第三話 鬼将軍

14/29
前へ
/94ページ
次へ
 日が沈み、辺りが少しずつ暗くなっていく。  外の景色が茜色から藍色に染まる中、宇晨は燭台の幾つかに火折子で火をつけた。赤い大きな蝋燭の芯は、ちりっと小さな音を立てて、橙色の小さな火を揺らめかせる。  嗅ぎ慣れない甘い香りがするのは、蝋燭に香が含まれているせいだろう。西方から渡ってきた香を蝋に練りこんで火を灯し、香の代わりにも使ったりすることを精華楼の女将から聞いたことがあった。  ほのかな灯りと香りが漂う広間の中央を空けて、皆が思い思いの場所に陣取る形になる。腰に差した鉄尺に手を掛けて辺りを注意深く見回す宇晨をよそに、孤星は空いた卓の前に無造作に座った。  孤星は卓の埃をさっと払い、袂から取り出した瓢箪と杯を並べる。いつ用意したのか、一緒に並べられた紙の袋には胡桃や干し棗などの堅果が入っていた。 「よかったらどうだい?」  酒を満たした杯を勧めてくる孤星に宇晨は呆れたが、楊凌はおかしげに笑った。 「なるほど、これは豪快なお方だ。仙人ともなれば、幽鬼ごとき恐るるに足らずというわけか。実に頼もしい」 「殿下にそのようなお言葉をいただけるとは、恐縮の至りでございます」  一国の皇子を前にしても普段の調子を崩さない彼に、宇晨の方がひやりとした。楊凌の孤星への態度はどこか冷ややかな気がして、不興を買っているのではないかと不安になる。急いで孤星を窘めた。 「白孤星、今はふざけている場合ではない」 「ふざけてなどいないさ。幽鬼は宴の最中に出たのだろう? ならば同じように私達も宴をしていた方が、幽鬼も出やすいのではないかと思ってね」 「また屁理屈を……」 「いや、宇晨。仙人殿の言う事も一理ある。幽鬼が出た刻限までしばしあるし、ただ待つだけというのも味気なかろう」  楊凌はそう言うと、控えていた従者に酒を用意するように命じた。  間もなくして、綺麗に拭かれた卓の上に酒器や堅果の載った皿が並べられる。上座に座る楊凌の隣には孟開、向かいの卓には李将軍、そして彼の隣に宇晨と孤星が並んで座った。  孟開が楊凌の杯に酒を注ぐ様子を見ながら、宇晨も銀製の酒器を手に取る。 「……李将軍、どうぞ」  宇晨自身は酒を飲むつもりはなかったが、一応は酒宴を模した席である。李将軍の卓に寄り、酒器を掲げた。 「ああ、ありがとう。……宇晨だったな。黎殿のご子息の」 「はい」  宇晨が頷くと、そこで初めて、李将軍は目元を緩めて小さく笑みのようなものを見せた。 「……昔、そなたに会った事がある」 「え?」  宇晨は目を瞬かせて李将軍を見つめるが、父よりも年嵩の男の顔に見覚えはなかった。記憶を探ろうとする前に、李将軍が言葉を続ける。 「そなたが四、五歳くらいの頃だったろうか。西戎との戦の後、都に一時戻った私は黎家を何度か訪れたことがある。そなたは暁宇殿や奥方の後ろに隠れてなかなか出てこなかったが、帰る頃には私の袖を引っ張って、『傷のおじ様』と呼んでいた」  『傷のおじ様』という言葉に、ふいに宇晨の脳裏に偉丈夫の姿が浮かんだ。  幼い宇晨にとって、当時の李将軍は見上げても顔が良く見えないほどの大男に思えた。父よりも年上で、笑うことなく冷たい顔をした寡黙な彼に、宇晨は最初怖がって近寄れなかった。  しかし、李将軍は屈んで宇晨と目線を合わせながら、玩具やお菓子をくれた。大きな手に乗ったそれらがやけに小さく見えて、宇晨は何だかおかしくて笑ってしまった。そして、受け取った時に触れた彼の掌の固さが父とそっくりで、それですっかり警戒を解いたものだ。  彼は中庭で父と手合わせしたり、幼い宇晨の剣の稽古をつけてくれたりした。そんな彼の頬には、大きな切り傷があった。 『傷のおじ様、お顔の傷は痛くないのですか?』  抱き上げられた時に、顔にある大きな傷が痛そうに見えて尋ねれば、その人は目じりに皺を寄せて、優しく笑っていた――。
/94ページ

最初のコメントを投稿しよう!

35人が本棚に入れています
本棚に追加