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写真の中の鮮明な港の風景を見て、絵筆の先で水彩絵の具の細目の紙に乗せてゆく。
老女は眼鏡越しに見比べて……そして繊細な色を選びながら午後の制作作業を続けていた。
部屋の扉に控えめなノックがされた。
「おばあちゃん。そろそろおやつの時間ですよ。……」
老女は顔を上げ壁掛け時計の文字盤を見てから返事をした。
部屋に入った孫娘は、壁に掛かった幾つもの水彩画を見ながら歩き、机に向かって座る老女の背後に立つと絵の中を覗き込んだ。
「だいぶ計がいったわ」
老女が経過途中の画面を見て言うと孫娘が尋ねた。
「これは……どこ」
「どこだっけ。いつの旅行の写真だったかしら……日本のどこかの漁港でしょうけど」
椅子を回し肘掛けに手をつき立ち上がった老女に孫娘は手を貸そうとした。
「大丈夫。ここのテーブルでいただこうかしら」
「じゃあ持ってくるからね」
湯気を立てた煎茶と小皿に取り分けられた小ぶりのこし餡餅の乗った卓。
向かい合わせに座った二人はうららかな窓外の冬を眺めながらとりとめなく言葉を交わしていた。
「一昨日、ケイちゃんと旅行に行った時のお土産でね」あんころ餅を一つ楊枝に刺して上げながら孫娘は言った。「期限が今日中。おばあちゃんこれ好きだったよね?」
「そうでしたっけ。ここのはずいぶん上品な感じだけど、町中のお餅屋さんの牡丹餅も大好きだったよ。今の季節じゃ北窓か」
「もう少し頃合いが良くなったら、おばあちゃんも一緒に連れて、家族みんなで旅行に行けるといいんだけど」
「そうね、もう少し身体が調子良くなったらね」老女は笑みを浮かべつつ返事をしたけれども、もうその機会は無いだろうな、と心に浮かべた。
「元気な頃は北から南、あちこち巡ったけれど、うん、今行きたい所があるとすれば、そう……」
老女は夫の顔を思い浮かべた。
▽
今頃、列車に乗って自分の生地を正眼に見ているだろうか。
一昨日、夫は望郷の思いが心に湧き、もう長く訪れていない自分の生地を見てくる、と言い旅立った。
「一緒に来れないか」と言われたけれど老女は首を振った。
「僕だけごめんね」
「それはいいの。私の今の身体じゃあ近所の外出だって大ごとなんだから。行きたいとき、行けるときに旅をしないと次が無いかもしれない。行ってらっしゃい」
にっこり笑いながら、かすかに胸騒ぎが兆した。
いつも私など置いてきぼりで思いついたらすぐにどこにでも行ってしまうような人だ。
この旅行で思わぬ出来事などなければいいのだけど……。
翌朝、玄関先で旅支度を整えた夫に小さな封筒を一つ渡した。
「何だい、これ」
「お守りにこれを持っていって」
夫は封筒を裏返し封印されてるのを見た。
「開けないで帰れたらいいけれど、もし何かがあった時にだけ開けて。無事に帰ってくるために」
「見ちゃだめなの」
「普通に帰ってきたら教えてあげます。じゃあ、いってらっしゃい」
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妻の言葉に送り出された時の光景を思い出して男はそれとなく切ない感情を味わっていた。
妻がすっかりと髪が白くなって染めなくなったのはいつからだっけ。
元気な頃は自分から時間を見つけて旅行に出るような人だったのに、もうその力が残っていないのだろうな、と思った。
「君と来れたらどうだったろうか」車窓の風景を見ながら考えていた。
寒い季節の引き締まった空気の下、路線沿いの山々に抱かれた里山の光景を見ながら、妻が水彩画でこれを描く様を想像してみた。
都市部暮らしからすると、ここのノスタルジックでのどかな風景は観光にうってつけと思うのだろう。
季節ごとの山々の眺めは美しく思えつつ、しかし住人も減り集落も細るような今の現実を見ると、人々が暮らした集落の痕跡も風香するように消されていってしまうのだろう未来が予想できた。
普通に暮らす街中では都市特有の新陳代謝で早くものが生まれ変わるのだが、周縁の場所は変わらずに、ただ少しづつ場所として老いてゆき、次第に消えていくものなのかもしれない。
そう思うと、自分の生まれた場所を今のうちに見ておきたくなった。
長じて結婚するまでは親の引っ越しで住む場所はいくつか変わったけれども、生まれた場所は一つだった。
何があるわけでもなく、記憶と記録を頼りにかつては戻らずにいた場所に戻るわけだ。
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観光資源のある場所からは外れ、めぼしい産業もない集落は現在、昔からの住人の住まいと簡素な畑がある程度だった。
住居にしても空き家も増えているようで、玄関先が蔦植物のはびこるままなのが見てとれた。
歩きながら、見回しても、ぼんやりと地形に覚えがあるような曖昧な感触があるばかり、どこにも記憶に触れてくるものが無いのが胸に刺さった。
ここにもう自分のいた頃の痕跡などありはしないことは覚悟はしていたが、それでも何か自分の中に化学反応のようなものが生まれるのを期待していたのかもしれない。
自分の生地が特別であるように錯覚していたのだけれど、それ以上の意味は無かった、のか。
