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一、栗花落家の人々
午後のホームは酷く閑散としており、二人が電車を降りた時、ほとんど人はいなかった。
「……やっと着いたぁー」
新幹線と在来線を乗り継いで、数時間。夏生はすっかり固くなった体を思い切り伸ばして、綺麗な空気を吸い込む。
「いっつも、こんなに人いないんですか?」
「いいや。朝と夕方はかなり利用者が多いぞ。特に朝は、いつも混んでいた」
空き缶をゴミ箱に捨てて、光はキャリーケースを持ち直す。それから、目を細めて周囲を見回した。
「……帰ってきたな」
そっと微笑んだ光は、隣で物珍しそうにきょろきょろしている夏生に手を差し伸べる。
「ようこそ、姫津へ」
夏生はふらふらしていた視線を光に戻し、その手を取って、頷いた。
それなりに大きなキヨスクと、あまり人気のない待合室を横目に、二人は駅を出た。すぐに、目の前にグレイのカローラがやって来る。
「光兄さん、夏生さん、いらっしゃい」
パワーウィンドウを下げて顔を出したのは、驟だった。童顔に似合わないサングラスを見て、夏生は思わず吹き出す。
「ちょ、なんなんですかー。いきなりー」
「だ、だってサングラス……」
「これがないと、アスファルトの照り返しがすごいんですもん。しょーがないじゃないですか! 似合ってないのは重々承知してますー」
頬を膨らませて、驟はサングラスを外した。車から降りると、トランクを開ける。
「さ、早く荷物入れてください。僕、まだ仕事残ってるんで」
「すまないな。わざわざ迎えに来てくれてありがとう」
「いいですよ。ちょっとは気分転換になりましたから。ただ、早く帰らないと霖兄さんがうるさくって」
相変わらず口が良く動く驟を見て、光は苦笑した。二人分のキャリーケースを入れてトランクを閉め、驟はすぐに運転席へ向かう。
「ほら、ぼーっとしてないで乗ってください。こんな暑いところでぼんやりしてたら、しなびた蛙みたいになっちゃいますよ?」
「へ? あ、はい」
初めての土地を見回していた夏生は、慌てて後部座席に座る。光は既に乗車しており、窓の外を物珍しそうに眺める夏生を見て、更に苦笑した。
「あんまり田舎で、驚いたか?」
動き出した車の窓から外を見ながら、光は自嘲気味に言った。
「はい……。あ、すいません。俺の実家もたいがい田舎ですけど……」
「確か、仙台だったな。大きな街じゃないか」
「そんなことないですよ」
「ここに比べたら、十分都会だよ。……ここは、駅を離れたらもう、コンビニすらほとんどないからな」
光の言葉が終わらないうちに、車は大きな橋を渡った。ささやかな商店街を通り過ぎると、周囲は田畑だけになる。
「……変わってないな」
「そりゃ田舎ですから、たかだか三年でそんなに変わりませんよ。あ、でも、バイパス沿いにあった土産物屋さんは潰れたなぁ」
「あそこは、お婆さんがずっとやっていたな」
「ええ。さすがに、寄る年波には勝てなかったみたいです。
それと、最近になって町が住宅地の分譲を始めたんですよ。ほとんど空き地ですけど、ぽつぽつ新しい家が建ってます」
地元の話で盛り上がられると、夏生には口を挟む暇がない。上機嫌で驟と土地の変化について話している光を、夏生はぼんやりと見上げた。
ここに来る間、姫津に近付くに連れて、光はどんどん機嫌が良くなっていた。楽しそうに姫津について語りながら、あそこに連れて行きたい、そこも綺麗だとはしゃぐ光は、夏生には歳よりかなり幼く見えた。
この間、三十路を迎えたとは思えないほど、光は若々しい。顔には小じわもなく、体力も夏生よりある。なにより、人形めいた美しさは日々増していた。毎日彼を見ているが、夏生は未だに彼の横顔を見ると胸が高鳴る。
「ん? どうした? ああ、すまないな。お前にはつまらないか」
「え、いえ……」
「そっか。ごめんなさーい。もう少しで着くんで」
そう言って、驟は少しスピードを上げた。
すれ違う車は、進むに連れて減っていく。程なく車線は一本になり、その道の彼方にぽつんと建った家が見えてきた。
「あれが、俺の家だよ」
「へぇー」
「裏の山も栗花落家の土地なんですよ。もっとも、ほとんど手入れしてないから、時々熊や猪が出るんですけどねぇ」
「く、熊ぁ?」
冗談かと思ってバックミラーに映る驟の顔を見た夏生だったが、彼の目は笑っていない。
「熊は臆病ですから、滅多なことでは麓まで下りてきませんけど、猪は電気柵くらいでないともう対処できませんからね。こないだ、霖兄さんがぼやいてましたよ」
「ほ、ほんとに?」
夏生が半笑いで光に訊ねると、あっさりと頷いた。
「ああ。幸い熊には会ったことはないが、罠に掛かった猪は何度か見かけたぞ」
さらりと言う光の顔を、夏生はまじまじと見つめた。
「そうそう、猪の肉は、臭みを取って鍋にすると美味しいんだ」
「鍋ぇ? えーっと、ボタン鍋……でしたっけ?」
「ああ。猪が捕れると、時々鍋にしていた。精が付くからと言って、母にも良く食べさせたよ」
哀愁を帯びた目をして、光は優しく笑った。そっと、夏生は彼の白い手を握る。少し驚いてから、光はまた苦笑した。
「さー、もう着きますよ。霖兄さん、明日の出勤を午後からにしようと思って、張り切って働いてますからね。僕の仕事も増えてるだろうし、ちゃっちゃと下りてくださいよ」
「珍しいな。来客があるとは言え、あの人が午後出勤なんて」
夏生の手を柔らかく握り返しながら、光はバックミラー越しに驟を見る。
「光兄さん達が来てますからね。朝くらいゆっくりしたいんじゃないですか?」
「あの人がそんなことを考えるとは思えないが……」
「いーえ。霖兄さんのあなたへの溺愛っぷりを考えれば、不自然じゃありませんよ」
言いながら、驟はゆっくりと車の速度を落としていく。栗花落家はもう、目前であった。
「ただいま帰りました」
車を降りた二人は、驟と別れて玄関を開けた。広い玄関には生け花が置かれ、木製の靴箱の上には埃一つない。夏生にはあまり縁のない、和風の玄関であった。
「お帰りなさい、光さん。お久し振りね」
玄関のすぐ傍にある部屋の障子を開けて、楚々とした女性が現れる。
「お久し振りです。お義姉さん。その節は、ご迷惑をお掛けしました」
頭を下げた光に倣い、夏生もぺこりとお辞儀をする。
「いいんですよ。あなたは若いんだし、次男なんだから。私は昔から、もっと自由にやるべきだって思ってましたわ。あの人が、古いことにこだわりすぎなんです」
にこにこと笑いながら霖をこき下ろす義姉を見て、光は苦笑する。夏生はぽかんとして、彼女を見上げた。
「さ、立ち話もなんですから、上がってくださいな。光さんのお好きな、雁が音があるんですよ。貰い物ですけどね。後、裏で作った果物も少し」
言いながら、彼女は光のキャリーケースを持ち上げる。
「いいですよ。俺が持って行きます」
「駄目です。あなたはお客様なんだから。それに、床に傷が付くから転がさないでいただきたいの」
軽々とキャリーケースを自分の入ってきた部屋に持って行き、再び戻ってくる。呆気に取られていた夏生の分も、すぐに持って行かれた。
「夏生? 上がるぞ」
「え、あ、ああすいません」
予想できなかったことがいくつか起こったため、夏生の頭は上手く働かない。光と共に玄関を上がり、その背中に付いていった。
「まずはお仏壇に手を合わせていらして。その間に、お茶を淹れてしまいますわ」
「はい。夏生、こっちだ」
言われるままに光を追い掛け、夏生は木の廊下を歩き出した。いくつもの部屋は全て障子が開け放たれ、山からの涼しい風が通っている。どの部屋も青々とした畳が敷かれ、い草の匂いに包まれていた。
「あの……、さっきの人が、霖さんのお嫁さん、ですか?」
「ああ。五月(さつき)さんだよ」
夏生は不思議そうな顔で頷く。霖の妻であるならば、従順で文句も言わない人物だと思いこんでいた夏生にとっては、想像からかけ離れた女性であった。
「家のことはなんでも一人でこなしているんだ。裏の温室や菜園の世話もやっているから、力仕事にも慣れている。昔から、しっかりした人だった」
「うーん、意外」
唸る夏生を見て、光は首を傾げる。
「そうか? 兄は、体が丈夫でしっかりした女性を条件に見合いをしたから、あの人はぴったりだと思うが」
「もっと、大人しい人が好みかと思ってました。……つーさんのことも、従順で大人しい、思慮深い人だったって言ってたし」
