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2.新婚生活
四月になって、あたしたちは稲毛海岸の新築マンションに引っ越した。
三階の三〇五号室。
生ごみを粉砕してシンクに流せるディスポーザーがあり、シンクの下にはビルトインの食洗器がある。料理好きを装ったあたしのための設備なのかもしれないが、どうでもいい装備だ。
ただ、あたしには漠然とした作戦があった。
(この男を徹底的にいじめてやる――)
もし、この男の残虐な本性が明らかになれば、警察だって調べ直すはずだ。そのためには、この男を挑発し、苛立たせ、外面を包む薄皮を取り除き敵意をむき出しにさせねばならない。
その結果、男の殺意があたしに向けられたとしても構わなかった。
(それこそが、チャンス到来だ!)
あたしは、徹底した悪妻を目指した。
「ねえ、車、買い換えない?」
男は購入して三年になるSUVに乗っている。月経だからと一週間ほどセックスを拒否した上で、珍しくあたしに甘えられた男は鼻の下を伸ばした。
「あたしさ、この車に乗ってみたいな」
あまり贅沢を言っても実現しない。マンションの頭金を払い、ギリギリ手が届くクラスの赤いクーペをあたしはねだった。
「けっこうな値段だね……」
渋る男にあたしは乳房を押しつける。
「残価設定で買えば行けるんじゃない?」
男は決断し、ご褒美に抱かせてあげる。納車の日、この車に合うからと、男の家族カードで買った真っ黒なジャケットとミニスカート、深紅のベルトに赤いパンプスを履き、男を驚かせた。
「どうしたんだよ……」
「似合う?」
「うん、ものすごくカッコいい……なんだか、女優さんみたい……」
(ざまあみろ)
文句ひとつ言えない男がおかしかった。
しかし、そんなのは、ほんの手始めだ。毎朝の弁当で培われたあたしの料理に対する幻想を打ち砕いてやらねばならない。
総海市に住む男の両親からは、新婚の息子夫婦にしばしば海産物や農産物が送られてくる。ある日、夕食に出された干物を見て、男は絶句した。
「これ、焼いた?」
「うん、焼いたよ。健康のために塩分を抜いた方がいいから、一時間くらい水に漬けて塩抜きしてから焼いた」
白っちゃけた干物はブヨブヨして、食べ物とは思えない。
「トモちゃんは食べないの?」
「あたし、干物は好きじゃないのよね。あなたの健康のために塩抜きしたのだから、ちゃんと食べてよ」
無理やり箸を運ぶ横顔がおかしくて、あたしは腹を抱えて笑いそうになった。
「干物、たくさん送られてきたから、しばらく続くよ」
男は慌てた。
「だったら、ご近所にお裾分けすればいいよ」
「あたし、近所づきあい苦手なんだ」
「わかった、オレが持っていく」
よほど、塩抜きした干物がまずかったらしい。
翌朝、男は出勤前に両隣の家に干物を配ろうとした。あいにく三〇四号室は留守らしく、三〇六号室の峰岡さんと三〇七号室の村本さんの家に「おいしい」干物が渡された。
三〇六号室の峰岡さんは新婚だが、二十歳そこそこの妻と、一回り以上歳上の夫だ。舌足らずに喋る妻は見るからに幼く、どこか疲れた雰囲気の夫とは残念ながら似合わない。
三〇七号室の村本さんはあたしより少し歳上だろうか。ゼネコンに務める夫は一年の半分以上が国内外の出張とのことで、どこか寂しそうだ。退屈しのぎだといって、宅配業者の制服を着て宅配便の荷物をマンション内に配達するアルバイトをしており、いやがおうにもマンション内の顔は広いのだろう。
干物を渡し愛想良く喋る高瀬の声が、妙に楽しそうで腹立たしかった。
*
時間の経過とともに、あたしは放棄する家事を増やしていった。
