環を解く

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 玄関ドアの軽く叩く音が聞こえ、長い白昼夢とくだらない過去のうやむやをそこの虚無へ棄てた。鍵やピンポンを使うのならインターホンで顔を確認する手間があったが、拳で叩く音から察するに彼が無事帰ってきたのだろうとドアを開けた。  花の香りが一気に舞う。次いで垢の残る義父の体臭が流れ込んで、大切に仕舞われていた上着の、防虫剤のフローラルが香る。義父の記憶は辛うじて香りに繋ぎ止められているようだった。  寝間着の生地も厚くどこも擦りむけてはいない。  五本の赤を口元の下揺らす。まだ覚めやまぬ最後の記憶と義父の柔い口調が強風に煽られ、数枚の花弁が散った。  花束と、その下に視線を送る。義父の手元にケーキの箱は見当たらなかった。私を義母だと勘違いもしている。それは老眼のせいなのかもしれないが、やはりどこか欠損している。  それでも私が義母ならば、きっと涙の混じる鼻声でありがとうの五文字と、ありったけの愛で包めたのだろう。鼻先をくすぐる赤を、私は受け取ることが出来なかった。  適当に演じてやればよかったのに__責任の伴う愛に応えられないまま、 「ママ?」  重複するそれが義父のすべてを打ち消した。  喉笛から沸き上がる私の自尊心が、息子と首元のキツく縫われて絞まるチクチクにこれ以上ない嫌悪と敵意を向けて、私はとうとう、どこか昔に母に洗脳されちまったのだと知った。どいつもこいつも、責任感で愛をなぞりやがって。 “そんな愛情を、私に向けないで”  愛をくれよ。無償の愛を。本当の、愛ってやつを。  義母の声が遠くから聞こえた。義父の振り向く動作は花束と包装紙の擦れる音で分かった。私の両目で蠢く死んだ魚は、しばらく何も映すことはなかった。義父の最後の記憶の催眠はとけたのかどうか、ことのすべてが解決するまで私は「あの日の無力な私」で在り続けた。義父は塵箱へ黙ったまま放ると、花の香りを最後に部屋へ籠ってしまった。目障りなサクラは泣き喚き、義母はどれから対処すべきか分からなくなって、花の便りをもとに義父の捨てた塵芥を拾う。そこに混じる一枚の紫のクロッカスが、完全に出遅れた夫へ別れを告げた。
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