光は軽く目を見開いて、意外なことを言った恋人の顔を覗き込んだ。
「兄さんが、そんなことを? ……なんだか、複雑だ」
「どうしてですか? 従順はともかく、後の二つは俺も納得ですけど」
「……そうか? あまり、自分をそういう風に捉えたことはないから、良く分からないな」
言いながら、光は一室に足を踏み入れる。
きらびやかな仏壇が、二人を迎えた。金色で装飾された仏壇は夏生の背丈よりも高く、同じく金色の仏具は鈍い輝きを放っている。その周囲には、いくつもの中元が置かれていた。
光はその中に土産物の一つを置いて、仏壇の前の座布団に座る。夏生もそれに倣って、少し後ろにある座布団に座った。
蝋燭に火を点け、線香を灯した光は、ちらりと写真立てを見上げた。欄間に掛けられた写真立ての端に、清楚な女性と光に良く似た男性の並ぶ一角があった。
「……あの、一番向こうにある写真が、俺の父さんと母さんなんだ」
線香立てに線香を置いて、光はぽつりと呟く。
それから鈴を叩いて、手を合わせる。光の唇は、ただいま、と動いた。
その少しだけ丸い背中を見つめる夏生の胸は、そっと締め付けられた。三年という長いようで短い期間を、光はここから物理的にも精神的にも離れて生活していた。ようやく、なんの躊躇いもなくここへ戻ってこられた光の心情を思い、夏生は目を細める。
なにも言わず、光は夏生に座布団を譲った。夏生は改めて仏壇の前に座り、光と同じように線香を立てる。鈴を叩いて目を閉じると、心地よい静寂が夏生を包んだ。手を合わせて、夏生は心の中で、初めましてと呟いた。
「……さぁ、行こうか」
手を差し伸べ、光は微笑んだ。その手を取って、夏生は頷く。光の温もりを確かめながら、夏生は訳もなく泣きたくなった。
居間に入った二人を迎えたのは、女の子だった。光に似た人形めいた顔で、二人を見上げる。
「ええと……。翠(みどり)、覚えているか? 光叔父さんだよ」
翠は表情を変えず、首を横に振る。
「……俺が出て行った時、お前はまだ二歳だったからな。覚えていないのも無理はないか」
少し寂しげに、光は呟いた。不思議そうに、翠は首を傾げる。それから、無言のまま隣の台所へ向かった。
「あれが、姪の翠だ。……昔から、人見知りをする子でな」
苦笑しつつ、光はローテーブルの前に置かれた座布団に座った。夏生もそれに倣いながら、翠の消えた台所に目を遣る。
「なんか、つーさんに似てますね」
「そう、か? 俺は、兄に似ていると思うが」
「霖さんとつーさんが似てますから、そりゃ父親似のあの子もつーさんに似ると思いますけど……」
そう言って、夏生は光を見上げる。翠も夏生の好む顔立ちではあったが、光に感じたような昂揚はなかった。自分は根本的に女性を好きになれないのだと、今更のように実感する。
「翠、お客様にご挨拶なさい。失礼でしょ?」
優しく、しかし厳しく、五月は翠を台所から追い出した。翠は少し困ったような顔をして、ローテーブルの前に正座をした二人を見下ろす。
「……ついり、みどりです」
蚊の鳴くような声で言って、翠はローテーブルの隅に座る。
「俺は、半田夏生。夏生でいいよ」
「……なつき、ちゃん?」
「うーん、ちゃん付けは嫌かな……。夏生でいい」
「……なつき?」
「そうそう」
人懐こい笑みを浮かべて頷く夏生を見て、光は微笑んだ。子どもが二人いるようなものだなと、その横顔を見ながら考える。
「翠、もっと真ん中に座りなさいな」
緑茶と果物を載せた盆を持って、五月が現れる。母親の顔を見上げて少しだけ表情を和らげた翠は、立ち上がってその隣に座った。
「改めまして、栗花落五月です」
「半田夏生です。初めまして」
「初めまして。常々、夫からあなたのお話を伺ってますわ。思ったよりも、可愛らしい方ね」
にこやかに微笑んで、五月は茶を淹れ始めた。光は果物の載った皿をローテーブルに移し、取り皿をそれぞれの前に置いた。
「あのー、霖さんは俺のことなんて言って……?」
「癖っ毛で、子どもっぽいところもあるけど、光さんをよく理解していらっしゃると申してましたわ。あの人が他人を褒めるなんて滅多にないことだから、よく覚えてます」
少し照れくさそうに、夏生は頬を掻く。光も僅かに頬を赤らめて、そっと目を逸らした。
「正直……、あなたたちのことを聞いた時は驚いたけれど、あの人があんまり平気な顔をして話すものだから、私もそういうものなのかと思ってしまって。まぁ……、世間様はなにを言うか分かりませんけど、少なくとも私と夫は、あなたたちの味方ですわ」
茶を渡しながら、五月はゆっくりと語った。
「……ありがとうございます。義姉さん」
「いいんですよ。ただ……、法事の時は、あんまりそういうことは話さない方が良いですね。親戚の方々が、みんな私たちのように考えてくださる訳ではないでしょうから」
「そのつもりです。……天野の家の親族、ということにしていただきました。あちらの叔母にはもう話してあります」
旅行前に会った光の下の叔母を思い出しながら、夏生は複雑な心境になった。
彼の叔母は甥の意思を尊重してくれたが、やはり五月と同じように二人の関係を公にすることには反対であった。好奇の目に晒される甥を見たくないと言って、下の叔母は姫津の近くに住む自分の姉に連絡をし、夏生の扱いを決めた。自分が同性であるがために回りくどいことをしなければならないのが、夏生には辛い。だが同時に、それだけ光が愛されていることを実感して、自分のことのように嬉しかった。
「おかあさん。なつきは、おおきいおばさまのうちのひとなの?」
「あら、お客様を呼び捨てにして。夏生お兄ちゃんに謝りなさい」
「いいですよ。俺が夏生でいいって言ったんで」
翠は母親と夏生を見比べ、少し悩んでからぺこりと頭を下げた。
「なつきおにいちゃん、ごめんなさい」
「い、いいって……」
「いいじゃないか。夏生お兄ちゃんで」
そう言いながら、光は笑みを堪える。釈然としないままの夏生を放って、光は翠の顔を覗き込んだ。
「夏生は……、大叔母さんのところの人なんだよ」
「あまのの、おおおばさま?」
「そう。叔父さんと仲良しなんだ。今夜から、しばらくここに泊まるんだよ」
「おともだち?」
少し首を傾げてから、翠は夏生と光の顔を見た。
「うーん……、まぁ、そんなところかな」
どう言ったものか分からず、光は言葉を濁す。
「みどりとも、おともだちになってくれる?」
大きな目で夏生を見つめて、翠はそう言った。
「もちろん」
夏生の言葉を聞いた翠は、初めて笑みを見せた。夏生も同じように笑ってみせる。
「あら、翠が初対面の方の前で笑うなんて初めてですわ。半田さん、子どもの扱いがお上手なのね」
「けっこう、子ども好きなんですよ。妹いるんで、扱いには慣れてますしね」
爪楊枝の刺さった瓜を口に運ぶ夏生を見て、光は感心したように頷いた。
「お前も子どもっぽいからな。子ども同士、波長が合うんだろうか」
「いやいやいや、それ褒めてないでしょ」
文句を言う夏生を見上げて、翠は首を傾げた。
「なつきおにいちゃんも、子ども?」
「違うって。俺、こないだ二十歳になったし。もう立派な大人」
「あら、もうそんなお歳なんですか? まだ大学に入ったばかりかと」
五月にまで言われて、夏生は深々と溜息を吐いた。恨めしげに光を睨んだが、当人は素知らぬ顔をして桃を口に入れている。
「若々しくて、羨ましいですわ」
「五月さんも、子どもがいるとは思えないですよ」
「あら、お上手ですわね」
くすくすと笑って、五月は茶を啜った。その所作にも、品の良さが滲み出ている。育ちが違うのだと、夏生は嫌でも実感させられた。
「大学生活は、どうですか? 楽しんでらっしゃる?」
少し顔を曇らせた夏生に気付き、五月はさり気なく話題を振った。
それから、しばし歓談した後で、二人は居間を出された。光は片付けの手伝いを申し出たが、五月はきっぱりとそれを断り、翠を連れて台所へ入った。
「ご実家とは言え、光さんはお客様なんですから。そんなことはさせられません」
と言われてしまっては、光も抗いようがなかった。
キャリーケースを持った二人は、階段を上がって二階へ来ていた。
「この先にあるのが俺の部屋だ。……兄さんはそのままにしておいてくれたらしい。今夜から、そこに泊まるぞ」
そう言いながら、光は歩き出した。
一階と違い、二階はドアが並んでいる。どれもかなりの幅を取って並べられており、夏生に部屋の広さを想像させた。
