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翌朝、目が覚めたヴィクトールが着替え終わった頃、元気よく部屋の扉がノックされた。朝から何だ、と思っていると、答えを待たずにカイが部屋の中に入ってくる。
「おはようございます、ヴィクトールさん! 朝のご用意のお手伝いに参りました!」
「んぇ」
思わず変な声を発したヴィクトールは、ベッドの上に脱ぎ散らかしていた服に咄嗟に毛布をかけて隠した。
「あれ、もう着替えちゃいました? 俺、遅かったですか?」
「いや、か、カイ君は……使用人としてじゃなくて、職人としてここに来てもらったわけだから……そういうのは、しなくていいよ。僕はそんな身分でもないし」
「そうなんですか!?」
「う、うん……もしかして、エックハルトにはやってたの?」
「はい! アルマの役目でしたけど、毎朝お起こしして、お召替えのお手伝いを」
「そうなんだ……」
知りたくなかった情報である。いや、エックハルトらしいといえばそうだし、別に友人が彼の弟子にどう接していても口出しするようなものではないのだが。急いで起きてきたらしい寝癖の跳ねた頭を見ていると、しゅんとそのうなじがヴィクトールの方を向く。
「あ、あの、じゃあ……俺、戻りますね。朝から騒がしくして、申し訳ありませんでした」
「あー」
肩を落として部屋を出ていこうとするカイを見ていられず、ヴィクトールは声を上げた。小間使いのように扱う気はなかったが、朝からヴィクトールのために働こうとしてくれた気持ちは受け取りたかった。
「そうだな、せっかくだから髪の毛をお願いしてもいいかな」
「っ、はい!」
鏡台に置いていた木製の櫛を差し出すと、音を立てそうな勢いでカイは頭をもたげ、櫛の柄を握った。鏡台前に腰掛けると、いそいそと背後に立つ気配がする。立っている時はヴィクトールの目線あたりにカイの頭があるので、見下ろされるのは新鮮だ。
慣れていないのだろう、弱すぎる力で当てられた櫛が頭の上を滑っていく。くすぐったさを感じたヴィクトールは、思わず身をよじった。
「ヴィクトールさん、髪の毛長くて綺麗ですよね」
「そう、かな。ありがとう」
「ツヤツヤで美術品っぽいっていうか、気品があって素敵ですよね。手触りもいいですし」
髪の毛が長いのは、臥せっていたときに勝手に伸びてしまったからだ。短髪よりも寝癖になりにくいことに気づいてからはずっと肩の下あたりの長さにしている。色については、酸化した真鍮のようでそんなに好きではない。
毛先のほつれを取り、そっと髪の毛を梳くカイの手の感触が心地よい。もっと触ってほしかったが、体が反応しようとしていた。平静を装い、櫛と飾り紐を差し出す。
「このまま結べばいいですか? それとも編んだりします?」
「編めるの?」
「できませんけど」
ならなぜ聞いた。ヴィクトールがくつくつと笑うと、鏡の中のカイが赤くなる。むくれたように見てくる目が愛おしい。
「練習すればできますから!」
出来上がった結び目に触れると、案の定ぐずぐずである。頃合いを見計らって後で結び直そう、と考えながら礼を言い、席を立つ。
「じゃあ次、カイ君の番ね」
「えっ」
適切な距離感が分からなかったが、多分、これくらいはいいだろう。カイの肩を押して、先ほどまで自分が座っていたスツールに座らせた。櫛を持って、好き勝手な方向を向く赤い茶髪に顔を近づける。
いい匂いがした。カイ本人の、少し甘い、陽だまりのような匂い。
抱きしめたいと思った。強く抱いて、この匂いを胸の奥まで吸い込みたい。全身をこの匂いに包まれたい。若い牡鹿のように溌溂とした体を腕の中に収め、心ゆくまで撫でまわしたい。そして、劣情をそこにぶつけて、この健やかで明るい香りを淫靡に汚したい。自分だけのものにするのだ。そう、ちょうど背後にはベッドがある。だから。
「ヴィクトールさん?」
きょとんとした様子のカイの声に、ヴィクトールはハッとした。いつの間にか手が止まっていたらしい。鏡越しにヴィクトールを見てくる視線を直視できず、慌てて手を動かす。きっとさっきの瞬間、自分はすごくだらしない顔をしていただろうとヴィクトールは思う。
(何を考えているんだ僕は)
カイのことを好きなのは勝手だが、その気持ちを出すべきではない。立場を利用して脅迫しているのと同じだし、ただお互い気まずくなるだけである。それに、もし万が一心を通わせてしまったら、きっとカイを手放せなくなってしまう。
弟子として迎えはしたが、ヴィクトールはカイにこのまま工房を継がせる気はなかった。カイが自分と同じ苦労を味わい、病気になるところなど想像したくもない。
全く関係ないこと――今日のうちに終わらせておきたい依頼や、工房の不足してきた材料など――のことを必死で思い浮かべながら手早くカイの寝癖を直し、香油で整える。透明感のある、凛とした香りが微かに広がった。
「あ! ヴィクトールさん、いつもいい匂いすると思ったらこれなんですね!」
「え?」
すん、と鼻を上げたカイが、髪油の小さな瓶を手に取る。蓋を開け、くんくんと匂いを嗅ぐ。
「『二世花の香り』? ……にせいか?」
「この村に、というか、『熊の牙』山にしか生えない珍しい花だよ。夏になると、必ず二輪の白い花をつけるんだ」
「あっ、そういえば昔言ってましたね。確か、一面雪が降ったみたいになるんでしたっけ」
「そうそう、よく覚えてたね」
にせいか、ともう一度呟いたカイは、二輪の白い花が描かれたラベルをなぞった。ゆっくりと小瓶を鏡台に戻して立ちあがる。その動きに合わせて、花とカイの香りの混ざった空気も揺らめく。
「そうだヴィクトールさん、ロジウムさんから聞いたんですけど、毎朝散歩されてるんですよね? 俺もご一緒していいですか?」
「え、うん」
反射的に頷くと、「やった! 俺防寒着取ってきますね!」という言葉を残し、カイは部屋を飛び出していく。不思議に思いながら玄関に向かうと、昨日と同じ格好、つまりベストに軽くジャケットを羽織っただけのカイが恥ずかしそうに戻ってきた。
「俺、薄手の服しか持ってきてないの忘れてました」
「だろうと思った」
「すいません、アルマに連絡して送ってもらうんで……」
「そうしてもらうといい。まあ今日のところはこれで」
とんとん、とカイの頭、肩、背中、足に手をかざして暖気魔法をかけ、その上にマフラーを巻いてやる。こうすれば寒くはないだろう。
「わ、ありがとうございます!」
本当は、暖気魔法ではなく自分のコートを着せたい。寒くないように、手を繋いで歩きたい。だが「あったかい」と嬉しそうにヴィクトールのマフラーに顔を埋めるカイの笑顔を見て、「これくらいでいいのだ」と自分に言い聞かせる。
「それじゃ行こうか」
工房裏手から出ると、昨日よりも少しだけぬるくなったような気がする風が、それでもピリリと頬を刺す。
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