半田家の人々と栗花落

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 一、あなたの故郷へ 「そういえば、お前は実家に帰らなくて良いのか?」  栗花落が思い出したようにそう言ったのは、九月初旬だった。大学生の長い夏休みも折り返しとなる頃である。 「盆は姫津まで付き合わせてしまったが……」 「あー……、別に帰ってこいって言われなかったから、いいんじゃないですか?」 「だが……、年に数度のことなんだから、親御さんに顔を見せた方が」  夏生は夕飯のセロリスティックを銜えながら唸った。渋い顔をする恋人を見下ろして、栗花落は首を傾げる。 「帰りたくない理由でもあるのか?」 「んー……、別にそういうわけじゃないですよ。どっちかって言うと、こっちに居たいからです」  味噌汁を啜って、夏生は年上の恋人を見上げる。その視線には熱が混じり、栗花落の胸が小さく鳴った。 「つーさんは、帰って欲しいんですか? あんたが久し振りに一人になりたいって言うんなら、ちょっとくらい帰ってますけど」 「……いや、そうではない。ただなんとなく……、親御さんに顔を見せた方がいいのではないかと思っただけだ」  そっと、栗花落は目を伏せた。栗花落の突然の節介に潜む理由に気付き、夏生はようやく合点がいった。 「うちはつーさんちと違ってどっちもピンピンしてますから、しばらくは大丈夫ですよ。それに、俺が帰ったって邪魔になるだけです。俺の部屋、あっちの家にはもうないから」 「そうは言うが、いつなにが起こるか分からないぞ。……俺の父は事故死だった」  夏生はまた唸った。豆腐ハンバーグを噛みながら、難しい顔をする。 「孝行をしたい時には親はなし、とよく言うだろう。学生の内は、顔を見せるだけでも十分な孝行だ。数日で良いから帰ろう」 「そうは言いますけどねぇ……、って、帰ろうってなんですか? もしかしてつーさんも来る気?」 「……駄目か?」  上から見下ろされているにも関わらず、栗花落から見上げられている気がして、夏生の頬に赤味が差す。 「だ、駄目ですよ! あんたのこと、家族になんにも言ってないんだから! それに、うちの親は俺がゲイだって知らないんですよ」 「……そう、なのか」  すまない、と栗花落は小さく謝った。奇妙な罪悪感が夏生を襲う。ああもう、と心の中で叫びながら、夏生はセロリスティックをもう一本囓った。青臭さとマヨネーズの香りが、口いっぱいに広がる。 「あんた、そんなにうちの親に会いたいんですか? 別に、会ったって面白くもなんともないですよ。フツーの会社員とフツーの主婦ですから」 「だが、お前の親だ。一度お会いして話をしてみたい」  栗花落は引き下がらなかった。いつになく懸命に、夏生を説得しようとする。夏生は食事中にも関わらず、頭を思い切り掻き回したくなっている自分に気付いた。 「もう……、分かりましたよ。つーさんが期待するようなことはなんにもないと思いますけど、一緒に帰りましょうか」  溜息を吐いてから、夏生は微笑んだ。栗花落の顔が少しだけ明るくなる。 「ただし! 絶対に恋人だなんて言わないでくださいね。あの人達、そういうの一切理解できないんで」 「……分かった。約束する」  強い視線で言い切った夏生を見て、栗花落は残念そうに頷いた。 「一応頼んではみますけど、実家に泊まれるかどうかは分かりませんからね。っつか、俺はホテルがいいです」 「それは任せるよ」 「あと、なんか適当に言い訳考えといてくださいね。観光したいとか、名物食いたいとか。ほんとに行きたいとこあるんなら案内しますし」  夏生に言われて、栗花落は自分の知識の引き出しを開けた。夏生の故郷、仙台に関する雑多な知識が、いくつか見つかる。 「……青葉山城と松島に行きたい」  ぽつりと呟いた栗花落を見上げ、夏生はあからさまに眉を顰めた。 「うっわー、めっちゃメジャーなとこですね。人多いですよ、今の時期。青葉山城とか特に」 「構わない。一度見てみたいと思っていたんだ。後は、瑞鳳殿かな」  セロリを囓りながら、夏生は小首を傾げる。 「ずいほーでん? あの幼稚園の近くにあるヤツ?」 「そ、そうなのか?」 「そうですよ。俺、中に入ったことないけど」  少し音を立てて、夏生は味噌汁を啜った。栗花落は更に知識の引き出しを漁る。 「あと、仙台市博物館は行きたいな」 「ま、妥当なとこですね。なんか食いたいもんとかはないんですか? 牛タンとかずんだとか。後、魚も美味いですよ」  夏生の提案を聞いて、栗花落は困り顔で首を横に振る。 「いや、食べ物に関してはあまり……。強いて言うなら、仙台米を炊きたてで食べてみたいな」 「米でいいんですか?」 「ああ。江戸の民も口にしていた米だ。一度は現地で食べてみたい」 「はぁ。