一番奥の部屋で、光は足を止めた。懐かしそうにドアを見つめてから、ゆっくりとドアノブを回す。
古い本の香りが、二人を包んだ。壁には夏生の背丈ほどの本棚が三つ並び、その全てに所狭しと本が並べられている。
「うわ……。つーさんちより、もっと多い……」
「こっちで働いていた頃は、本を読むくらいしか趣味がなかったからな。気に入った物があればやるぞ」
キャリーケースを部屋の隅に置いて、光は呆然としている夏生に声を掛けた。我に返った夏生も、その隣に自分の物を置く。
改めて室内を見回した夏生は、端に置かれた二組の布団に気付いた。
「絨毯敷いてるのに布団なんですね」
「ああ。小さい頃は下の部屋で兄と一緒に布団で寝ていたから、どうもベッドは慣れなくてな。兄も、こんな風に布団を敷いているはずだよ」
ふぅん、と言いながら、夏生は本棚をゆっくりと見上げる。古今東西を問わず、様々な歴史と文学の本が並んでいた。光の知識量を思い出し、夏生は自然と感嘆の声を上げる。
「……夏生?」
「いや……、やっぱすげぇなーって思って」
「無趣味だっただけだよ。おかげで、視野が狭い」
「そんなことないですよ。……ん?」
本とは明らかに違う体裁の物が並ぶ棚を見つけ、夏生はその一つを手に取った。
「ああ、それはアルバムだよ。母がたくさん写真を撮っていたから、かなりの量があるはずだ」
「見ていいですか!?」
期待と興奮に満ちた目でそう言われて、光は少し身を引きながら頷く。夏生は嬉々として座り込み、アルバムを一ページ目から開いた。
「うっわ、やべ……。めちゃめちゃ可愛い……」
「赤ん坊なんて、みんなそんな顔をしてるだろう」
夏生の隣で自分の写真を覗き込みながら、呆れたように光は呟く。
「そんなことないですよ。めっちゃ肌白いし、ほっぺた柔らかそうだし、目でかいし……。あ、これ霖さんですか?うわ、ちっちぇー」
「兄さんはこの時まだ二歳だ。相当聞き分けのいい子だったらしい」
二人が見ているのは、利発そうな目をした小さな霖が、産まれたばかりの光を見ている一枚であった。しばらくああだこうだと言い合ってから、夏生はふとその隣の一枚に目を遣る。
「……えっと、こっちはもしかして」
「ああ。母さんだよ」
優しい目をして、光は幼い自分を抱く母を見つめた。
「綺麗な、人ですね」
「……俺は、あまり似なかったがな」
「つーさんも綺麗ですよ!」
「はは、無理しなくていい」
笑いながら、光はページをめくった。風呂に入れられているところ、眠っているところ、食事をしているところなど、様々な写真が並べられている。他愛ないことを話しながら、二人はゆっくりとページをめくった。
「なんか……、つーさんって昔から、人形みたいだったんですね。すっげぇ可愛い」
「そうか? あまり表情がなくて、被写体としては及第点とは言えないと思うが」
「なにやってても絵になるからいいんですよ。……ん?」
着物を着ている光を見て、夏生は首を傾げた。
「これ、女物じゃないんですか?」
「ああ。古いしきたりでな、七つになるまでは、公式の場では女物の着物を着させられていた。あれが恥ずかしくて、余計に人見知りになったんだ」
赤い女物の着物を着た幼い光を見ながら、夏生ははぁ、と気のない返事をした。
「これは、可愛くないのか?」
「え? あ、ああ、可愛いと思いますけど……」
「女みたいで、少し嫌……か?」
迷ってから、夏生は素直に頷く。
「そう言ってもらえると嬉しい。母は、娘ができたようだと言って喜んでいたんだが、それが昔は嫌だったんだ。それに……、幼稚園でそのことをからかわれたりも、したからな」
悲しそうに眉を顰め、光はぽつりと呟いた。
「つーさん、俺はちゃんと、男のあんたが好きですからね。そんな顔しないでくださいよ。ほら、こっちの短パンのは、すっごく似合ってる」
「……そうか? やせぎすで、あまり子どもらしくないような……」
光の表情に、穏やかさが戻る。夏生は内心安堵しながら、またページをめくった。
「あ、これ……、マスターですか?」
「ああ。懐かしいな……。家に遊びに来出した頃だよ」
テーブルを囲む光と寛弥、そして光の母親の写真が、何枚か並んでいる。テーブルの上にはケーキや紅茶が並び、目を輝かせた寛弥がそれに手を伸ばしていた。
「マスターって、この頃から紅茶とか甘い物が大好きだったんですねぇ」
「ああ。俺は食が細かったから、よく食べるヒロが来てくれて母も喜んでいたよ。もっとも、おかげであいつはこの頃、少し太っていたらしいがな」
「言われてみれば、ちょっと丸いですね。……この頃はつーさんよりマスターのが大きいんだ」
椅子に座った二人を見比べて、夏生は呟いた。
「小学校の高学年の頃には、もう追い越していたぞ」
「……ちなみに訊きますけど、小学校卒業の時何センチでした?」
「百六十五だ」
夏生は泣きそうになった。自分の現在の身長と、大して変わらなかったのである。
「中学になっても成長が止まらなくてな。中学卒業の時には百八十近くあった。さすがに高校の途中で伸びなくなったが、それでも百八十三くらい……」
「も、もういいです! なんか虚しくなるんで!」
光の言葉を遮り、夏生は次のページへ進む。
「これは……、運動会かな」
「白い短パン似合いますねー。二人とも。つか、細っ」
「俺も兄さんも、太りにくい体質だったからな。足は速かったんだぞ」
よく似た兄弟が並ぶ運動会の写真を見ながら、光は微笑んだ。はにかんだ光と対照的に、霖はこの頃からほとんど表情がなかった。
それから数ページめくると、今度は男物の浴衣を着た兄弟が写っていた。藍色のシンプルな浴衣に包まれた二人の幼い兄弟に、夏生は思わずごくりと唾を飲み込む。
「これは……、夏祭りの時だな」
「あの……、これ、やばいです。……可愛過ぎ……!」
「……夏生? お前、ペドフィリア(幼児趣味)だったのか?」
「ぺ、ぺど? なんですって?」
聞き慣れない単語を口にした光に、夏生は慌てて聞き返した。
「ペドフィリア。小児に対して性的興奮を感じることだ。俗っぽく言うと、ロリコンなどのことだな」
「違いますよ! つーさんだからです!」
夏生が異論を唱えると、光は苦笑しながら癖毛を撫でた。
「分かった分かった。あまりムキにならなくていい。お前がそうなら、先程翠を見てもっと興奮していたはずだからな」
「そうそう。俺がムラムラするのは、つーさんだけですから!」
にっこり笑って言い放った夏生を見て、光は溜息を吐く。
「もう少し、言い方はないものか……」
「いいじゃないですか。ムラムラするのはしょーがないんだし」
強引に話を終わらせて、夏生は次のページをめくった。その辺りはほとんど学校行事の写真ばかりで、時々寛弥も写っている。
「……そういえば、お父さんと写ってる写真って、あんまりないですね」
「あの人は、いつも仕事優先だったからな。家にも、寝に帰っているようなものだった。おかげで会社が今の規模になったのだから、ありがたいとは思っているが……」
光はそっと、写真の中の母親を撫でた。
「幼心に、なんで父さんは他の家のように母さんと仲が良くないんだろう、と思っていたよ。特に、運動会なんて休日にやるものだったから、他の家の両親はほとんど来ていたのに」
寂しそうに、光はぼやいた。その目には、在りし日の父と母の姿が浮かんでいる。
「もっとも父が来ていたら、きっと余計に周りから遠慮されていただろうから、今となっては来てくれなくて良かったと思っているがな」
苦笑しながら、光は手を離した。
「あー、社長さんですもんね。部下と一緒に子どもの応援とかできるタイプじゃなさそうだし」
「そうだな。……あの人は霖兄さんと同じで、行事ごとに無関心だったからな。来たところで、一人遠くにいて冷めた目で競技を見ていそうだ」
光は軽く肩をすくめる。
「やっぱ、霖さんって性格もお父さん似なんですか?」
「ああ、そっくりだよ。もっとも、あの人は会社を大きくするより、このまま維持することに力を入れているようだがな」
ページをめくりながら呟く光の横顔は、少しだけ社会人のそれに戻っていた。
「じゃ、翠の行事ごとにも出てないんですか?」
「さぁな……。あの子が幼稚園に通い出す前に家を出てしまったから、よく知らないんだ」
不安そうに、光は幼い兄を見つめる。父と同じ道を進む兄は、父と同じ悲しみを子どもに与えているのではないかと思い、光は翠に同情していた。
「……あ、これ、修学旅行ですか?」
夏生が別の写真を指さす。光は微笑んで頷いた。
