ごめんよ幸! オレすっかり忘れてた! なのにミネストローネが飲みたいなんてわがまま言って!!」
幸さんはぎゅっと達也さんを抱きしめ返して、すすり泣く。
「いいの! いいのよたつくん! 私こそ! たつくんがミネストローネ食べたがってるって知ってたのに! それでも記念日だからってコーンスープを優先して……」
「幸ぃいいいい!」
「たつくぅうううん!!」
…………夫婦喧嘩は終わったらしい。
「やれやれ熱々ね」
私はため息をつきながら食卓の上のコーンスープとミネストローネをそれぞれ眺めた。
夫婦喧嘩は犬も食わないって言うけども……あれ?
「口をつけた私は犬以下ってこと?」
ちゃ……ちゃうわい!
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