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現実逃避する微睡みを手探りで着替える。徐々に生気を失っていく義母の瞳に無理矢理光を嵌める五時の飽和した空気。トントンと呼びかける包丁の音に雑に着替えた体を持っていく。階段の軋む音が私なりの義母への返事だ。
「お義母さん、おはようございます」
「おはよう、鐘子さん。
いつも早いわね」
「お義母さんには及びませんよ」
義母は義父の分を毎食欠かさずに作る。息子の世話で大変な鐘子さんに負担はかけられないわと、嫌味も皮肉も交じらぬひと言を私に預けてからお勝手だけ貸してくれるかとねだっては、義母が朝はいちばんに台所に立っている。
義母の柔らかな湯気を嗅ぐとあの朝の青あざをやさしく解してくれるようで__ただ歳を追うごとに鋭角になっていく腰の丸みに、私はその場限りの笑顔を贈るのだ。すると義母は無理矢理嵌められた光を素直に吸って猫目な皺を私に向けてくれるから。
「顔、洗ってきちゃいなさい。あと、お洋服もシワを伸ばして、ね」
「……はい。」
二年前から、私は義母の束の間の休息として生きることしか出来ていない。
義父の介護を何度か手伝おうとしたが、義母は頑なにそれを断った。「新婚さんが気にすることじゃない」、「あなたには他に目を向けるべき人がいるでしょう」などと理由をつけては拒む。夫婦への責任感なのか、義母は言葉のとおりに動き続ける。
なにがそこまで義母を縛るのかは分からない。日に日に態度が悪化していく義父の、最後の砦として傍に居続けたいのかもしれない。だから私は、二年前から変わらぬ意思の傍らで同じく表情(カオ)を繕う。
……伝染する如く。
洗面台の凍ったフローリングを裸足で踏み鳴らす。つま先から冷気を吸って未だに現実から逃れようとする重い瞼に赤く腫らした鼻と不細工な顔で目を覚まさせ、角に水垢が溜まった蛇口で肌に水を差した。
全身に鼻の赤が滲むと義母の手を思い出す。義母の手は薄く伸びた皮に浮き出た静脈を無数の皺がのさばっている。義父に毎日叩かれて静脈の色が侵食していないか無性に気になった時にはもう、湿布ですべてを隠されてしまったのだが。
顔を拭く。そこにすっかり居座る左手薬指の、今は無き違和感が陽を介して鈍く光っていた。使い古された肌に馴染むフェイスタオルを元の場所に引っかけ、義母のいる台所へ向かう。私が次に義母の顔を見た時には、義母の湯気は洗剤のお供に替えられてしまっていた。
「今お父さんのが出来ましたから、代わるわね」
「はい。お疲れさまです」
「ふふ、ありがと。鐘子さんの分も少し作っておいたから、よかったら召し上がって頂戴」
いつもお疲れさま。
そう言うと義母は義父の怒声に呑まれるように貸した部屋へ料理を持って消えた。丁寧に野菜で彩られた小鉢を左手に添え、義母の手料理を眺める。小さく切り揃えられた湯気の正体を、洗浄機から水の切れた箸で拾って食う。切ない愛情表現をひと口一口受け取るうちにいつの間にか貪って雀の鳴き声に正気に戻る。そこまでがすっかり私の日課になってしまっていた。
夫と、五歳になった息子の朝を考える。
冷蔵庫を覗く。火曜にスーパーで中々の量を購入した筈なのに、夫か、それか義父がつまみ食いでもしたんだろうか。思ったよりも量が減っている。
考えても面倒なので定番の焼き鮭と卵かけご飯、義母が残した豆腐を昨夜の具が少なくなった味噌汁に放った。夫・息子共に好き嫌いも文句もなく食べてくれるだけありがたい。小鉢の、手で払われた音が既に感覚で聴こえていた。
*
愛のある朝は変わりなくやってくる。
「おはよう。お、今日は鮭と豆腐の味噌汁か。」
「おはよう。悠太着替えさせてやってくれる?」
「分かった」
「ママあ、ぼく、くびのチクチクいやだぁ」
「首のチクチク嫌かぁ。帰ってきたらゴム緩くしてあげるから、今日だけ我慢出来る?」
「えーッ。ぼくだけいろぬりやめる、チクチクいやだー!」
「色塗り?」
「そう、今年長さんが卒業用に看板にイラスト描いてて。今日は色付けするみたいなの」
「へー、いーじゃん! なあ悠太、どんなの今描いてるんだ?」
「えーっと、きょーりゅーと、イルカと、おんなのことにじ」
「すごい世界観」
「ほら、着替えないと大好きなくみちゃんに会えないよ?」
「うー……チクチクたえたらごほーびある?」
「しょうがないなあ。お菓子でいい?」
「バクレンジャーのおもちゃがいー! けんの、シュビッシュビッてきるの、はやとくんがもってた!」
「ソフビのか……。わかった、いつも幼稚園でいい子してるから、特別だよ」
「ほんとっ!? やった、やった!」
「ママ、俺には?」
「手抜きの愛妻弁当があるでしょ。いーから、早く着替えて食べちゃって」
「ちぇー。
悠太、おもちゃ買ってもらったらパパにも見せるんだぞっ」
「おー!」
ああ゙あッ……アッ……ア゙ああ゙ーーッ!!
化膿した怨みの悲痛な叫びに、私たち三人は現実を叩きつけられる。夫は悠太と私に「ちょっと騒ぎ過ぎたな」と苦笑を滲ませてウインクをしてきたが、息子は義母同様に小さな身体をさらに丸くして「……やっぱり、いい」とだけひと言残して着替え用の服を取りに行ってしまった。私の湯気は私と同じように、ただその場に居座っては私たちの様子を静観しているだけだった。
ひどく胸がざわつく。遠くから聞こえる義母の「ごめんなさい」が焼印のヒリつきが残ったままの心臓に爪を立てガリリ、音を引っ掻く。脳が悶える。瞳孔が開く。充血する。涙、一縷の涙。母。母、はは。
ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……
「鐘子ッ」
両肩を鷲掴みにし、揺さぶられる。影は違う。でも確かに、あの時と同じだ。
口の動きは違うはずなのに。確かに、聞こえるのだ。
__『そんな愛情を、私に向けないで』と。
「鐘子!!」
ドッ、と男性の胸板を押し付けられ、すぐさま身体の絞められる感覚に陥った。鼓動の音が顬で静かに、緩くなっていくのが分かった。……なんだ。どうしてしまったのだ、私は。
目の前にいるのは母でも、父でもなかった。強く抱き締められたのはひどく心臓の音がする、私の左手薬指同様に鈍く光るネクタイピンをつけた夫だった。
献身的な義母。ある日を境に人格が瓦解してしまった義父、それを庇うように熱をくれる夫。
今と同じままの、無力な私。
トン、と息子の抱きつく感触で過去を忘れかけたのに、息子は「いい子」に運動用の首元がチクチクする服に着替えてしまっていた。
「ママだいじょうぶ?」
そう言って頭を撫でる息子の手が、気持ち悪かった。
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