8人が本棚に入れています
本棚に追加
「離婚してください。」
夫は、居間のテーブルの上に置かれているケジメの紙と、その後ろにどんと座っている私の顔を、驚いたように交互に見る。
「どういうことだ?」
「それはあなたが一番分かっているんじゃない? 」
「え……」
夫のとぼけたような顔を見て、自分の頭が熱くなるのがわかったが、なんとか抑え込んだ。
「仕事帰りに、あなたが若い女といるのを見ました。」
その瞬間、夫は時が止まったように固まり、すべてを悟ったように黙りこんだ。
やっぱりそうだったのね。
最初は『離婚』以外、なにも言おうと思っていなかった。もともと感情的になるのも、声を荒らげるのも好きじゃない。
冷静に、後腐れなく、さっぱりと別れよう。
そう思っていた。
けれど夫のその諦めきった顔を見たら、頭に血が抑えられなくなった。
あの若い女といるのをこと、あの女に好き放題、高価なカバンやアクセサリーを買っていたこと。
それなのに、私がたった2万円の服を買うと言うと、「高い」と文句をつけてきたこと。
1から10まですべて吐き出してしまった。
それだけでなく、これまで耐えてきた小さな鬱憤の数々を持ち出して、「それなのにあなたは」と夫の失態になすり付けた。
自分がこれほど怒り狂ったのはいつぶりだろうか。
怒れば怒るほど、夫と過ごしたこの40年、夫に尽くしたこの50年間がすべてムダだったように思えてきて、苦しくて情けなくて、涙がとめどなく溢れ出てきた。
そして最後にもう一度言った。
「別れましょう」
もういい。終わりだ。
借金やギャンブル、アルコール依存症ならまだ道はある。同じように地獄に落っこちてやることも、そこから引っぱりあげる努力もできるだろう。
でも、愛がなくなったなら、それまでだ。
夫の耳には間違いなくこの叫びが届いたはずだ。
なのに。
「いやだ」
夫は首を振った。
なぜ、どうして、なんども問いかけたのに、夫は「いやだ」というばかりでサインをしてくれなかった。
耐えられなくなった私は、家を出た。
もちろんアパートを借りるお金はないので、同じ敷地内にある母と父が住んでいた母屋に行っただけだ。
二人がこの世を去ってから、長く空き家になっていたが、親戚の集まりに使っているため、電気もガスも水道も通っている。
それに、生活できる程度の家具はすべて置きっぱなしだ。
なにより、夫と住んでいたはなれの家とはまったく繋がっていないし、玄関も別の方角にあるので、今後、顔を合わせることはほんどないだろう。
それからも何度も夫に離婚をこうた。
しかし夫は首を縦には振らなかった。
最初のコメントを投稿しよう!