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夫は世間一般において、よく出来た方だと思う。
妻を労い子の良き見本で在り、両親を大事にする。自身には誇りを持ち、定職に就いて十年以上。偶に会社に行きたくないと駄々をこねて仮病を使うぐらいで、邪気の無い愛嬌が隣にいて安心する、そんな人だ。
……確か私の父も、そんな人だったと思う。
母が狂い始めたのはいつだったろう。私の自我がはっきりする頃には既に頬が歪(ひず)み、昨日までの義父に取ってつけたような笑顔をよく見せていた。なにかに怯え、父はスーツに他人の体臭が付こうが酒や煙草の悪臭が付こうが、どんなにくたびれた状態でも私の次に母を気遣って、気遣って、気疲れた。
母は元から愛されることに自信を持てない人だった。よく言えば繊細で、悪く言えばヒステリックに似た症状を抱えながら、「いい嫁」というヒロインを演じ続けてきた。周りに贔屓目を感じ、実の娘にさえ席を売る始末。私はそんな母のサクラになって、喜んで鑑賞していたのかもしれない。干渉すればするほど母は威厳を失い泣き崩れていった。父は昼の、下手すれば夜の母も知らずに冷えきったご飯をかきこみ寄り添っていた。私が触れようとすると筋肉が硬直するくせに、父の前では啜り泣くことをやめずにいた母を見て、そんな無力感からいつしか母の演劇に目を瞑ってはこちらに視線を集めたときだけ「いい子」を演じてやった。
そんな演技に簡単に騙されて安心する母がもうなにを求めて「いい嫁」「いい母」の舞台に立ち続けるのか、私には分からなくなってしまった。
ただ、腹の底から喜んだことだけは覚えている。
だからあの日も、「いい子」を演じてみせたと思っていたのに__自我が皮を突き破り自ら剥いで出てしまった。
*
……お願い。今すぐ帰ってきてほしいの。
そう言った後、慌てふためく夫が愛らしかった。どうやら私の生気は義父に吸い尽くされてしまったらしい。焦点の定まらぬ死んだ魚の眼が三日月に歪むことだけ、辛うじて顬が教えた。
……お義母さん。お義父さんが、お義父さんが……。
啜り泣く声に惑わされた義母は、次に強風と地面を蹴る音を私にくれた。義母の献身は私をも満たしてくれるのか。そうして、ようやく母の本当に欲しかった愛情というものを知った。
母は、保身的な愛に欲情していた。
夫婦の盲目という対象から外れる私や周りを異様に察知する眼。「ごめんなさい」とひとたび口にすれば溢れる依存の甘美に、溺れ、自惚れ、また元来の責任感に押し潰されて身勝手に姿を消した。
それが今になってようやく分かった。
まだ夫と義母の通知以外、なにも届いてはいない。あと十分もすれば息子が帰ってくる。私に愛をねだりに、気の知れたママ友と共に。
義父のいない部屋で外を見る。
薄いレースカーテンに醜悪な顔をした女が、たいそう私に似た顔をしてこちらを低い角度から睨んでいた。
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