「ああ。阪神に行ったんだよ。神戸で港湾施設を見学して、大阪では市内の観光をしたんだ。懐かしいな」
たこ焼きを持って並んでいる光と寛弥を見て、夏生は吹き出した。
「うっわ……、マスターはともかく、つーさんにたこ焼きとか似合わねぇー」
「美味かったぞ。名前は忘れたが、確かアメリカ村の近くにあった店だ。後、住吉大社や通天閣にも行ったな。大坂城にも……。久し振りに、あの辺りを回るのも面白いかもしれないな」
「じゃ、帰りに寄りますか?」
「そうだな。せっかくだし、観光して帰るか」
光が上機嫌で頷いた時だった。ノックもなく、ドアが開く。振り向いた二人の視線の先には、スーツ姿の霖が立っていた。
「兄さん、お帰りなさい」
驚きながらも、光は頭を下げる。霖は無表情のまま頷いた。
「夕飯だ。降りてこい」
「もうそんな時間ですか?」
光は腕時計を確かめた。既に、六時半を回っているところだった。
「何時間アルバムを見ていたんだ、お前達は。……まぁいい。それより、明日は夏生の礼服を買いに行くぞ」
「え? ああ、それで午後出勤を?」
頷いて、霖は夏生を見下ろす。
「でも、俺スーツ持ってきましたよ」
「お前には、法事の時に光の隣に座ってもらうからな。半端な格好をされては困る」
それだけ言って、霖は立ち去っていった。呆然と見送ってから、二人は顔を見合わせる。
「……遠縁扱いなのにつーさんの隣にいたら、やっぱり変に思われるんじゃ……」
「あの人なりの優しさなんだろう。多分。さ、下りよう」
光はアルバムを戻して立ち上がった。釈然としないまま、夏生もそれに倣う。
窓の外では、ゆっくりと夕暮れが迫っていた。
「……つ、疲れた……」
夕食を終えて部屋に戻ってきた夏生は、開口一番にそう漏らした。
「いっつも、あんなに静かな夕飯なんですか? なんか、ろくに会話ありませんでしたけど……」
「ああ。大体あんなだったよ。食事は静かに摂るものだと教えられていたからな」
「静か過ぎますよ。あー、なんか肩凝った」
自分の肩を揉みながら、夏生は布団に向かった。畳まれていた布団を敷いてから、ふと周囲を見回す。
「そういえば、クーラー付けなくても涼しいんですね」
「ああ。山からの風が下りてくるからな。冷房はあまり必要ないんだ。駅の方はさすがに日中かなりの気温になるらしいが、この辺りまで来ると涼しいものだよ」
ふぅん、と言いながら、夏生はころりと寝転がる。行儀が悪いと言われるかな、と思って光を見上げると、苦笑しながら彼も隣に座った。
「……慣れないことばかりで、疲れただろう? 風呂の前に少し眠るか?」
光は夏生の癖毛をそっと撫でて、優しく提案した。言われるままに、夏生も目を閉じる。
さして間を置かず、夏生は寝息を立て始めた。幼さの残るその寝顔を、光はじっと見守る。じんわりと、光の胸は温まっていった。
光が幸せを噛み締めていると、小さなノックが静寂をさり気なく壊した。
「どうぞ」
光が声を掛けると、ドアを開けて小さな影が入り込む。
「おふろ、わきました……」
翠は眠っている夏生と座っている光を交互に見てから、そう言った。
「なつきおにいちゃんは……もうおやすみ?」
「ああ。先に兄さんにでも入って貰ってくれと、お母さんに伝えてくれ」
「はーい」
翠は物足りなさそうな顔をして、去っていった。それを寂しく思いながら、光はすっかり姪と仲良くなった恋人の額を少しだけ指で突く。
三十分後、少し目を開けた夏生を起こして、光は彼を風呂に向かわせた。
二、霖と夏生と、光と
夏生が風呂から上がると、居間に灯が点いていた。ちらりと中を覗き、コップから口を離した浴衣姿の霖と目が合う。
「……もう上がったのか」
「はい。今は光さんが入ってます」
首に巻いたタオルを弄りながら、夏生は言った。
「そんなところに立っていないで、座れ」
言われるままに、夏生は霖の前に座る。きっちりと着込んだ霖の浴衣は、夕飯前に見ていたアルバムの写真と同じ藍色だった。
「そのコップの中、水ですか?」
「うちの会社で作っている地酒だ。飲むか?」
「え……? あ、はい」
意外な単語が霖の口から出てきて、夏生は少し目を見開いた。霖は台所へ向かい、コップを一つ持ってくる。
「……どうした。おかしな顔をして」
「いえ……、その、光さんはお酒めちゃくちゃ弱いから、霖さんもそうなのかなって思ってたんで」
地酒が注がれたコップを受け取り、夏生はそっと口を付けた。さらりとした口当たりで、飲み慣れていない夏生でも抵抗なく飲める。
「あれは母に似て酒にはとにかく弱いが、私は父似だ。父は酒の席でも顔色一つ変えたことはない」
そう話す霖の白い肌も、全く常と変わらない。こうも兄弟で違うものかと思いながら、夏生はもう一口酒を飲んだ。
「……その後、問題はないようだな」
「ええ。俺はもう、あの人の前から逃げたりしませんよ」
夏生の言葉を聞いても、霖は眉一つ動かさない。コップの中身を空にして、そっと胸元を正す。
そのさり気ない仕草に、夏生の胸がとくんと鳴った。
「以前も言ったが、あれは傷付きやすい。お前も分別のある行動を心がけろ」
「は、はい」
光とよく似た顔が、じっと夏生を見下ろしていた。突然高鳴った胸を抑えながら、夏生は少し多めに酒を含む。
「……お前も、あまり強くないようだな」
「へ?」
「もう顔が赤くなっている。これ以上は止めておけ」
慌てて、夏生は顔に手を当てた。言われた通り、頬は熱を持っている。それが酒のためなのか、それとも霖のせいなのか、夏生には判断できなかった。
「水を持って来る。少し待っていろ」
顔を赤くしてなにも言わない夏生を見て、霖は立ち上がった。去っていく後ろ姿は、光より少し細い。帯の下でふわりと膨らんでいる臀部に、夏生は目を奪われていた。
待て、と夏生は自分に言った。
「……あれは、霖さんなのに」
光によく似ていても彼とは違うのだと、夏生も頭では分かっている。だが、一度火が点いてしまった夏生の体は、簡単に落ち着いてくれなかった。
「……つーさん、早く上がってくれよ……!」
夏生が祈るように呟いている内に、霖が居間に戻ってくる。夏生の前に水の入ったコップを突き出し、霖は未だに赤いその顔を覗いた。
「……やはり、子どもだな」
「へ?」
「なんでもない。さっさとそれを飲んで、部屋に戻れ。布団は敷いたか?」
夏生は素直に頷いた。水を一気に呷ると、お休みなさい、と言って早足で部屋を出て行く。
霖はその忙しない後ろ姿を見送って、そっと溜息を吐いた。
「……兄さん」
「上がったのか」
夏生が去ってから、すぐにスウェットを着た光が顔を覗かせた。霖は光を手招く。
「……夏生は、どうしたんですか? 随分慌てていたようですが」
「酒を飲ませたらああなった。あまり強くないようだな」
先程の夏生と同じところに座った弟に、霖は少し呆れながら言った。
「え? 兄さんほどではありませんが、あいつもかなり強いですよ。いつだったか、何杯ブランデーを飲んでも顔色一つ変えていませんでした」
光の言葉に、霖は眉を顰める。コップを傾けてから、夏生が飲み残した酒を引き寄せる。
「日本酒には弱かったんだろう。あのくらいの歳では、飲み慣れずに酔いがすぐ回るのは当然だ」
「そう……、ですね」
光は釈然としないまま、霖の言葉を首肯した。夏生の飲み残しを一息に飲み干す兄を、複雑そうに見つめる。
「……あれは、お前にあの時のような無体な真似はしていないか?」
「え? ええ。過剰なくらい優しくしてくれます。それに、最近は料理を覚えて、俺によくご馳走してくれますよ」
「……そうか。ならいい」
霖は二つのコップを持って、立ち上がった。台所へ向かう兄の後ろ姿を見つめながら、光は言いしれぬ不安に駆られる。
「……夏生は、兄さんとなにを話していたんだろう」
心が狭くなりそうな自分に気付き、光は虚しさを覚えた。小さく溜息を吐いて、首を振る。
台所から戻ってきた霖は、俯いている弟の旋毛を覗き込んだ。
「光、忘れるな。もしあれが、またお前の前から逃げ出すようなことがあれば、私は必ずお前をここに連れ戻す。文句は言わせん」
「……俺は、夏生を信じています。ここには絶対に戻りませんよ」
兄を見上げ、光はきっぱりと言った。だが、その目は僅かに揺らいでいる。
霖はじっと、自分とよく似た弟の顔を見つめた。
「……あの、俺の顔になにか?」
「いいや……。あれの感覚は、よく分からんと思っただけだ」
「感覚?」
霖はすっと目を逸らしてから頷いた。