わずかにある高台に上り、そこから集落を見渡すと、残った集落の物らが時間と森に呑まれていくような予想図が思い描かれた。
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駅で乗車した列車内で男は気を取り直した。
妻への土産話の一つでも作っていかなければ、と思い直し旅行の娯しみを探すことにして足を伸ばすことにした。
どこかの温泉や食事、名勝めぐりでも、この列車の行ける範囲で巡ってから帰ろう、と。
だから列車のクロスシートに乗り合わせた一人の老人ともそれとなく話しかけることも出来た。
老人はカジュアルな格好に写真の機材を携えており、話しかけると楽しそうに撮影旅行のあれこれ、詳しい付近の土地の観光情報を語った。
「もう学生の頃から旅をして写真を撮ってるんですよ」この話題になると止まらなくなるのか、滑らかに話が続いた。「結婚しまして息子が一人。独り立ちするまでは我慢もしましたが、その時期以外は毎年、四季折々の風景をあちこちで収めているって言うわけです。ま、一時は連れ合いのご機嫌を取るために食事と温泉メインの旅行とかを組み込んで一緒に出かけた時もありました。それこそ若い頃は放っぽいといて恨まれて何か仕返しされやしないかなんて。それ、仕事に作ってくれる弁当箱の代わりに玉手箱でも渡されて開けたら爺さんにされてしまうとか」老人は顔を撫でながらハハハと笑って続けた。
「そんな冗談言ったら向こうから「失礼な、だったら私だってそもそも友達と一緒の方が楽しい」とか言われちゃて。ま、こちらも写真に専念できるのがありがたいし、夫婦互いに好きな旅を勝手にしたりしてるわけです。でもおかげでそうなってからの喧嘩とかはほんとにありませんよ、円満なままで」
ひとしきり話が済むと、写真家らに有名な撮影ポイントのあるという土地が近づいてきた。
「そうか、奥さんお大事にね。良くなって一緒に旅行できると良いね」
一人旅の理由を聴いた老人は、男にそう告げた。
「まあもう年齢的にも難しいでしょうけれど」
「またぁ」老人は笑いながら応じた。「私に比べればあんたなんか若いでしょう。悲観しちゃダメですよ。それでは、良い旅を」
老人は機材一式を背負って停車駅で下車をした。
▼
車内に残った男はぼんやりと考えていた。
「若いと言ったって」
妻の今の姿を思い浮かべた。
年を重ねたことを「老い」呼ばわりをしたくはないが、そこまで現実から顔を背けたくはない。
共に過ごした年月を……。
「若い」などと言われるなど冗談を……。
そっと記憶を辿った。
彼女が私にかけてきた声を思い出し、そして娘とその婿、孫娘の顔を思い描いた。
……娘の声を最後に聴いたのはいつだ?
列車がトンネルに入った。
暗転した窓ガラスが明るい車内を映し出す鏡になって男は自分の顔を見た。
40代のままの顔が映り込み、見返していた。
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これは、と思い、これか、と思い直した。
そして妻が出掛けに渡してきた封筒を取り出した。
『何かがあった時にだけ開けて。無事に帰ってくるために』
これが「何か」だろうか。
封筒の端を破り中に指を差し入れて一枚の短冊大の用箋を摘み出した。
折り畳まれた紙片を開いて文字を読んだ。
男の名前と、生年月日。
そして享年月日が記されてあった。
男は自身の臨終の記憶を思い出した。
▽
お茶とこし餡餅のおやつの最中、老女の耳がかすかに羽音をとらえた。
目を閉じて、旅先で封筒が開いたことを識った。
「おばあちゃん」孫娘が声をかけたがしばらく返事がなく少し慌てて声をかけた。
「大丈夫」老女は笑って答えた。
夫は生者でない自分の事を思い出してしまった。
人としての肉体はこの世にはもう無いことを。
だから旅先でその姿を失ってしまったことだろう。
でも……
▽
乙姫は浦島太郎になぜ玉手箱を渡したのか。
玉手箱を開けた浦島太郎は老人になった。
乙姫は仕打ちをするために玉手箱をわたしたのではない。
龍宮を発ち故郷に戻った浦島は、長い年月が流れそこに彼の知る何ものも残っていないのを見、その時に彼を人の寿命を遥かに超えた時間が襲い掛かる筈だった。
だが玉手箱は老衰して果てる筈だった浦島に老人から更に鶴の姿を与えた。
鶴は千年、亀は万年……鶴の寿命は浦島の過ごした時間を受け止める長さを持っていたから。
乙姫は浦島が自分の元に戻ってくるように玉手箱を手渡していたのである。
▽
「最後にもう一杯熱いのを良い?」
老女にそう頼まれ、湯を沸かしに孫娘は立ち上がった。
その時に描きかけの水彩画の上に目が行った。
「あれ」、と思った。
先ほど覗き込んだ時には気づかなかったのか、港の風景画の空に一羽、丹頂鶴が翔んでいる。
「北の方かしら」そんなことを思い浮かべてキッチンに向かった。
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目を閉じた老女は、既に夫が帰ってきているのを感じていた。
そうしてもうすぐ近づく自身の旅立ち、その時にはあの絵にもう一羽の丹頂鶴が現れる。
そうして今度は夫婦での長い旅をするのだ……。
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