前編

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前編

 六本木にある高層ビルの三〇階から眼下に広がる光の海を眺めながら巽は一人深いため息を溢した。  巽が勤める会社のオフィスが入るこのビルの裏手には芝生が広がる大きな公園があり、毎年冬になるとイルミネーションが開催され会期中は連日多くの観光客で賑わっている。一二月二四日の今日はクリスマスイブということもあり、会場はいつも以上に人で溢れているだろう。  同僚達の中にも仕事終わりに恋人と待ち合わせてイルミネーションを見に行くという者もいたが、一ヶ月前に恋人に振られたばかりの巽には関係のない話だ。自分も去年までは仕事を早く切り上げ恋人とイルミネーションを楽しんでいた筈なのに、今は何十万個ものLEDが灯す光を見たところでなんの感動も起きなかった。  大学を卒業する時に付き合った元恋人とは五年ほど付き合った。分かれる前は、今思えば倦怠期だったのかもしれないが、新鮮さがなくなった関係の中でもこのまま結婚するんだろうなとぼんやり考えていた。結果は相手の「好きな人ができた」の一言であっさり終わってしまったが。  しかし巽がショックだったのは、恋人に振られても、しかもそれが浮気だったと判明しても、自分の心の中には悲しさや悔しさではなく少しの安堵があったことだった。  巽はこれまで女性とお付き合いをしてきたし、その恋人達とはセックスだってしてきた。それは至極当たり前のことで、それを疑ったことはない。でも、いつも心の片隅に何かがあった。正体のわからないそれは目を逸らせないほど大きくなることも気づかないほど小さくなることもあったが、確実に巽の心を燻らせていた。  巽はイルミネーションから窓ガラスに映る自分に視線を移した。外の煌びやかさとはかけ離れたくたびれた男の顔を見て思わず苦笑いが漏れる。  今日は平日だが金曜日ということもあり、クリスマスの予定がない者もみんな飲みに行き、殆ど人のいないオフィスはシンと静まり返っている。こんな日に仕事をしているのは巽ぐらいだろう。巽も何も残りたくて残ってるわけではなかったが、クライアントからの急な依頼が入り涙目になる部下達を帰して一人仕事を片付けていた。独身組の同僚達に飲みにも誘われたがなんとなく気が乗らず断った。  クリスマスイブに一人で残業だと思うとなんだか物悲しい気持ちになるが、クリスマスといってもただの平日だ。休みでもなければ仕事もある。  そろそろ気を取り直して残りの仕事を片付けるか……と思ったところで背後から「巽さん」と聞き慣れた声が聞こえ、巽は声の主へ振り返った。 「なんだ、まだ残ってたのか?」 「巽さんこそ、まだ帰らないんですか?」  そう言って心配そうに巽の様子を伺う青年は、巽の三つ後輩に当たる宇佐美だ。  身長が一八〇センチと高くどちらかといえば厳つい顔つきの巽とは反対の一七〇センチなさそうな小柄な体型にアイドル顔の好青年で、チームが違う巽を何故か慕ってくれている。  コートを羽織り通勤鞄を持っているのでこれから帰るのだろう。巽がまだ残っていることに気づいて声を掛けてくれたに違いない。そんな宇佐美にまだ仕事が残ってるなんて言えば気を使わせるだろうから、巽は「俺ももうあと少しやったら帰るよ」となるべく笑顔で返した。 「田中さん達の飲み会に行くんですか?」 「いや、今日はこのまま家に帰るよ。宇佐美は行くの?」 「あー、少し顔出そうかなって……」 「いいじゃん、どこで飲むの?」 「えっと……、月明かりです」 「おー、あそこ飯も酒も美味いよな」  巽が最近気に入ってるお店の名前がでてきて少し心惹かれたが、まだ仕事が残っている。 「じゃあ楽しんでこいよ」  そう言って巽が宇佐美を送り出そうとすると、宇佐美は少し迷う素振りを見せたあと「あのっ!」と声を発した。 「差し入れ、デスクに置いたのでよかったら召し上がってください」 「おっまじで? 悪いな、ありがとう。あとでもらうよ」  後輩に気を遣われてるなんてなんとも情けないが、宇佐美の優しさが嬉しくて自然と笑顔になる。 「あまり無理しないでくださいね。じゃあ、お疲れ様です」 「おう、おつかれ」 「お先に失礼します」と言い残し宇佐美は去っていった。オフィスを後にする宇佐美の後ろ姿を見送る巽の心はいつの間にか軽くなっていた。  いつも「巽さん」と呼んで慕ってくれる宇佐美のことを巽も可愛がっていた。自分と話している時の嬉しそうな表情も、自分のアドバイスを聞く真剣な表情も、いつも巽の心に優しい明かりを灯してくれる。  宇佐美と話したことで気持ちのリフレッシュできた巽は残りの仕事に取り掛かるために先程よりも心なしか軽くなった足取りで自分のデスクに戻った。机の上には宇佐美からの差し入れらしきコンビニの袋が置かれている。想像よりも少しばかり大きい袋に巽は思わず口元が緩む。  袋を覗くと中にはペットボトルのお茶とエナジードリンク、おにぎりやチョコレートも入っていた。  今度お礼に飯でも連れて行こう。おにぎりとお茶を袋から取り出しながら心の中でそう思うと、なんだか心が弾んでくる。  巽はおにぎりを三口で食べると残りのタスクと時計を確認して再び仕事に取り掛かった。この調子なら終電までには余裕で終わりそうだ。  黙々とPCに向き合うこと二時間。予定よりもだいぶ巻きで残りの仕事を終わらせて巽は席でグッと背を伸ばした。思いの外捗ったこともあってなんだか気分良かった。  巽は甘いものでも食べてから帰ろうと宇佐美からもらったコンビニの袋を取り、中を覗いた。そしてチョコレートのさらに奥に何か小さい箱状のものがあることに気づいた。  なんだろう、と思いながら袋から取り出した箱を見て巽はぎょっとした。  正方形に近い形をしたその箱にはハイブランドのロゴが入っていた。 「間違えたのか……?」  宇佐美が貰ったものなのか、宇佐美がこれから誰かに贈るものなのかはわからないが、大切なものなのではないだろうか。でも何故こんなものがコンビニの袋に入っているのか……。  巽は他に何か入ってないかコンビニの袋を再び探った。すると名刺サイズのカードが一枚入っていた。 『Merry Christmas 巽さん』  巽はスマホを手に取ると田中に「まだ宇佐美いる?」とメッセージを送った。そしてスマホを机に置くともう一度小さな箱を手に取った。  静かに箱を開けると中にはシルバーのネクタイピンが入っていた。  机の上のスマホがメッセージを受け取って短く振動した。画面がついて、田中からの返信が表示される。 『宇佐美? 来てないけど? ってか仕事終わったなら来いよ! 会社近くの座民で飲んでるから!』  巽は横目でメッセージを確認すると再びネクタイピンに視線を落とした。シンプルなデザインのそれは蛍光灯の光を反射してキラキラと輝いている。ドキドキと高鳴る胸の鼓動が心地良かった。  巽は手際よくデスクを片付けると上着を羽織り仕事場を後にする。逸る気持ちに背を押されながら月の明かりへと向かった。
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