「あれは……、お前に性欲を感じるのだろう?」
「……は、はい」
突然、似合わないことを言い出した兄の顔を、光はまじまじと見つめた。霖は弟の態度をさして気にした風もなく、コップに酒を注ぐ。
「男が男に性欲を感じるという、その感覚がよく分からん。少し調べてみたが、同性愛者というのもいくつか種類があるのだろう? 女に感覚が近い男が、男に性欲を感じるというのは分かる。だが、あれは別に女になりたい訳ではないのだろう。……性欲に関してだけ、女に近いということなのか?」
つらつらと自分の知的好奇心の赴くままに語る兄に半ば呆気に取られながら、光はなんとか言葉を探した。
「多分……。……その話は分かるんですが、それでなんで俺の顔を見るんですか?」
「お前の方に、男に好かれる要因があるのかと思っただけだ」
さも当然のように言って、霖は腕を組む。
「は、はぁ……? 俺は別に……。その、二回ほど男から告白されましたが……。ゲイに好まれる訳ではありません」
「私は一度もない。同じような顔をしているのに、二度も男に好かれたのだから、お前になにか原因があると考えた方が自然ではないか」
光はどう返したものか分からず、兄の顔を見ながら黙り込んだ。内容こそ恋愛の話ではあったが、霖の顔に表情はない。
「お前は……、あれに性欲を感じるのか?」
「は、はい、一応……。最初は、全く感じませんでしたが、その……、気の持ちよう、というか」
思い切り眉を顰めて、霖は少し赤くなった弟の顔を見た。
「その程度のことで、男に興奮できるのか? お前もよく分からん」
「……俺には、こんな話題をしている兄さんの方がよく分かりません……」
「単なる好奇心だ。他意はない」
顕微鏡で微生物を観察するような目で、霖は言い放った。
「もしかして、夏生ともこんな話をしていたんですか?」
「いいや。する前にあれの酔いが回ったから、部屋に帰るように言った」
顔色一つ変えずに言って、霖はまた酒を一口飲んだ。
「もしも、の話をしてもいいでしょうか」
「なんだ。珍しい」
光は少し迷ってから、自分とよく似た兄の顔を見つめる。
「……もしも、夏生があなたに欲情したら、どうしますか?」
「どうもしない」
きっぱりと、霖は言った。その分かり切った答えに、気付けば光は安堵していた。
「確かにお前の言う通り、あれは私にも性的な興奮を覚えるかもしれん。お前と私は、顔も体格も似ているからな。だが、だからと言って私があれに応える理由にはならん。当たり前のことをいちいち訊くな」
「そうですね……。夏生も、あなたのことは恐れているようですし、そんなことにはならないでしょうね」
恐れている、と言われた霖は、また眉間に皺を寄せた。
「なぜあれが、私を恐れねばならん」
「第一印象のせいでしょう。あの時の兄さんは……、俺には頼もしく見えても、夏生には恐ろしく映ったでしょうから」
そっと、光は微笑んだ。嬉しそうな、それでいて儚げな弟の表情を、霖は訝しげに見遣る。
「……兄さん?」
黙り込んでしまった兄を見て、光は首を傾げる。
「いや。……そろそろ、お前も部屋に戻れ。湯冷めするぞ。……あれも、待っているだろう」
霖はさっさと立ち上がり、コップと酒を台所へ持って行った。その後ろ姿を不思議そうに見送り、光も立ち上がる。台所を覗いて、光は兄の背中に声を掛けた。
「兄さん、先に上がります。お休みなさい」
振り向きもせず、霖は頷いた。苦笑してから、光は部屋を去る。
ひんやりとした夜の空気が、少し冷めてしまった体を震わせる。光は少し急いで、自分の部屋に戻った。
部屋に戻った光は、電灯を点けたまま眠っている夏生を見てそっと笑った。夏生の隣の布団に入り、幼さの残る寝顔を覗く。
光が優しく髪を梳くと、彼の予想に反して夏生はうっすらと目を開けた。
「……夏生? 起こしてしまったか?」
普段、寝付きが良く寝起きの悪い夏生には珍しく、彼はすぐにはっきりと目を開いた。顔色は、いつも通りだった。
「つーさん……。ごめんなさい、先に寝ちゃって」
「構わない。兄から聞いたよ。少し、酔ってしまったんだろう?」
さっと、夏生の頬に赤味が走る。光はほんの少しだけ眉を顰めた。
「ち、違うんです」
「……違う、とは?」
「えっと……、心配されるほど、飲んでないんで」
夏生は、訝しげな光の視線に耐えられず、目を逸らした。
「どうしたんだ? 兄さんに、なにか言われたのか?」
「そういう訳じゃ、ないんです。なんか……、その」
光とよく似ている霖に欲情してしまったとは言えず、夏生は言葉を濁す。夏生の曖昧な態度に、光は訳もなく悲しくなった。
「……俺に言えないこと、か?」
「そ、そういうんじゃ……! ごめんなさい、つーさん」
「理由もなく謝られても、困る。なぁ、どうしたんだ、夏生?」
できる限り優しい声で、光は話しかけた。その優しさが、夏生の罪悪感を余計に掻き立てる。
しばらくなにも言えない夏生を見つめてから、光は寂しげに笑った。
「なにかあったら、すぐに言ってくれ。俺から、兄さんに話してみるから」
「は……い。つーさん、ごめんね」
無理をして笑っている光に掛ける言葉が見つからず、夏生はただ謝る。夏生の髪をそっと撫でて、光は立ち上がった。紐を引いて電灯を切り、ゆっくり横たわる。
「……お休み、夏生」
暗闇の中で、光はそっと囁いた。
「お休みなさい……」
細い声で、夏生はそれに応える。すぐに、夏生は寝返りを打って光に背を向けた。
曖昧な寂しさを感じながら、光は目を閉じた。だが、中中眠気は訪れなかった。
「……っ!」
声にならない悲鳴を上げて、夏生は慌てて起き上がった。窓の外では、東の空が白み始めていた。
「……なんっつー夢を……!」
火照った顔に手を当てて、夏生は絞り出すように呟く。
溜息を吐いて目を閉じると、夢の中の霖が脳裏を過ぎる。浴衣を乱し、セックスの時に弟が見せるような艶っぽい顔をした霖を、夏生は夢の中で犯していた。思い出すだけで、酷い罪悪感と興奮が夏生の胸を支配する。あまりの背徳に、隣で眠る光の顔を見ることができなかった。
夏生の体が夢の中の激情にしっかり反応していることも、彼を追い立てた。盛り上がったスウェットを見て、夏生は泣きたくなる。
「……落ち着け、落ち着け……。俺は、つーさんが好きなんだ。あの人は、つーさんじゃない……。あの人は、あんなことしない……」
小さな声で自分に言い聞かせながら、夏生は薄い掛け布団を被った。だが、火照った体は中々落ち着かない。かといって自慰をする気にもなれず、夏生は悶々とした気分のまま眠気が再び訪れるのを待った。
「……夏生、そろそろ起きよう。朝食の準備ができたそうだ」
次に夏生が目を覚ました時には、すっか外が明るくなっていた。光はいつもと変わらない、穏やかな笑みを浮かべて座っている。
無性に泣きたくなって、夏生は光の腰を抱いて目を閉じた。適度に固い光の腹に頬を擦り寄せ、ごめんなさい、と小さく呟く。
「夏生? ……どうしたんだ?」
戸惑いながらも、光は自分の腰を抱いた夏生を撫でた。その優しい手の感触を感じながら、夏生はほんの少しだけ涙を零す。
「……俺、つーさんのこと、好きだよ」
「……ああ。知ってる。……俺も、夏生のことが好きだよ」
穏やかな声が、夏生の胸を締め付ける。途轍もない罪悪感が、夏生を追い詰めていた。
しばらくそうして抱き合っていると、突然ノックもなくドアが開く。慌てて夏生は起き上がったが、入ってきた霖は思い切り眉を顰めていた。
「……朝食ができていると言っただろう。さっさと下りてこい」
「は、はい」
「着替えは後で構わん。早くしろ」
それだけ言って、霖は立ち去る。去り際に霖と目が合ったが、夏生はすぐに目を逸らした。
「顔を洗ってから下りた方がいいな。二階の洗面所に行こう」
立ち上がった光は、夏生に手を差し伸べた。情けない顔をした夏生は、その白い手を握る。
沈んだままの夏生の顔を心配そうに見下ろしてから、光は歩き出した。その時、言いようのない不安が、光の胸に去来していた。
朝食を終えた二人は、霖に急かされるように着替えて、彼の車に乗った。霖の運転で少し遠くの街まで向かう間、ぎこちない会話が始まっては、終わった。
夏生は、光の顔も霖の顔も直視できなかった。そして、そんな夏生を光は不安そうに見つめていた。霖だけが、いつものように淡々としている。
重苦しい雰囲気のまま、車はスーツの販売店までやって来た。平日の午前中ということもあり、他の客はほとんどいない。
