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よくよく見れば、李将軍の豊かな灰色の頬髭や、褐色の肌の深い皺に隠れるようにして古い大きな傷痕がある。ようやく『傷のおじ様』と目の前の李将軍が結びつき、宇晨は慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません、気付かずに……」
「いや、仕方の無いことだ。おぬしが物心つく前のことであったし、今はこの通り年老いて、すっかり様変わりしてしまった」
李将軍は己の頰を軽く撫でた。
都からはるか遠い夏州の、さらに西側の国境付近はまさしく辺境の地だ。
乾いた赤土の大地に降り注ぐ陽射しは強く、長い冬は溶けない氷雪に覆われる。厳しい環境での任務は、李将軍の肌を鞣革のような色に焼き、皺を深く刻んでいた。
彼の長年の苦労が刻まれた風貌を、宇晨は姿勢を正してまっすぐ見据える。
「李将軍は、我が国を異民族から守った立派な方だと父から聞かされておりました。大戦の折には、貴殿が最後まで諦めずに戦い砦を守ったからこそ、父ら援軍が間に合うことができたのだと。昔も今も変わらず、李将軍はこの国を、民を守られておられます。父に代わり……いえ、一人の民として、民を守る一役人として、貴殿に多大な感謝と敬意を申し上げます」
「……」
拱手と共に頭を下げた宇晨に、李将軍は驚いたように目を見張った。やがて、小さな息を零す。
「幼き時分は奥方に似ていると思ったが……違ったな。おぬしはお父上にそっくりだ」
「はい、よく言われます」
生真面目に返すと、李将軍は目尻の皺を深めて、くつくつと笑った。
「その気性もお父上譲りだな」
懐かしそうに宇晨をしばらく見つめた後、李将軍は姿勢を正して向き直る。
「黎宇晨。今さらではあるが、お悔やみを申し上げる。言い訳にもならぬが、当時は西方で任についており、暁宇殿があのような目に遭っていたと知らず……そなたもご家族も辛い目に遭ったことだろう。何の力にもなれず、済まなかった」
李将軍は膝に置いた拳を強く握って、深く頭を下げてくる。宇晨は慌てて李将軍の腕を取り、顔を上げさせた。
「李将軍が謝られることではありません。……仕方の無い事です。父が勅命に逆らったことは事実であり、その罪は償わなければならなかったのです」
そう、たとえ暁宇の行いが罪なき子供の命を救った善行でも、勅命に逆らった罪に変わりはない。そして罪を犯せば、己の一族郎党が同じように罪に問われることも分かっていたはずだ。それでも暁宇は、子供を救った。
「……」
昨日見た夢の残像が頭の奥にちらつく。
目を伏せる宇晨に、李将軍はそれ以上その話をすることはしなかった。代わりに西方での暮らしを訥々と話し出した彼の気遣いに、宇晨もまた表情を緩めて相槌を返したのだった。
西方での珍しい風習や食事、異民族に伝わる民話など、李将軍が静かに語る話を聞いていた時だ。
ふと、辺りが暗くなった。
夜空に輝いていた月が雲に隠れたのか、広間の前の庭が急に翳ったのだ。月光を反射していた白石は黒に塗りつぶされ、闇に沈んだ木々が風に揺れる音が大きく響き、広間は一瞬静まり返る。
「……」
宇晨が鉄尺を手に立ち上がると、孟開も同じように立ち上がった。孤星は相変わらず余裕の態で胡坐をかいたまま、広間の中央を眺めている。
パチリ、と手持ち無沙汰に孤星が鳴らす扇の音が響いたとき、冷たい風が吹いた。
燭台の蝋燭の火が大きく揺れて、掻き消されそうになりながらも、じじじっと音を立てて燃え続ける。
直後、火が照らす広間の中心に人影が浮かび上がった。
宇晨は鉄尺を構えながら、ゆっくりと人影に近づく。孟開も同じように動いて、人影の正面へと回った。
それは、背を丸めた男の姿をしていた。
白い簡素な衣を着た身体は、かつて自分が見上げていた頃よりもすっかりと痩せて小さく、こけた頬には乱れた髪がかかっている。
顔を上げた男が宇晨を見る。眦の吊りあがった目に見つめられて、宇晨は一瞬息ができなくなった。
『宇晨……』
暗い帳の奥から向けられた父の目が、そこにあった。
「……父上……」
零れ出た声は大きく掠れ、吐息となって静寂に散る。
暁宇は、ただじっとこちらを見つめていた。黒く光の無い目に浮かぶ感情を宇晨が読み取る前に、幽鬼の姿は煙のように掻き消えてしまったのだった。
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