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どうしてどこの医務室も独特な空気が流れているんだろう。 無機質で人を突き放すような、なんの薬品かも分からない匂いが充満している。 それはルピシエ市警察署に併設された医務室も例外でないようで、ドアを開けると苦手な匂いが鼻をさした。 反射的に顔を背けるも、中があまりにも静まり返っているものだから遅れておれは医務室を覗き込む。 「あれ。誰も居なくないすか」 薬棚に囲まれた医務室はもぬけの殻だった。普段なら医務官の1人や2人待機していて、怪我人や体調不良者がすぐに診てもらえるはずなんだけど… おれの疑問に答えるかのように、部屋の奥の壁時計がボーンと数回鳴った。 その両針はてっぺんで合わさっている。 時刻は12時。 「もうとっくに昼休憩ってわけか。ついてねぇなあ」 頭の上で先輩はボヤいた。 どうやら怪我したおれが医務官達に診てもらえないことを本気で残念がってくれているようだ。 なんて優しい人なんだろう!とはならない。呆れた。 なにせ彼の気にするおれの怪我というのは、依頼主の貴族にたった1発顔を殴られたものでしかないのだから。殴り慣れてもいない中年男の拳なんてたかが知れている、そるがたまたまちょっと当たり所が悪くて頬を切っただけ。 本当にただそれだけだというのにこの過保護な先輩、おれの切り傷を見ただけでもう、 『膿んだら大変だ!』 『顔に跡が残ったらどうするんだ!!』 なんて大騒ぎするんだから… おれの言葉なんて聞きやしなくて、こうして医務室に引きずられて来たのが事の顛末だった。 「やー、仕方ないっすよルドルフさん!」 おれの為に気を揉んでいる先輩に言ってやった。 背丈の大きな彼の頭はだいぶ高い所にあるのでおれは首を仰け反らせ、 「だいたい医務室来るような大きい怪我ってわけじゃねーんだし。それにもう昼なんすから、ルドルフさんもおれの事なんて気にしないで飯食って来てくださいよ!」 人はめいいっぱいの笑顔で促されたら早々断れないとおれは知っているから、にっこり笑ってやった。イメージは先輩思いのいい後輩。どうだ?ウインクは流石に止めたけど。 ただここは流石はルドルフと言えばいいのか。おれら警備課の中で兄貴肌として通っている彼はそんなセオリーよりも、依頼主の機嫌を損ねて帰ってくるような不出来な後輩を放っておけない いつもの面倒みの良さの方が黙っていないらしく、 「何言ってんだよギル。せっかく来たんだから手当はするぞ。医務官が居ねぇなら俺がやってやる」 簡単に一蹴された。 「えー…別にいらないっすってば」 「いいから。俺の友達は切り傷ほったらかして腕ごと切る羽目になったんだぞ」 「そんな。なに時代の話ですかそれー」 「まじで。分かったらほら、早くすんぞ」 ずんずんと医務室に入っていくルドルフの背中に「えー…」とせめてもの抵抗をしてみるも、彼の足が止まることはなかった。 ここに来るまでもそうだったけれど、おれの拒否はルドルフにとって"貴族のパンチ"程度のようだ、これは皮肉。要は全くきいてくれやしないっていうこと。 こんなん放っておいたって塞がるってのに… 「早く」 いつまでも入口で突っ立っているおれに痺れを切らしたらしい。踵を返したルドルフに腕を掴まれ引きずりまれて、結局おれは流されるまま空いているベッドに座らされた。 やっぱり貴族のパンチ、だな。 じっとり睨めつけてもルドルフには効果なし。満足気にガーゼや軟膏を探し戸棚を漁り始めた。 全く、警備課にとって怪我なんて日常的だっていうのに。 主な仕事が未だに貴族の護衛である時点で、おれらは所詮は金持ちの為の人間の盾でしかないのだから。任務に行ったまま人を庇って殉職、なんてのも珍しくない世界だ。それを警備課の一隊長まで務め上げた彼が分からない訳ない。 なのに、なんでこんな傷1つでいちいち大袈裟に騒がれなきゃいけないんだよ… ふつふつとした苛立ちは歯痒さとなっておれの心の中にのしかかっていくけれど、それもすぐに空気が抜けたように萎んでいった。 …理由なんて本当は分かっているんだ。 「ギル。言っとくけどな、俺は案外手当ってのは得意なんだぜ」 戻ってきたルドルフは救急箱片手に適当な椅子を引きずっておれの前に座ると、言葉通りに手際よく消毒の準備をし始める。 「誰もそんな心配してないっすよ。てかそれくらい自分でおれ出来るから!」 「だーから心配すんなって」 消毒液に浸された綿が問答無用で押し付けられ、ピリっと傷口にしみた。 「はは、我慢して偉いなあ」 「……」 ルドルフにとって所詮おれは永遠にガキで、弟なのだ。 ガタイもあり力もあり、そしてこの優しく面倒見のいい性格のルドルフは警備課の皆から頼りにされているけれど、じゃあおれは? 少なくとも、今日のルドルフにされた事を考えればまず頼りにされていないのが分かる。1人前とすら思われてない。 きっと彼にとっておれは半人前程度が妥当。 なにせたった少しのかすり傷程度で心配しなきゃいけない程には、面倒を見てあげなくてはいけないと思われているんだから。 それこそ子供が転んだ時みたく、すぐに駆け寄らないと!手を貸して立たせてあげないと!とおれに対しても思っているんだ。 まさに言葉通りの子供扱いだ。 そしてなによりおれは、あのラファエロの弟だから。 おれも直接聞いた事はないけど、ルドルフと兄は恐らく知り合いのようなのだ。 そしてルドルフにとっておれは、部下と言うよりその知り合いの弟。…そういう特別扱いを受けているのは自分でも分かっていた。 「つーかどんな殴られ方したらこんな所に切り傷が出来んだ?爪でも当たったか」 「多分リングが引っかかっただけだと思うんすよね。あの人 ゴツゴツしたのつけてたから」 「そうか。可哀想になぁ、痛かったろ」 「大丈夫っすよ。ガキじゃねーんだから」 「はは、そうだな。そうだった」 ケラケラ笑うルドルフの過保護なまでの優しさは、結局おれの情けなさへの証明でしかない。 そう理解すればする程、傷に優しく綿を当てられる度 羞恥心が募った。 これじゃあまるで兄貴分じゃなくて母親だ。 実際怪我した幼いおれを記憶の中の母や学校の先生もこうして手当されていたっけ。 それにこの匂いだ。学校の保健室も実家の救急箱もみんな、ここの医務室みたく何かわからない薬品の匂いが漂っていた。 ああ、そうだ。だからおれはこの匂いが苦手になったんだ… 思い出す限り、手当されるガキのおれも今のように子供扱いされた事への恥ずかしさと歯痒さみたいなものを感じていたから。…いいや、それだけじゃなくて、可哀想な子だと同情されるのが幼いながらプライドを傷つけられたのだ。 だって、手当する大人は決まってガキのおれに言うのだから。深刻そうに顔を歪めて憐れむようにでも責めるような口調で、 『誰にこんな事されたの?』 『あのお兄さん?』 『…またラファエロなのね』 なんて、苦いこと思い出しちゃったな。 「で、誰にこんなことされたんだ?」 「え」
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