三人は礼服売り場へ向かった。セール品には目もくれず、少し値は張るが丈夫な礼服が並べられているところへと霖はずんずん歩いていく。奥で立ち止まった霖は、夏生の体型と礼服を見比べた。
「……お前、何号だ」
「号? えーっと、何号かは良く分かんないです。服はSだけど」
「身長は」
「百六十七……くらい」
少し鯖を読んだ夏生を見て、光はようやくそっと笑う。霖は弟の笑みに気付きもせず、一着を手に取った。
「着てみろ。ちょうどいいはずだ」
「は、はぁ」
言われるままに、夏生は試着室へ向かう。その間に、霖と光はネクタイ売り場へ行った。喪服用の黒いネクタイと、晴れ着用の白いネクタイを手に取り、霖はすぐにレジへと歩き出す。
「兄さん? もう買うんですか?」
「ああ。こんな物、選びようがなかろう」
会計を済ませた霖は、さっさと踵を返した。その背中を追い掛けながら、相変わらず無駄が嫌いだなと光は内心で呟く。
一方、試着室では夏生が着替え終わっていた。鏡に映る自分が服に着られているように見えて、夏生は深々と溜息を吐く。夏生には、自分が昨日の霖のようにスーツが着こなせるようになるとは思えなかった。
「……就職したらスーツばっか着なきゃいけなくなるんだよな……。できるかどうか分かんねぇけど」
「なにをぶつぶつ言っている。着替え終わったんなら出てこい」
カーテンの向こうで、霖の冷たい声が夏生を急かした。言われるままに外に出ると、霖は買ったばかりのネクタイを箱から出して、夏生に突き出した。
「結び方は分かるか?」
「へ? え、えと」
「……分からんか」
「……っ!」
少し呆れたような声で呟いてから、霖は少し屈んで夏生の首にネクタイを回した。よく見ておけ、と言って、ゆっくり手を動かしていく。
だが、夏生は手の動きを見ている余裕などなかった。光によく似た端正な顔が、今朝あられもない姿を想像してしまった人形めいた顔が、すぐ傍にある。それだけで、夏生の鼓動は跳ね上がった。
「……これで終わりだ。分かったか?」
「は、はい」
「……本当か? まぁいい。分からなくなったら光に聞け」
夏生の様子を気にした風もなく、霖は顔を離した。
「サイズは合っているな?」
「はい……」
「なら、早く着替えろ。余計な時間は使いたくない」
それだけ言って、霖はカーテンを閉めた。夏生は高鳴る心臓を抑えながら、できる限り急いで礼服を脱いだ。ネクタイの外し方が分からず四苦八苦している夏生の耳に、光の声が届く。
「あの……、先に車へ戻っています。……帰りは、運転していいですか?」
ほんの僅かだが、光の声は震えていた。夏生の胸が、きゅうと締め付けられる。
「構わん。……だが、無理はするな」
「はい。……気を付けます」
光の足音が、遠ざかっていく。取り残されるような感覚に陥り、夏生は途端に心細くなった。唇を噛み締め、殊更乱暴にネクタイを外す。
来た時の服に着替えた夏生は、カーテンを開けた。霖は、夏生が手にしていた礼服一式を受け取り、レジへ向かう。
「お前も先に戻っていろ。……光の様子がおかしい」
歩きながら、振り返りもせずに霖が言った言葉が、夏生に重くのし掛かる。
「……っ、はい」
足早に、夏生は外へ向かって歩き出した。その背中を見送って、霖は呆れ顔でそっと溜息を吐いた。
運転席に座った光は、キーを差し入れてエンジンを掛けると、ハンドルに頭を預けた。逃げ出すようにその場を離れてしまった自分が子供じみている気がして、彼は酷い自己嫌悪を感じていた。
「……どうして、俺は……、あんなに苛立ったんだろう」
霖が近付いただけですぐに赤面した夏生を、光は見ていられなかった。憎悪に似た激しい感情が彼の胸を蹂躙し、耐えきれなくなった光は二人から離れることを選んだのだ。
一人になった光を襲ったのは、強烈な自己嫌悪だった。いつも懸命に光を愛してくれる夏生に、他意などあるはずもないことは、彼にも分かっている。たとえ容貌が似ているとは言え、夏生が兄に自分と同じような感情を抱くはずがないことも、承知しているつもりだった。だが、頭では分かっていても、光の心は聞き分けが悪かった。理性と裏腹に、感情は夏生に異常なまでの怒りを覚えていた。そしてそれが、光を追い詰めていた。
「……嫉妬……? 俺が?」
自問するも、答えを口に出すのは憚られた。光は目を閉じ、荒れ狂う感情をゆっくりと鎮めようとした。
その耳に、ドアの開く音が届く。顔を上げた光は、助手席に座る夏生を見ることができず、前を向いた。
夏生は少し躊躇ってから、つーさん、と声を掛けた。
「……あの、ごめんなさい」
「どうして……、お前が謝るんだ?」
言葉を探して、夏生は口籠もる。光はできるだけ、優しい笑顔を作った。だがそれでも、夏生の顔を見ることはない。
「お前はなにも悪くないよ。……俺が、勝手に……、機嫌を悪くしただけだ。すまないな。いい歳をして、子供じみたことをしてしまった」
「そんなこと……!」
光はゆっくりと首を振った。下を向いて、ぽつりと呟く。
「俺はお前を、信じてるのに。……どうして」
夏生は言葉を失った。俯いた光の顔は、夏生からはほとんど見えない。
黙り込んだ二人の耳に、後部座席のドアの開く音が響く。
「……兄さん」
「悪いが、出してくれ。……急用ができた」
頷いて、光はサイドブレーキを外した。ゆっくりと走り出した車は、来た道を戻っていく。
家に着くまでの間、車内に言葉はなかった。
三、たいせつなひと
午前十一時半を少し回った頃。
部屋に戻った二人は、重苦しい雰囲気のまま絨毯の上に座り込んだ。何度か互いに口を開こうとしたが、結局なにも言えないままだった。
しばらくそうして、二人は絨毯を眺めていた。その静寂を、ささやかなノックの音が優しく破る。光が声を掛けると、小さな人影が部屋の中を覗き込んだ。
「おひるごはんが、できました」
翠は大きな目で二人を見つめながら、そう言った。
「ああ、ありがとう。すぐに下りるよ」
無理に笑みを浮かべた光と、沈んだ顔をした夏生を見比べて、翠は不思議そうに首を傾げる。
「……けんか、したの?」
「……いいや。大丈夫だよ。先に下りていなさい」
光に言われるままに、翠は去っていった。だが、相変わらず二人の間に会話はない。
夏生は酷い罪悪感に、光は酷い自己嫌悪に襲われていた。なにを言っても言い訳にしかならず、なにを言われても余計に落ち込んでいくことは、お互いに分かっていた。
言葉もなく、しかし妙な共感をしながら、二人は昼食のために立ち上がった。
ぎこちない会話の続く昼食を終え、光は片付けの手伝いを申し出た。五月は昨日のように断ることもなく、光のやりたいようにさせていた。
一方、翠と二人、居間に残された夏生は、食後の茶を飲みながらぼんやりと宙を見ていた。昨日と違って元気のない夏生の顔を、翠はそっと覗き込む。
「……なつきおにいちゃん」
「ん? どした?」
夏生は優しい笑みを浮かべた。それが無理のあるものだと、翠にも分かった。
「こっち」
翠は夏生の腕を取り、部屋の外へ引っ張った。言われるままに立ち上がった夏生は、翠に導かれながら家の奥へと歩いていく。
明日の法事の準備が始まっており、仏間の近くには大量の座布団が置かれている。翠はそれを横目に、更に奥へと向かった。
「どこ、行くんだ?」
「いいところ」
それだけ言って、翠は奥にある裏口まで夏生を引っ張った。サンダルを引っ掛ける少女に倣い、夏生も大人用のサンダルを借りて外に出る。
「……す、げぇ」
夏生は思わず、感嘆の声を上げた。目の前には、個人の邸宅にあるとは思えないほど大きな温室が、どっかりと鎮座していた。
「こっちだよ」
翠は温室の中には入らず、外側をゆっくりと回った。
「なつきおにいちゃん、おはな、すき?」
「え? あー、普通」
「ふつう? わたしは、すきだよ」
そっと、翠は笑った。そのささやかな笑みが光に酷似しており、夏生は泣きそうになった。
「……なつきおにいちゃん?」
心配そうに、翠は夏生を見上げた。慌てて、夏生は首を振る。
「なんでもねぇよ。……翠は、光叔父さんに似てるなって思っただけ」
「にてる? おとうさんににてる、ってよくいわれる」
「そっか。でも……、多分、あの人の方がもっと似てるよ。見た目も、中身も」
寂しげに笑った夏生は、指通りのいい翠の頭を優しく撫でた。翠は不思議そうに、夏生の顔を見つめる。
「なつきおにいちゃん、かなしいの?」
「……うん。ちょっと、な」
