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『当たり前のように、のうのうと生きているアンタが羨ましい』。
本の内容すら次には忘れてしまう身体で文庫本の活字を追う義父に、陽だまりの影が伸びる背で寂しく呟かれた。
義母が入用で出かける際だけは義父の世話を任されるので、そんな日は息子をママ友に一緒に送ってもらい私が義母の代わりとなる。
認知症になる前は義母とのデートに古本屋を訪れては無名の作家の一つを購入し、記念日には小洒落た店でワインと小さなケーキひとつ啄いて帰りに義母へ花束を渡すロマンチストな人が、今では空しく流れる虚無に当たり、時折糞尿を撒き散らした床をつま先で啄く男になっていた。私に向けるのは柔和な笑顔とはかけ離れた息絶え絶えな焦点の定まらぬ眼と宙でぶつける皮の張りついた脚。施錠した窓ガラスから何かを買いに、隙さえあればどこかフラフラと歩いてしまう癖が一年前に出来てから義母も私も気が気でなくなった。
義母に思い当たる節を考えてもらったものの、疲弊した脳にまともな答えが返ってくる筈もなく義父が歩き回るのを阻止する日々が続いている。
義父が事ある毎に席を立つようになってから、義父は外を指さして「用があるんだ」と出かける準備をする。義母や私がついて行こうとすると決まって毎朝のスヌーズな怒声を投げつけられた。義父自身制御がきかず隅に置き去りのままになった愛読書の単語をばら撒くだけの数分に、記憶の端々を接(つ)いで大粒の泡沫をすくう義母の細い睫毛が心臓を掻き毟るから、私がいる時は義母の盾となって義父の怒りを受け止めていた……が。
「自由のきくお前にとって、私は邪魔でしかないだろう?」
ひどく哀しい声は切なくなるほどに優しく、過去の義父が記憶の海で畝をあげる。そんなクサい恋愛小説のようなひどいセリフを、なぜ憶えているんだ。
……息が、詰まる。
「真っ直ぐに否定しないところが素直だよ、あいつと違って」
穏やかな口調の奥で大きく波が立つ。義父の寄れた寝間着が影のせいで刻まれた古傷かの如く痛々しい。
義父の記憶がある時ほど不安になることはない。
鐘子さん。
そう呼び、古傷を吸った背中が振り向く。
「……用が、あるんだ。」
「ッ__」
義父は義母が私に毎朝向けるあの猫目と全く同じ雰囲気で、泣きそうなほどに優しい瞳をこちらに向けていた。
「ひとつだけ、忘れられないことがあるから。……行かせてくれるね?」
折れた枯れ枝が地面の肌色を滑っては北風に煽られ視界から消えていく。
義父だ。よりによって、義母のいない時に。『義父がいる』。
……嗚呼、もうグチャグチャだ。
いつものように怒鳴って、私を罵って、そのまま夜に意識だけ床に撒いてくれたならそれでよかったのに。
最後だけ優しくして去ろうとするなんて、いちばん質の悪い詐欺師じゃないですか。
「……私が目を離した隙に、ってことにしてください」
自由のきかない身体は、それを聞くと喜んでぎこちなく立ち上がった。
「ケーキを買ってくるよ。花屋の隣のね」
「少し経ったら、竜夫さんとお義母さんに連絡を入れますから。……」
ちゃんと、無事に帰ってきてください。
そう言うと義父は「記憶があるうちにね」と洒落にならない冗談を返し、義母がいつの日かに仕舞っていた上着を羽織り去ってしまった。
私はどこかで、コンクリートに半身を赤黒く濡らして帰ってきてくれたならいいのにと願った。
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