食洗器の中は、使った鍋やフライパン、汚れた食器を「隠す」場所と化した。たまにカレーを作れば、コンロ上に鍋を放置した。何日か経つとカビが生え、強烈な悪臭を放った。
図書館で本を借りっぱなしにして、後始末を男にさせることもあった。
次第に会話が減り、セックスがなくなり、帰宅時間は遅くなり、家で食事をしなくなった。
そんなある日、相良正人から電話があった。スナックで働いていた頃、学生アルバイトでボーイをしていて、惚れられて童貞をもらった相手だ。
「結婚したって話に訊いて、そろそろ倦怠期かなと思って――」
「へえ、いい勘しているじゃん。あんたは何やっているの?」
「錦糸町のホストクラブで働いてます」
「なるほど、営業ってわけか」
「まあ、そうなんすけど」
「金払ってあんたに会いに行く気はないよ」
「きっとそうだろうなって、わかってますよ」
「じゃあ、なんで電話してきたの?」
「純粋に、トモさんがどうしているのかって、気になったもんすから」
「殊勝なこと言っても、何も出ないよ」
「オレ……」
電話の向こうで男は次の言葉を選んだ。
「何人かの女とつきあったんすけど、やっぱ、ダメみたいで……」
「ダメ?」
「トモさんじゃないとダメっつうか」
「歳上が好みってことね」
「そうじゃないっす。歳上の女ともつきあったんすけど、それでもダメで……」
(可愛いこと言いやがる……)
「トモさんが結婚して……幸せだってことはオレも嬉しいんですけど……」
初めてアパートに連れてきた夜も、確か、こんな感じで口説かれた。
「もし、できれば、ホントに時々でいいから、オレと会ってくれませんか?」
あたしも、この男に会ってみたい気がした。
「いいよ」
「え、ホントすか!」
「うん。今、どこに住んでいるの?」
「新小岩です」
「これから会う?」
「会います!」
「新小岩なら総武線がいいわね。稲毛駅の西口ロータリーで赤いクーペを探して」
あたしは黒いノースリーブのシャツに黒いジャケットを羽織り、黒いミニスカートを合わせ、サングラスをかけ、真っ赤なルージュを引いた。高瀬翔馬に買わせた赤いクーペで稲毛駅のロータリーへ行くと、胸元のボタンを外したシャツを着崩し、ダメージのジーンズを穿いた男がこちらに気づく。
窓を開けて手を振ると、男は小鹿のように駆けてきた。
「おまたせ」
「ちょうど、着いたところっす」
助手席に乗った男には、まだあどけなさが残っている。
「時間はあるの?」
「夜七時には入店しないと」
まだ午前十一時を過ぎたところだ。
「時間はたっぷりあるね。行きたいところはある?」
「トモさんが一緒なら、どこでもいいっす」
男の視線は、ミニスカートから伸びる黒いストッキングの脚に向けられている。
「触りたいの?」
「……そりゃあ」
「いいよ、触っても」
男の手がスカートの裾をめくり、指先が股間に届く。
「こら、それは触り過ぎだって」
言葉と裏腹に、あたしはほんの少し、膝を開いてあげる。
「しょうがないヤツだなあ――」
ウインカーを出し、あたしはクーペを走らせた。
(確か、この先にあったはずだ――)
そのままホテルへ直行した。
「なんか、スゲエ嬉しいっす」
男はいきなり抱きついてきた。夢中になってあたしを脱がせ、貪った。あたしは体の力を抜いて、彼のしたいようにさせてあげる。久しぶりの感覚に素肌は歓喜し、男の体に吸いついた。
その日をきっかけに、週に一度か十日に一度の割合で、あたしは相良とのセックスを楽しんだ。
*
八月になってすぐ、台風が接近した。
上陸はまだ先なのに、朝から暴風雨が吹き荒れた。
「駅まで送ってくれないかな」
マンションから駅まで普段はバスで通勤だが、これではバスを待っている間にずぶ濡れになる。こんなとき、悪妻は微塵の同情も示さない。