「ひかるおじさんも、かなしそう。……どうして?」
翠は再び歩き出しながら、そう訊いた。
「俺が悪いんだよ。……あの人が大切なのに……、霖さんの前で、あんな顔した。そりゃ、いくらあの人が優しくても、怒りたくもなるよ」
「おとうさん?」
「そ。……お前の父さん、光叔父さんと似てるだろ? だから、ちょっと間違えちゃったんだよ」
自嘲しながら、夏生は翠の手をやっと握った。小さな、しかし熱い指先が、夏生の手を握り締めた。
「……ひかるおじさんに、おこられたの?」
「ううん……。あの人は、俺は悪くない、ってさ。自分が悪いんだって。いっつもそうなんだ。全部、自分のせいにして……、俺のこと責めない。でも、責められた方が楽になる時だってあるんだ」
途中から、夏生は相手が少女であることも忘れて愚痴っていた。翠は神妙な顔をして黙っている。
「あの人は、いつだって優しい。けど、その優しさが、こういう時には辛いんだよ……」
ようやく、夏生は我に返った。翠の顔を覗き込んで、ごめんな、と小さく呟く。
「お前にはまだ、分かんないか」
「……なつきおにいちゃんは、ひかるおじさんのこと……、きらい?」
夏生は、躊躇いなく首を横に振った。
「大好きだよ。誰にも、渡したくないくらい。……だから、余計に辛いんだ。大切にしたいのに……、馬鹿な俺は、あの人を傷付けちまう」
じわりと、夏生の目に涙が浮かんだ。慌てて、夏生は空いた手で目を拭う。
「ほんとに馬鹿なんだよ、俺。翠はこんな風になるなよ」
「なつきおにいちゃん、ばかっていっちゃだめだよ。……おにいちゃんは、ばかじゃないよ」
翠は必死になって、夏生を慰めようとしていた。その優しさに、夏生の涙腺はまた緩む。
「……おにいちゃん、なかないで。もうちょっとだから」
「……うん」
腕で乱暴に涙を拭いて、夏生はやっと、笑った。
片付けを終えた光と五月が居間に戻った時、夏生と翠はいなかった。光は呆然と、誰もいない居間を前に立ち竦んだ。
「……夏生?」
ぽつりと、光は夏生の名を呼んだ。当然、返事はない。
「どこかで遊んでくださっているのかしら。光さん、その辺りを探してきてくださらない?」
「あ……、はい」
弾かれたように顔を上げて、光は玄関へ向かった。だが、夏生のシューズはそのままだった。不安に駆られながら、光は二階へ上がる。だが、翠の部屋にも光の部屋にも、二人の姿はなかった。
焦燥を感じながら、光は一階に下りた。仏間とその周りの和室を見回り、風呂やトイレにも行ってみたが、二人はいない。
「……どこに行ったんだ、夏生」
携帯電話に掛けても、夏生は出なかった。話したくないのだろうかと思って、光は目を伏せる。
自己嫌悪が、再び光を襲った。下らない嫉妬をして夏生を苦しませている自分が、酷く嫌になる。そのために、夏生と満足に話もできないのが、光には涙が出そうなほど辛かった。
「……やはり、きちんと謝らなくては」
唇を引き結び、光は自分を叱咤した。今の状況を打開するには、夏生を見つけるしかない。こんなところで立ち止まっている暇は、彼にはなかった。
「ここだよ」
翠は、夏生の顔を見上げて微笑んだ。夏生は言葉もなく、目の前の光景を見つめる。
温室の裏にはいくつか棒が立て掛けられており、それには無数のヒルガオが絡みついていた。可憐な花がいくつもいくつも、寄り添うように咲いている。
「これ、わたしがおせわしてるの。きれいでしょ?」
「……うん。お前、すごいな」
自然と笑みを浮かべた夏生を見て、翠は少し照れたように笑った。それから、傍にある古いベンチに夏生を座らせる。
「ちょっと、まっててね」
そう言って、翠は立ち去っていった。さらさらと揺れる髪を見送って、夏生はベンチに背中を預ける。
山からの風が、優しく夏生の髪を弄った。心地よい涼風を全身に浴びて、夏生は目を閉じる。
「……謝らなきゃ、な」
夏生は、大切な人の顔を思い浮かべながら、呟いた。ささやかな音を立てて揺れる可憐なヒルガオは、彼によく似た少女のように夏生をじっと見つめていた。
「……翠のためにも、仲直りしなきゃ」
目を開けて、夏生はよし、と気合を入れた。勢いを付けて立ち上がり、思い切り体を伸ばす。
「なつきおにいちゃん」
「ん? お帰り……」
戻ってきた翠に笑いかけた夏生は、その後ろにいるすらりとした影を見て、思わず目を見開いた。
「……夏生?」
光も驚きながら、首を傾げる。
「なつきおにいちゃん、ひかるおじさん、けんかはだめだよ」
そう言って、翠はにっこりと笑った。光を引っ張って夏生の隣に座らせ、立ったままだった夏生の手を引く。
「なかなおり!」
「う、うん」
戸惑いながらも、夏生は腰を下ろした。手を伸ばせば届くところに、光の白い手がある。とくりと、夏生の胸は小さく鳴った。
「おちゃとおかし、もってくるね。なかなおりしててね」
翠はそう言って、踵を返した。すぐに、小さな背中は見えなくなる。
二人の間に、沈黙が落ちた。涼風が、優しく二人を包む。
「……あの」
「……夏生」
全く同時に、二人は口を開いた。思わず見合わせた互いの顔が、思った以上に必死なもので、二人はふっと笑みを浮かべた。
「つーさん、どうぞ?」
「夏生から言ってくれ」
「……じゃ、俺から」
夏生は綺麗な空気を目一杯吸ってから、光の目を見て口を開いた。
「ごめんなさい! ……霖さんに、あんな風にどきどきして。その……、ほんとは、昨夜……、浴衣着てる霖さん見た時から、変な気分になってたんです。けど、別に霖さんが好きになったとかじゃなくて……」
必死に紡いだ夏生の言葉に、光はゆっくり頷いた。
「……ああ。分かってるよ。お前は、あの人を好きになるはずない。……お前は俺を好いてくれている。いつだって、一生懸命に俺を愛してくれてる。……知ってるのに」
光は空を見上げた。青い空を、白い入道雲がゆっくりと漂っていた。
「どうして俺は……、あんな風に苛立ってしまったんだろうな。……すまないな、夏生」
「そりゃ、怒りますよ誰だって! 好きな相手が、目の前であんな風に別の奴に鼻の下伸ばしてたら。……そりゃ、俺は男にしか、あんな風にはならないけど」
「だが……! 俺は、お前のことも兄のこともよく分かっているのに、あんなに機嫌を悪くする必要なんてなかった。……兄に嫉妬する必要なんて、なかったんだ」
力なく、光は項垂れる。握り締めた白い指先が、夏生のすぐ傍で震えていた。
「分かってるんだ……。分かってるのに、あんな……。言い訳にしか聞こえないだろうが、自分でも信じられないんだ。お前の顔を見たくないと思うほど苛立つなんて……、初めてだった」
「……つーさん、ごめん。……ごめんなさい」
謝りながら、夏生は恐る恐る光の手に自分の手を重ねた。ぴくりと、握り締めていた光の白い手が震える。
「ねぇ、今回のことは、どう考えても俺が悪いですよ。ヤキモチ焼くのは、それだけ……俺が好きだってことでしょ。俺は、あんたのその気持ちを傷付けたんだ。責められたって、仕方ない」
一回り小さな夏生の手が、光の手をそっと握った。
「あの、……あんまり、自分を責めないでください。いつだって、あんたは俺を責めずに、自分のせいにする。けど、今回みたいな時は……、責められた方が、いっそ楽です」
「だが……。いや、そうだな。お前が望むなら、そうした方がいいのかもしれない」
細い声で呟いて、光は悲しそうに笑った。その儚い笑顔に、夏生の胸がきつく締まる。
「でも俺は……、いつだってお前が悪いと思ったことはないよ。十も年上の俺がもっと大きく構ていれば……、お前を苦しませずに済んだことは、たくさんある」
「こういうことに、歳は関係ないですよ。……だから、年齢のせいにしないで。
あんたはもっと、素直になるべきです。俺に怒ったんなら、そう言っていい。俺は、そうやって……、あんたが自分を責めてるところ見るの、嫌なんです」
光は、声を震わせながら言った夏生の横顔を、じっと見つめた。
「あんたは……、優しいあんたは、俺を傷付けたと思って、自分を責めるんだろうけど……。俺はそうやってるあんたを見て、余計に苦しんでるんです。それを、忘れないでください」
「……すまない」
光は頭を下げる。ふわりと、癖の少ない髪が揺れた。
夏生はささやかな笑みを浮かべて、光と向き合った。幼さの残る目が、頼りなく項垂れる光を優しく見つめる。
「俺はあんたのこと、大切にしたい。でもさ、大切にするのって、なんでもかんでも全部自分のせいにするってことじゃないでしょ? 俺が馬鹿なことをしたら、ちゃんと怒ってください。あんたが悪かったら、俺も怒るから」
