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ヴィクトールが山の裂け目のような入り江についた時、あたりはすっかり暗くなっていた。微かにまたたく明かりに安心し、二世花の散った草地に降り立つ。
「カイ君、夕飯の時間だよ」
手袋をはめた手に、青灰色の魔石を乗せて座るカイの横に立つ。ふわりと温かいのは、暖気魔法を発動しているのだろう。持ってきたマフラーをカイの首にかけ、ヴィクトールも横に腰を下ろした。
黒く、大きな鏡のようになった湖面と、その向こうにそびえる「熊の牙」山の影を眺める。湖の上を渡ってきた強めの風が、ヴィクトールの髪を揺らした。
「……すいません」
風でぶれた湖上の月がまた綺麗な円に戻ったころ、隣のカイが口を開いた。
「『一緒に作ろう』って言ってもらえたのが嬉しくて、舞い上がってました。ちゃんと確認もしませんでしたし」
「いや、それは」
勝手な思い込みで動いていたヴィクトールがいけないのである。だが、ヴィクトールがそれを口にするより、カイが叫んで立ち上がる方が早かった。
「でも、どうせ別れるんだし、何か残すぐらいいいじゃないですか!」
「え?」
思いもよらぬカイの言葉にヴィクトールがたじろいだ瞬間、強く握りしめたカイの拳の中から、パリ、とガラスが割れるような音が聞こえた。
「!」
考えるより前に、反射的に体が動いていた。
目の前に立つカイに飛びかかり、右手の中にあった魔石を叩き落とす。覆いかぶさるように草地に倒れ込みながら、落とした魔石をできるだけ空高く飛ばした。固く目をつぶり、カイの頭を胸に抱く。
低い響きと共に、空気が揺れた。
衝撃波がヴィクトールのローブを膨らませ、髪の毛を逆立てた。巻き上げられたマフラーに頬をぶたれながら、爆風に吹かれて草の上を転がる。
完全に風がやんでから、恐る恐るヴィクトールは目を開けた。ちらちらと青灰色の粒子があたりに舞い、地面が少しえぐれているようだが、それだけのようだ。
「大丈夫? どこか痛いところはない?」
危険がないことを確認してから、膝をついて体を起こす。下にいたカイの全身を撫で回し、ほっと息をついた。
「あの、ヴィクトールさん……」
「……よかった」
起き上がってきたカイを抱きしめる。あのまま魔石が爆発していたら――今頃になってヴィクトールは震えていた。
少し体を離し、改めてカイの全身を眺める。揺れる指先を伸ばし、跡の残る左頬に触れた。また彼を傷つけてしまうところだったと思うと、怖くてたまらない。
自分より少し低い位置にあるカイに顔を近づけ、貪るように柔らかい唇を重ねる。ただカイが無事だと確認して、安心したかった。自分の腕の中にしっかりと息づいているという確証を得るように、何度も薄い皮膚を重ねる。
カイの実在を調べるように唇を甘咬みし、柔らかな感触を吸ってからヴィクトールは顔を離した。濡れた瞳と唇が、月明かりで蠱惑的に光っている。その下にある首も、なめらかで美しい。また唇を重ね、カイの全身を抱きしめ、それからやっと少し落ち着いてきたヴィクトールは体を離した。
「それで、あの……わ、別れるって……何? なんで……そんなこと」
「な……ヴィクトールさんが言ったんじゃないですか、『そのうち跡取りを考えなきゃいけない』って」
「えっ? あ……ああー」
数秒考え、ようやくヴィクトールはカイが何を勘違いしているのかに気が付いた。脱力し、そのまま地面の上にどさりと座り込む。嫌な感じに跳ねまわっていた胸を押さえて深呼吸すると、熱い体を秋風が冷やしていった。
「うち、血縁関係じゃなくて師弟関係で工房を継いでいく方式で……『先代工房主の弟子がゼーアの名前と店を継ぐ』決まりになってるんだ。コボルト式っていうんだけど……説明したことなかったっけ」
「き……聞いてません」
「……ごめん。だから、カイ君が考えたように、僕が子供欲しさに女性と結婚、っていうことはないから、それは……安心してほしい」
空を仰ぐと、空に舞う青灰色の魔力残滓と、その向こうに満月が見える。ヴィクトールはもう一度大きく息を吸った。言うなら今しかない。
「というか、僕は……カイ君、いずれ君に工房を譲りたいんだ」
視線を横にやると、大きく見開かれたカイの目がヴィクトールを信じられないという表情で見つめていた。みるみるうちにそれが潤み、光の筋が頬を滑り落ちていく。
「まあ……いきなりそう言われても困るだろうし、僕自身まだ先の話だと思いたいし、これからじっくり考えてくれればいいから……」
「やらせてください! 俺、頑張りますから!」
カイの叫びは悲鳴に近かった。
「そうか。頼もしいな」
強く握られた手を握り返すと、カイは服の袖で涙を拭った。それからふっと笑う。
「2回も助けてもらったんです。それぐらいさせてください」
「ん……ありがとう」
ヴィクトールも微笑んだ。お互い、自分1人で抱え込まずに相手に話してみればよかったのだ。なんて滑稽な遠回りをしていたのだろうと思うとおかしくてたまらなかったが、今でなければいけないような気もした。
「もう子供はいいよ。また吹き飛ばされて死なない自信がないし」
くつくつと笑ってから、すぐ横にある顔に頬を寄せ、キスをする。薄い皮のすぐ下に、カイの熱さを感じる。控えめに差し出された舌がぶつかり、それからまたゆっくりと触れ合った。たったそれだけなのに、ヴィクトールの頭には靄がかかったようだった。ぼうっと心地よくて、目の前の相手以外、全てがどうでもよくなってしまう。ただ幸せの中に浮かんでいるようで、ヴィクトールは今自分が地面の上にいるのかさえ自信が持てなかった。
名残惜しさを残しながら舌が離れると、そこには決意に満ちたカイの眼差しがあった。
「ええと、俺、まずはヴィクトールさんのことをしっかり支えられるように頑張りますから! その……仕事も、そうじゃない部分も!」
懸命に誓うヴィクトールは胸が熱くなった。そこまで想われているということが嬉しくてならない。だが、そんなに意気込む必要はないのだ。
「もう十分、カイ君は僕のことを支えてくれているよ」
不思議そうなカイの顔を見ながら立ち上がる。
「君がいるから、僕は前を向けるんだ」
「どういう……?」
「言葉通りだよ。君が来てくれたから僕はコンテストに参加する気になったし、もっと頑張ろうって気持ちになれたんだ」
きっと、ヴィクトールのことだからうまくいかずにまたくよくよする日も、失敗する日もあるだろう。だが、カイがいてくれればもう致命的なほど落ち込むことはないと思えるのだ。前向きに頑張るカイは、それだけでヴィクトールの心を照らし、先へ進む道を見せてくれる。
いつの日か、母と祖母がいた頃のような――いや、それ以上の店にしてみせると、今なら恐れずに断言できる。二人なら、それはきっと夢物語ではない。
ぽかんとした顔で見上げてくるカイに手を差し伸べ、引っ張り上げる。
「帰ろう、僕たちの工房へ。ロジウムも待ってるよ」
「はい!」
跳ねるように飛び上がったカイのかかとに触れ、水上歩行の魔法をかける。手を繋いだまま湖に飛び出し、踊るように回る。振り回されたカイが「わあ」と声を上げ、すぐにそれは笑い声に変わった。
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