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第一話 首
青年は軽やかに屋根へ降り立った。
白い衣の裾をふわりと膨らませ、黒い瓦の上に音も無く着地する。さっと裾を捌いた後、青年は整然と並ぶ建物の屋根の上を歩き始めた。
一階分高い屋根は石段を登るがごとく、屋根と屋根の間は飛石を渡るがごとく。
まったく危なげを感じさせない青年の足取りは、庭園を散歩しているかのようだ。片手を腰の後ろに回し、ゆったりとした外衣を風に揺らして歩く姿は優雅で、貴公子然としていた。
「さて、どうするか……」
白い扇を手持無沙汰に少し広げては閉じ、パチリ、パチリと鳴らしていた青年は、ふと、地上の一角が騒がしいことに気づいた。
興味を引かれ、瓦をトンと蹴って大きく跳び、騒ぎの中心へ向かう。
ひときわ賑やかな通りの近くまで来た時、悲鳴と怒号が聞こえた。視線をやると、通りの屋台にぶつかって人や物を突き飛ばしながら逃げる男と、それを追う縹色の官服を着た男達が見える。
官服を着た者達は黒い帽子を被り、腰には身分証である制牌を下げ、手には鉄尺(鉄の棒の根元にかえしがついた武器)を握っていた。
罪人を捕まえる捕吏である。
彼らは逃げる男を追いながら口々に怒鳴る。
「待て! そこの男!」
「止まれ‼」
――やれやれ、止まるわけがないだろう。
屋根の上の青年が呆れながらも様子を見ていると、路地から一人の捕吏が飛び出した。
その捕吏は、他の者に比べて格段に身のこなしが軽かった。倒れた屋台や物を飛び越えて、慌てふためく野次馬を避けて、あっという間に男へと迫る。
「くそっ!」
追いつかれそうになった男が、抜いた短刀を乱暴に振り回した。怯む様子もなく、白刃を素早く避けた捕吏は男の手首を掴み、足を軽く払う。
「ぐぁっ⁉」
早業を躱すこともできず地に勢いよく倒れた男を、捕吏は抵抗する暇を与えることなく、手首を捻って押さえ込んだ。
砂塵が舞って納まった後、そこには関節を極められて痛みで呻く男と、片手で男を抑え込みながら、もう片手で短刀を取り上げる、涼し気な顔立ちの捕吏がいた。
おおお、と周囲から歓声が上がる。
「さすが黎捕吏だ!」
「お見事‼」
一斉に拍手を送られた捕吏は、しかし得意げにすることは無く、いかにも生真面目そうな声を出す。
「騒がせた。すまないな」
屋台を壊されたり、騒動に巻き込まれたりした者達への言葉だろう。彼は追いついた他の捕吏と共に男をしっかりと縛り上げた後、数人の捕吏に役所へ運ぶよう頼み、残った者には周囲を片付けるよう指示する。
自らもまた、怪我をした人々を助け起こし、壊れた屋台や散らばった商品の片付けを手伝い始める。
そんな捕吏の姿に感化されたのか、囃し立てていた野次馬達も手伝って、あっという間に騒動は落ち着いてしまった。
「ほお……」
屋根の上からその様子を見入っていた青年は、扇をばさりと広げた。軽く仰ぎながら、ふむ、としばし考え込む。
「……うん、彼にしよう」
広げた扇で緩む口元を隠しながら眺めていると、ふいに彼が手を止めた。顔を上げた彼の、猫のように吊り上がった目がこちらを見て――。
「おっと、いけない」
青年は後ろに跳んで、死角へ身を隠した。
もっとも、今は姿を隠す隠形の術を使っているため、普通であれば自分の存在を気づかれることは無い。だが、なぜか彼には気づかれるような予感がしたのだ。
ここで下手に騒ぎを起こすのは好まない。せっかくの出会いなのだから、もっと趣のあるものにしなければ。
「ふふ、楽しみだな」
彼の顔をちゃんと見ることができなかったのは残念だが、それはそれで楽しみが増えた。
彼との初対面をどうしようかと考えながら、青年はふわりふわりと楽しそうに屋根の散歩に興じた。
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