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――視線を感じる。
黎宇晨はさっと顔を上げた。視界の端、向かいの二階建ての酒屋の上で白い何かが横切ったように見える。
「……」
宇晨は人にきつい印象を与える吊り目を凝らして探したが、何も見つからない。
気のせいだろうか。猫か鳥でもいたのか。何にせよ、敵意や殺意は感じなかった。
職業柄、宇晨は人の視線や気配に敏感だ。危険はないとすぐに判断し、宇晨は手の中の簪の埃を掃った後、屋台の店主の男に渡す。
「ありがとうございます、黎捕吏」
「今回の損害については、役所に届けを出してくれ」
「はは、大丈夫ですよ。幸いほとんど壊れていませんし、綺麗に拭いて並べれば元通りですから」
店主がからからと笑っていれば、隣の屋台の女店主が木の実の入った袋を差し出す。
「よかったらどうぞ。いつもお世話になっていますし、あたしらからのお礼です」
周囲からも「ありがとうね」「これからも頑張ってくれよ」と声が上がる。しかし宇晨は首を横に振った。
「気持ちだけで十分だ。それでは失礼する」
宇晨は目礼して、他の捕吏達と共に引き上げる。
しゃんと伸びたその背中に、民衆は「相変わらず堅いねぇ」「そこがあの人のいいとこなのさ」と苦笑交じりに言った。
聞こえてはいたが気にせずに進んでいると、隣を歩いていた同僚の汪景引から肘で軽く小突かれる。
「もらっておけばよかったのに。お前は本当に堅物だな」
「受け取れば賄賂になる」
「おいおい、たかがおやつだぞ? むこうだって賄賂のつもりはないんだ。偶には感謝の気持ちをありがたーく受け取ってやれよ」
「受け取れない。そもそも、あの男を調べている最中に逃がした耀天府の不手際だ。本来なら、あのような被害は出なかった。民に非難されこそすれ、感謝されることではないだろう」
元々、強盗殺人の疑いがある男を連行しようとしていた時に取り逃がしてしまったらしい。別の任務の途中だった宇晨達は急遽、下手人である男の捕縛に加勢したのだ。
しごく真面目に答える宇晨に、景引は大きな溜息を吐く。
「お前……それ、他の奴らの前で言うなよ? また目の敵にされるぞ」
「分かっている。お前の前だから言っているんだ」
心配性の友人に、宇晨は笑みを含んだ声で返した。吊り上がったきつい眦が、ふっと緩められる。普段は表情を崩さず、冷たく堅い印象を与える顔に、人懐っこい笑みが浮かんだ。
宇晨の微笑を見た景引は、額を押さえて小さく呻った。
――この堅物として知られる黎宇晨は、偶に、ほんの偶に、気を許した相手にやたら素直な態度を取るものだから、彼の数少ない友人としては放っておけないのだ。
「宇晨、黎宇晨よ……そういうところだぞ……」
「どうした、景引」
「……何でもない。あー、ほら、行くぞ! もう下手人も耀天府に着いてる頃だろうし、俺らの任務の件も早く報告しないと、上官からの小言が増えるぞ」
駆け出した景引の後を追うように、宇晨も足を踏み出す。
もう一度屋根を見上げると、黒い瓦の向こうには昼下がりの長閑な空が広がっていた。
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