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それからまもなく夫は衰弱していった。
最初は指先の震えと、ひどい便秘に悩まされ、しだいに歩幅が小さくなり、いつの間にか手すりがないとトイレにすら行けなくなった。
まるで私が夫の生き血を吸っているかのようだった。
訪問ヘルパーの人や、親戚に手伝ってもらって、なんとか夫を介護した。
病院に通って、顔や足腰のリハビリもした。
病気が急速に進行し、5年後、夫はこの世を去った。
パーキンソン病だった。
苦楽、という言葉では片付けられないほど、憎しみと幸せと感謝が入り交じった60年だった。
ーーーー
夫が死ぬ少し前、どういうわけか私は施設に入れられた。
いやだ、いやだ、と泣き叫んでも親戚や従兄弟に引っ張られて、強制的に入居させられた。
なぜ。どうして。
施設のベッドの上で泣いていると、二人の女性がやってくる。
片方の女性は知っている。
昔よくお人形遊びをした従兄弟の千恵ちゃんだ。
「静江ちゃん、元気にしてた?」
「千恵ちゃん……」
けれどもう片方は知らない女性だった。
だあれ?この人。
その女性が口を開く。
「お母さん」
お母さん?
なぜ私のことを、お母さん、と呼ぶのだろう。
「お母さん、元気にしてた?」
「あんたは誰だい?」
「何回言ったらわかるの。娘の由美子よ。」
由美子。そういえばそんな娘がいたような気がする。
いただろうか。覚えてない。
「ほんとうに静江ちゃん、由美子ちゃんのこと忘れちゃったのね」
千恵ちゃんが、片方の女に小声でそう言うのが聞こえた。
「もうずっと前から。会うと名前思い出したり、思い出さなかったり。お父さんと歩いていたときにも、別の女と間違えられて」
「そうなの」
「そのころ、夫が会社を立ち上げたばかりで、資金不足で会社が回らなくなったんです。どうにかお父さんに泣きついて、100万だけ援助してもらって。それ以外もちょくちょく生活費を」
「そんなことが……」
「でもそれだって、何度説明してもお母さんは『他の女に貢いでる』って思い込んでるんです」
だんだんと、二人が何を話しているのかよくわからなくなってきた。
人型だったシルエットが、真っ白にぼやけた2つの影になる。
それらがひらひらとうごめいて、ぼそぼそと日本語にもならない奇妙な声だけが漏れ聞こえてきた。
なにを言ってるかわからない。
わからないのに、私を責めているような気がするの。
いやだ。
いやよ。
いつかの日か、夫が頑として口にしていた言葉が、頭を駆けめぐる。
頭が真っ白になっていく。
早くむこうに行きたいわ。
ねえ……。
呼びかけようとして、言葉につまる。
なんて言っただろう。
顔は嫌というほど浮かぶのに、いくらみけんに皺を寄せて考えても、その男の名前が思い出せない。
大切だった人。ずっと傍にいてくれた人。
でも大丈夫。
あなたに会えたら、すぐに思い出せるわ。
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