「……ああ」
夏生の手を握り返して、光はしっかりと頷いた。夏生は光の顔を見て、やっと満面の笑みを浮かべる。慈愛に似た優しい目は、いつの間にか悪戯っぽいいつもの目に戻っていた。
「じゃ、さっそくですけど怒ってください」
「え? あ、ああ……。ええと……」
突然の夏生の言葉に焦りながらも、光は必死になってあの時のことを思い出そうとした。だが、すっかり凪いでしまった怒りは、中々戻ってこない。
「叱ってくれないんですか……?」
「待て、お前はなんでそんなに怒られたがって……。いや、そうだな。責められた方が、楽なんだよな……」
「そうそう。ちゃんと叱ってください」
嬉々として叱られたがっている夏生を見て、光は余計に焦った。だが、上手い言葉が出てこない。
「あー……、その……、俺に似てるからって、兄に……、その、欲情しないでくれ。あの人にその気がなくても、不安になってしまう。……お前は時々、信じられないほど行動的だから」
「はい」
殊勝に頷いた夏生を見て、奇妙な罪悪感が光の胸に去来する。もう、叱る気にはなれなかった。
「……後、なにか着て欲しい物があるなら、素直にそう言ってくれ。できる限りの努力はするから」
「へ? ああ、浴衣のことですか?」
少しだけ頬を赤く染めて、光は頷いた。
「アルバムを見ていた時も……、昨夜兄さんに欲情したのも……、浴衣を着ていたから、だろう?」
「あー、そういやそうですねぇ。別に、今まで意識したことなかったけど……。浴衣って、けっこう尻の形が分かるから」
「う……ここでも尻か。お前は本当に尻が好きだな……」
僅かに眉を顰めながら、光は困ったような顔をしてぼやいた。
「好きですよ。でも一番好きなのはあんたの尻ですから。心配しなくても」
「心配などしていない。……というか、するのが少し馬鹿らしくなってきた」
「えー、じゃあもうヤキモチ焼いてくれないんですか?」
「さぁな。お前次第だ」
そう言ってから、少し迷って、光はそっと夏生を引き寄せる。
随分久し振りに、互いの顔が近いなと二人は思った。そのまま近付いて、二人は目を閉じる。温かな吐息が、互いの唇に触れた。
「なかなおり、できた?」
「あ、ああ!」
唐突な翠の声に、光は慌てて夏生を突き飛ばす。勢いあまって、夏生はベンチから滑り落ちた。
「いって!」
「あ、すまない、つい」
「ひかるおじさん、けんかはだめだよ」
翠は光を窘めてから、持ってきたお盆を光に渡した。その上には、三人分の麦茶とパウンドケーキが載っている。
「喧嘩なんかじゃないよ。大丈夫」
心配そうに覗き込んできた翠の頭を撫で、夏生は起き上がる。ベンチに座り直す夏生を見上げて、翠は少し視線を彷徨わせた。光と夏生の間に盆が置かれ、ベンチはほとんど空いていなかった。
「ああ、翠の座る場所がないな」
そう言って光は少し端に寄ろうとした。だが、夏生は自分の足を開いて、翠を手招く。
「おいで。椅子になってやるよ」
「……え?」
「ほら、ここ」
戸惑う翠を抱き上げて、夏生は自分の膝の間に座らせた。
隣の光は、ぽかんとしたまま年下の恋人の横顔を見つめる。
「なんだ、こういうのしたことないのか? 車に乗った時とか。最近の子は、みんなチャイルドシートだもんなぁ」
のんびりと言いながら、夏生は麦茶のコップを翠に渡す。言われるままにコップを受け取り、翠は不思議そうにすぐ上にある夏生の顔を見上げた。
「おにいちゃん、あつくない?」
「うん。全然」
にっと笑って、夏生は自分の麦茶も取った。腰を上げたままの光に気付き、首を傾げる。
「座らないんですか?」
「あ、ああ……」
言われるがままに、再び光はベンチに座った。だが、喩えようのない恥ずかしさと、霖に感じたものとは違う種の嫉妬に、顔を赤くして黙り込む。
こんな子どもにまで、と光がまた自己嫌悪に陥っている間、夏生と翠はのんびりとヒルガオを眺めながら、ケーキをぱくついた。
「ひかるおじさん、たべないの? おいしいよ」
「美味しいですよ」
子ども二人の無邪気な笑顔に、光は深々と溜息を吐いたのだった。
四、結局いつものように
「確かこの辺に……、あ、あった」
夕食後、衣装箪笥の奥を漁っていた光は、藍色の浴衣を引っ張り出して笑みを浮かべた。少し開いてみて、懐かしそうに目を細める。
「着てくれるんですか?」
光の後ろに座って、夏生は嬉しそうに訊ねた。
「……ああ。その……見たいんだろう?」
少し照れたように笑って、光は浴衣を自分の横に置く。それから、更に奥を漁った。だが、目的の物はない。
「え? まだなんかあるんですか?」
「ああ。ちょっと待っていろ。確か……」
いくつかの段を探した後、光はやっと目的の物を見つけた。それを取り出して、夏生に開いてみせる。
「また、浴衣?」
「お前の分だよ。ちょっと立ってくれ」
言われるままに、夏生は立ち上がる。袖と裾を合わせ、光はにこりと笑った。
「ぴったりだな」
「……もしかして、これって」
光の箪笥から出てきた浴衣を嫌そうに睨みながら、夏生は満面の笑みを浮かべている年上の恋人に訊ねた。
「小学生の時の浴衣だ。まだ残っていて良かった」
「やっぱり……」
予想通りの返事を聞いて、夏生は深々と溜息を吐く。癖毛を掻きながら、夏生は座り込んだ。
「俺は別に、いいです。子ども用の浴衣着るような歳じゃないんで」
「でも、サイズは合っているぞ。デザインも大人用と大して変わらない」
「そういう問題じゃないんですー。とにかく着ませんから!」
そう言って、夏生はキャリーケースの中から着替えのスウェットを取り出した。不満そうな光に背を向けて、風呂の準備を始める。
「着てくれないのか……」
「着ませんよ。大体、俺が着たって誰も喜ばないじゃないですか」
光は首を傾げ、夏生の隣に座る。
「俺が喜ぶぞ?」
「……こんの、天然タラシ……。風呂の前に食べちゃいますよ?」
じろりと光を一睨みして、夏生は殊更乱暴に替えの下着を引っ張り出す。その手に、光はそっと自分の手を重ねた。
「構わない。……と言いたいが、さすがに兄さん達が気になる。……だから、これだけ」
ゆっくりと、光は顔を近付けた。長い睫が、桃色の頬に影を落としている。
「……昼間の続き……、やりたかったんですか?」
こくりと素直に頷く頬の赤い光を、夏生は優しく抱き締める。今度こそ、目を閉じた二人の唇は触れ合った。
久し振りの柔らかな感触に、二人の心はゆっくりと溶けていく。互いの熱を感じながら、更に深く口付けようとした。
その時、ノックもなくドアが開く。
「に、兄さん!」
「ぐぇっ」
思わず昼間のように夏生を突き飛ばし、光は慌てて兄の様子を探った。霖は眉一つ動かさず、二人を見下ろす。
「……先に上がった。さっさと入れ。後……」
つかつかと、霖は突き飛ばされた夏生のところまで歩み寄る。その耳を引っ張って、無理矢理夏生の体を起こした。
「いだだだだだだ」
「娘におかしなことを教えるな」
「なんのことですかぁ……!」
冷たい目をした霖を、涙目の夏生が見上げる。
「いきなり膝に座られた。……お前にしてもらったと言っていたが」
膝に座る、と聞いて、ようやく夏生は合点がいった。
「あー。昼間そんなことがあったんですよ。別にいいでしょ、それくらいのスキンシップ」
「品が悪い。二度とやるな」
それだけ言って、霖は立ち上がる。颯爽と去っていった霖を、二人は呆然と見送った。
「……もしかして、あれもヤキモチ、とか?」
「いや、それはないだろう……。多分」
言い合ってから、二人は笑った。改めて着替えを手に取り、夏生は立ち上がる。しかし、少し悩んでからスウェットをキャリーケースに戻した。
「浴衣、着方が分かんないんで、上がってから着付けてくれます?」
「……ああ。もちろん」
光の表情が、ぱっと明るくなる。つられて、夏生も笑った。すぐにその笑みは、悪戯っぽいものに変わる。
「一緒に風呂入ってくれたら、手間が省けますけど」
「……それは少し。その……、声がよく響くんだ。ここの風呂は」
「別に、なんにもしませんよ。……上がった後は保証しないけど」
こつりと軽く夏生の頭を小突いて、光は二人分の浴衣を手に取った。自分の下着を用意してから、ドアの前で待っていた夏生の元へ向かう。
夜はまだ、始まったばかりだった。
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