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幽鬼が消えた後も、その場は静まり返っていた。その間に空の月が再び現れたらしく、庭の白石が月光を反射して広間に光を届ける。
愕然とする宇晨と同様に、孟開の顔も青ざめていた。座ったままの楊凌や李将軍も表情が固かった。
「なるほど、今のが件の幽鬼というわけか」
ただ一人、孤星だけは平然とした様子で立ち上がり、先ほどまで幽鬼がいた広間の中央へと出る。幽鬼の姿は影も形も無く、現れた場所にはやはり何の痕跡も見られない。
だが、宇晨は確信していた。
あの顔は、あの姿は、間違いなく父だった。
やはり、父の幽鬼が現れたのだ。
覚悟はしてきたのに、いざ目の前にすれば足元が崩れ落ちる感覚に襲われる。呆然とする宇晨の横で、先に我に返ったのは孟開だった。
「ば、白殿、あれはやはり暁宇の幽鬼なのか?」
「そう言われましても、私は暁宇殿の顔を知らないので何とも」
「勿体ぶるな! あれは幽鬼なのかと問うておるのだ!」
「まあまあ、落ち着いて下さい。……宇晨」
問い詰める孟開を宥めるように孤星は片手を上げた後、宇晨の方を向く。
「君が見たものは、何だった?」
「何、とは……」
「その顔からすると、お父上の姿が見えたのだろう?」
「あ……ああ」
「どのような姿だった?」
「どの……?」
孤星の問いかけの意味が分からず、宇晨は狼狽えて口ごもる。孤星は仕方ないと言うように苦笑し、孟開や楊凌の方を向いた。
「では孟開殿、殿下、あなた方が見た幽鬼はどのような姿をしていましたか?」
「それは、暁宇の姿で……」
「年齢は? あるいはどのような恰好を?」
「あ、ああ。あれはおそらく……禁軍将軍であった頃の、甲冑を着た立派な武官姿だったが」
「私が見たのもそうだ。仙人殿、それがどうしたと言うのだ」
孟開や楊凌の答えに、宇晨は思わず眉根を寄せた。自分が見た父の姿と異なるからだ。それを見越したように、孤星が目線で宇晨の答えを促してくる。
「……私が見たのは、亡くなる前の父の姿です。痩せて、白い麻の衣を着て……」
宇晨が答えると、孟開達もまた不可解そうに眉を顰めた。
「いったいどういうことだ。同じ暁宇の幽鬼なのに、なぜ姿が違う?」
「それはもちろん、あれは幽鬼ではないからです」
孤星はきっぱりと言いきった。皆は呆気に取られて孤星を見やる。
「何だと? 白殿、どういうことだ?」
「ただの幻です。その証拠に、私には人の姿は見えず、ただの白い靄しか見えなかった」
「幻? 私たちが見たのは幻覚ということか? だが、あんなにはっきりと顔立ちまで……」
孟開は戸惑いながらも問い返す。すると、孤星は近くの燭台に近づいて、赤い蝋燭を手に取った。
「これは宴の時に使われていたもので間違いないですね?」
「あ、ああ、そうだ」
「この蝋燭には、蜃の脂が含まれています」
「蜃?」
「ええ。巨大な二枚貝の姿とも、異形の龍の姿をしているとも言われる霊獣です。普段は深い海の底にいて、海中から気を吐いて幻の楼閣を作り出します。海上に浮かぶ楼閣、蜃気楼のことですよ。楼閣に燕を誘き寄せ、捕まえて食べるためだと言われていますが、まあ、私も実際にその様子を見たことはありませんね。その蜃の脂を絞って蝋に混ぜて作った蝋燭に火を灯すと、幻を見ることができます。通常は幻の楼閣を見せるだけですが……」
孤星は蝋燭に鼻を寄せる。
「これには蜃の脂以外に、意識を曖昧にする曼陀羅華や芥子……幻覚を見せやすくする薬も含まれているようだ。蜃の脂と共に焚くことで、その者が思い描いたものを幻として見せたのでしょう」
「しかし宴の際、皆が暁宇の幽鬼を見たのだぞ。そう都合よく同じ幻を見せることができるものなのか?」
「できますよ。あなた方は、幽鬼が現れる前に誰の話をしていましたか?」
孤星の指摘に、孟開ははっと目を見張る。
記憶を探る必要はない。宴の際にちょうど暁宇の話題になり、幽鬼が出る直前には『暁宇が生きていれば嘆いたことだろう』と帝の悔いるような言葉もあった。
「先ほども暁宇殿の幽鬼が出ると皆が思い込んでいたから、彼の姿を見た。しかし、宇晨が思い浮かべたのは将軍の姿ではなかったから、お二方とは違う姿が見えたというわけです。おそらく、お二方が見た暁宇殿の姿もそっくり同じものでは無かったでしょうね。自分が思い描く暁宇殿の姿に似たものが見えたはずだ。同様に、宴の時に皆が見た姿もそれぞれ違っていたでしょう。ただそれが、『黎暁宇』であったというだけです」
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