ギルバートの話

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「ねえ…なんでこんなの観てるの」 「こんなの?ただのニュースを俺が見たら変なのか」 「でも、マトリだよ?」 「だからなんだよ」 心底どうでも良さそうな兄はおれの不安なんて微塵も感じていないんだろう。それどころかおれのかける言葉が耳障りと言わんばかりに眉間にシワを作っていた。 …自身の存在がマトリにバレたらどうなるかなんて、自由奔放に生きてきた兄は考えもしないのだろうか?そもそも警察に脅えるような人であれば、マフィアになんてなってないのかもしれない。 でもおれは… おれはマトリがとてつもなく恐ろしい。 家族である兄が、人とも思われず残酷なまでに傷つけられるなんてとてもじゃないけれど耐えられなかった。おれが回収してきたあの服用者の死体達みたく、ただ犯罪者を理由に悪戯に切られ、無惨な姿のまま道端に捨て置かれるなんて絶対… 嫌な想像をしてしまった。でもそれが想像で終わる確証もない。不安に胸がザワついて仕方がなくて、おれは膝にかかっていた毛布を引き寄せる。 「兄ちゃん、おれ達大丈夫だよね」 視線だけ振り返る兄。なにがと聞かれている気がして、「マトリ」とつけ足した。 「さあ。俺より警察のお前の方が詳しいだろ」 「…無理だよ。同じ警察っつっても貴族と平民ってすげー扱い違うんだよ?」 「はっ、昔話か。なんて言ったっけ、ああそう、身分制度」 「本当だって!マトリが今何を捜査してるのかも知らないし誰がマトリなのかもおれの所には伏せられてるんだってば。人数もなんも教えてもらえないんだから」 「ふうん。まあ確かに、末端が兄ちゃんにペラペラ喋ってるような危機管理能力だって言うなら、この署長の判断は正しいんだろうよ」 ふうと首を仰け反らせて兄は紫煙を吐く。 なんだよその言い方。 「別にいいじゃんかよ、家くらい…」 「ふん」 「ねえそれよりテレビ消そ。なんかおれ、嫌だ」 「ガキか」 鼻で笑ってテレビの音量を下げても消す事はしない兄。それがなんとなしの無意味な行動なんだとしても、おれには意思があるようにしか見えなかった。だって元々兄はニュースなんて見ない人だったんだから。 なにか欲しい情報があるんじゃないか? 兄はやっぱり、マトリに対して何か考えているんじゃ? …なにか危険を感じる事がある?それをおれに隠してるだけなんじゃ…… 気づけば膨れ上がる不安が口をついていて、 「兄ちゃん、おれ達本当にマトリに…」 「あ?てめぇもくどい男だな!バッティ」 「っ…」 兄の荒らげた声に、おれの身体はビクッと強ばった。ガキの頃から兄を怒らせてろくな事がなかったと嫌という程学んだおれの本能が、大人になった今でも情けない程兄の不機嫌な挙動1つに敏感になってしまつている。また兄も些細な事で突然機嫌を損ねる人だから。 たった少し苛立ちを顕にされただけで、聞きたかった事はもう喉の奥に引っ込んでいった。 兄は煙草を灰皿に押し付け、前髪をかきあげる。 「ああ鬱陶しい。聞いてるだけでイライラする」 「……ごめん」 兄の視線を感じて言い直した。 「ごめんなさい」 「はあ…」舌打ち。 「なあ、バッティ。俺とお前を見てどっちが服用者か分かるか?分かんねぇだろ。違いがねぇならコイツらマトリにも同じことだ。服用者かどうかの判断材料は現行犯くらいしかねぇんじゃねぇのか」 「でも…マトリには分かるかもしんねーじゃん。そーいう装置とかあったらおれ達、すぐアイツらに…」 「確かにな。ただそんな装置があるならこの会見で発表されたのはマトリの設立じゃなくてその発明品だったと思うぜ」 そう言って兄はブラウン管を顎で指す。今も尚、画面の中では署長は威厳ある顔で会見を続けている。 「あの署長。謎の組織で魔薬を撲滅するってだけじゃああんまりにも具体性に欠けるだろ。手の内を伏せているよりも見せられる程機能していないんだと俺は見るけどな」 「そっか」 淡々と事実を述べる兄の話を聞いているうちに、あれほど募っていた不安は落ち着きどころを見つけたらしい。 そうか。効力を使っている所を見られない限り、マトリに粛清されることもないわけだ。確かに服用者の死体は皆、どんな効力を発現していようと皆、普通の人の姿だった。 服用者か否かは魔薬を使用したか否かでしかないけれど、実際は効力を確認出来たか否かで判断されるのだ。 そう思うと、ストンと腑に落ちた気がした。 であればおれ達にもまだ希望はある。 おれも兄もただ密かにいつも通りの生活を続けていれば、この日常をマトリに脅かされる不安もない。 「…あっけねぇ。しっかりしろよ警察」 ホッとしたのが顔に出ていたのかもしれない。兄は呆れた顔をしてまた再び画面に向き合った。 そんな兄の仕草におれはもう不安がる事をとっくに止めていた。だから兄の横顔を見ても、その何も感情も乗せない表情を見ても、何も気づけなかったのだろう。 運命の分かれ道には予感や天啓があると聞くけれど、この時のおれは、今日を一生後悔する事になるなんて思いもしなかった。 無表情の兄が何を考えどんな覚悟を決めていたなんて夢にも思わず、ただつまらないニュースで占領されたテレビを惜しく感じながらもう一度眠りにつくのだった。
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