「はあ? 何言ってんのよ。こんなときに車を出して、何か飛んできたらキズがつくわよ」
哀れな夫の言葉など意に介さず、台風の中継をするテレビを見る。
チッとこれ見よがしに舌を鳴らし、夫は玄関を出て行った。
廊下から話し声が聞こえた。どうやら、三〇六号室の峰岡さんが同じタイミングで出発するらしい。
(くそ、峰岡さんの車に同乗させてもらえるようだ……)
天気予報では、帰宅時間帯に台風は接近するらしい。
(行きは無事でも、帰りにボロボロになるがいい)
ところが、その夜も夫は運よく峰岡さんと駅で会い、マンションまで送ってもらえた。
(悪運の強いヤツだ――)
それでも、そろそろ、本性を現してもいい頃だ。あたしは、注意深く夫を観察した。そして、ついに香水の匂いを発見した。
(悪妻に嫌気が差して、浮気を始めたのだろうか……)
そうだとすれば、狙いが外れてしまったことになる。こちらに敵意を向けねばならないのに、逃げ込む場所を作られたのでは元も子もない。
(女を作ったのなら、徹底的にそれを邪魔してやる。そうすれば、殺したいほどあたしが憎くなるだろう――)
あたしは浮気調査の探偵事務所を探した。
*
稲毛海岸の隣駅になる千葉みなと駅から千葉都市モノレールに乗り、千葉公園駅で降りる。そこから歩いて五分ほどの雑居ビルの五階に「湾岸探偵社」はあった。
名前は立派だが、事務所の中には机がひとつだけで、事務員もおらず、宇佐美公平という社長ひとりでやっているらしい。宇佐美は四十過ぎといったところで、ダンディな中年だった。
「夫が不倫をしているかもしれないので、調べていただけないでしょうか?」
結婚式の写真を見せた。
「勤め先は総海製作所で海浜幕張駅前のテクノガーデンにある関東支店に勤務しています。営業部の営業一課で法人営業が担当です、以前は夜七時前に帰宅していましたが、今は早くて九時過ぎ、遅ければ十二時頃に帰ってきます。家で食事をすることはありません」
宇佐美社長は料金システムの説明をした。
「相手の住所・氏名・所属・携帯電話番号・証拠写真、この五点セットでよろしいでしょうか?」
「はい、それでお願いします」
「最初は五万円+交通費で三日間の調査となります。延長する場合は、状況に応じて一日あたり二万円+交通費の追加料金が発生します」
あたしは調査を依頼し、三日目の夕方、宇佐美から連絡があった。
「実は、連日尾行しているのですが、いまだに浮気の現場を押さえられていません。これから帰宅時の尾行をしますが、証拠を得られなかった場合、延長はいかがしましょうか?」
前日も、翔馬のスーツには香水の匂いがついていた。女がいるのは間違いないとの確信をあたしは持っていた。夫を逆上させる材料を得るため、このまま何の証拠も得られずに調査を止めるわけにはいかない。あたしは延長を申し入れた。
「昨晩も夫のスーツには香水の匂いがありました。女性と会っているのは間違いないんです」
「そうなると、会社の建物内かもしれませんね。わかりました。粘ってみます」
しかし、それから四日間延長したにもかかわらず、不倫の証拠を得ることはできなかった。
「ご主人が用心している可能性もあります。もう少し間を置いて、ここぞ、と思うタイミングでまたご連絡ください。継続調査の扱いで割引させていただきますから」
その言葉に従うしかなかった。
あたしは悔し紛れに相良正人を呼び出した。
「トモさん、なんだか今日は激しいですね」
騎乗位であたしに犯され、最後の一滴までしゃぶり尽くされた相良が呆れた。
そして、真夏の事件が起きた――。 (つづく)
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