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話を聞くと、火元は隣の部屋で、それがうちの部屋まで燃え移ったらしい。
洋子はその時間、たまたま買い物に出ており、なんとか助かったようだ。
唯一、手に持っていたお金とスマートフォンも無事だった。
「これからどうする?」
ビジネスホテルの部屋で、ベッドに横たわる洋子に言った。
「どうするったって、どうにもできないじゃない」
「そうだけど……」
家の心配ではない。
お互いの、将来のことだ。
仕事はなくなくなった。
思い出がすべて消えた。
独身時代から使っていた食器、母から就職祝いにもらった腕時計。
洋子からもらった数々のプレゼント。
彼女の大切にしていたカバンやアクセサリーの類も。
すべてが炎に消し去られ、ただお互いの肉体だけがここに残っていた。
「最初は自分の部屋が燃えているのを見て、物をとりに入ろうと思った。数万、数十万もする服やカバンがたくさんあったから。ひとつでも、大切なルビーの石だけでもいいから、持ち出そうって。ばかだよね」
「……」
「でもね、だんだん燃え上がるうちに、どうでもよくなったの。ああもういいや。すべて燃えてしまえ、って」
「……」
「あんなに欲しくてたまらなくて買ったのに、焼けてしまえば不思議と悲しくないのね」
自分もそうだった。
たくさんの物を失ったのに、そこまで悲観的な気持ちにはならなかった。
悲しい、という感情をとうに通り越しているからかもしれない。
むしろ解放感さえある。
「今までごめんなさい」
妻がそう言った。こちらを見なくても、どんな顔をしているか想像できる。
どんなに心が離れたとしても、そのくらいには妻のことを知っているつもりだ。
「いいよ、べつに」
そういえば妻とこうして落ち着いて話すのは久しぶりだ。
ここ数年は毎日、仕事をこなすことで頭がいっぱいだった。
たまの休日だって、仕事の疲れを癒すために、昼まで寝るのがふつうだった。
そういえば二人で出かけたのっていつだっただろう。
口に出さなかったが、洋子は寂しかったのかもしれない。
「なるべく早く仕事をさがすよ。いくつか当てがあるんだ。また二人で暮らそう」
これが自分の精一杯の謝罪だった。
「そうだね」
「そしたらまた、旅行にでも行こうか」
「そうだね」
洋子はそう言った。
すべて分かっているみたいに。
きっとわかっているんだと思う。
僕が素直に謝れないことも、けれど申し訳なく思っていることも。
そして、すべてが焼き付くされても、洋子とこうして向き合えている今、ささやかな幸せを感じていることも。
洋子のほうも、そのくらいには僕のことをわかっている。
愛というほど綺麗なものではなく、長い年月が勝手に生んだ副産物だ。
「生きていきましょう」
洋子は強い口調で、自分に言い聞かせるようにそう言った。
あれほど庇護の対象だった妻が、ずいぶんとたくましく見えた。
こんな状況だからだろうか。それとも、火事が起こったことで、彼女の心の方にも何か変化が起きたのだろうか。
気付けば、洋子の方をずっと見てしまっていた。
ーーあなたがいないと生きていけない。
むかし付き合った女に、そう言われたことがある。
けれどそんなのまやかしだ。
ここで手を離しても洋子はきっと生きていける。
僕もそうだ。
たぶん、また立ち上がって生きていける。
「寝るわ」
「え?」
「明日、朝から仕事があるの。8時には出勤だから、7時にはここを出なきゃ」
「こんな時くらい休んだっていいだろう」
「こんな状況だからこそ、休まないほうがいいと思うのよ」
だけど貴方と生きていきましょう。
何度、炎をに焼かれても。
肉体と肉体の狭間で、僕は妻の背中にそう決心した。
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