そんなもんですかね」  夏生が肩をすくめたが、栗花落は嬉しそうに頷いた。 「じゃあ、とりあえず観光地回って米食べるのが目的、ってことで」 「分かった。交通手段は? 新幹線か?」 「う……、高速バスでお願いします……」 「今回の旅は俺の我が儘なんだから、俺が払うぞ」 「駄目ですよ! 姫津に行った時だって交通費出してもらっちゃったんだから、そこまで甘えられません」  口ではそう言いながらも、夏生の懐具合はあまり良くなかった。姫津からの帰り、大阪を観光した時に財布の紐を緩めすぎたのである。元々、貯金などしていなかった夏生は、次のバイト代が入るまで節約を強いられていた。 「高速バスも仙台までならそんな時間掛からないはずだし、値段も知れてますから。高速バスにしましょ?」 「……そこまで言うなら。ただ、その……、乗ったことがないんだ」  恥ずかしそうに、栗花落は下を向いた。 「別に、大したことないですよ。五時間半くらい乗ってたら着きますから。車酔いするようなら、酔い止め買いますか?」 「頼む……」 「はーい。姫津で一時間くらい乗ってた時は平気そうだったのに、車酔いとかするんですねぇ」  栗花落は緑茶を啜ってから頷いた。 「吐きはしないんだが、あまり長時間乗っていると気持ち悪くなってしまうんだ。特にバスは、あまり得意じゃない」 「辛くなったら俺の膝で寝て良いですよ?」 「……いや、いい。人前だから」  頬を赤らめる栗花落を、夏生はニコニコと笑いながら見上げた。  故郷へ帰るのは億劫だったが、栗花落と一緒なら少しは楽しめるかもしれない。夏生はそう思えるようになっていた。  二、ようこそ仙台へ  昼頃になって高速バスを降りても、栗花落の頭はぼんやりしたままだった。 「はい、キャリーこっちですよ」 「……ああ」 「酔い止め、効き過ぎじゃないですか?」 「かもしれない……」  切れ長な目を半分ほど開いて、栗花落は呟いた。酔い止めの副作用で、彼はバスの中でもほとんど眠っていたが、それでも眠気は消えなかった。 「先に、家に行きます? だいぶ早いけど、布団用意して貰えますよ」 「いい……。大丈夫だ」  「……もう。別に、一泊二泊増えたっていいんですから、今日くらいゆっくりすればいいのに」 「そういうわけには……。それに、こんな状態でお前の親御さんに会うのは……」  ふらふらしながら、栗花落は近くにあったビルの壁にもたれかかる。キャリーケースまで力ない音を立てて、彼の後を追った。 「じゃ、せめてどっか落ち着けるところで寝ましょ? ネカフェでもカラオケでもいいから」 「いや……余計な金を使わせるわけにはいかない……」  栗花落は力なく呟く。溜息を吐きながら、夏生はしっかり立てない恋人の隣に寄り添った。 「このままほっとく方が嫌ですよ。あっちに比べたらネカフェもカラオケも安いから、とりあえず入りましょ? それが嫌なら無理矢理ラブホに連れ込みますよ?」 「う……、そういうところの方が金が掛かるのでは……?」 「いいですよ。一回入ってみたかったんで」  半ば乗り気になっている夏生を見て、栗花落はゆっくり首を振った。 「……ネットカフェで良い」 「ちぇー。ま、いいや。じゃあこっちです」  商店街の方を指さして、夏生は歩き出した。奇妙な違和感を覚えながらも、栗花落は彼の背中を追い掛ける。キャリーケースの転がる音を聞きながら、栗花落は違和感の正体を探った。 「あ、一緒に入れる部屋があるかどうか訊いた方がいいですよね。あんた一人にしといたら、いつまでも寝てそうだし」 「あ、ああ。頼む」  振り返った夏生は、いつも通りの笑顔を浮かべている。しかし、それすらも違和感を覚えて、栗花落は眉を顰めた。  夏生は見知った道をどんどん歩いていく。栗花落は見知らぬ道を、夏生の背を追い掛けながら辿っていく。程なく、地階にあるネットカフェが見つかった。 「ちょっと待っててください。訊いてきます」  言うが早いか、夏生はキャリーケースを置いて地下に潜っていった。遠ざかる背中を見送りながら、栗花落は胸の奥が小さく痛んでいることに気付いた。 「……そう、か。隣を歩いてくれないんだ」  栗花落はぽつりと漏らす。夏生は、彼と付き合い始めてからはもちろん、出会った頃からずっと隣を歩いていた。歩いている時の夏生の背中など、彼はあまり見たことがない。  夏生は平然としているように見えて神経質になっているのだなと、栗花落はようやく思い至った。それに寂しさを覚えると同時に、やるせなさが彼の胸に広がる。 「つーさん」  階段を上ってきた夏生に気付き、俯いていた栗花落は顔を上げた。 「二人で入れる座敷っぽい部屋があるみたいです。ここにしましょ?」 「……ああ」  寂しげな笑みを浮かべる栗花落を見上げ、夏生は首を傾げた。慌てていつものような笑顔を作り、栗花落は彼のキャリーケースと自分のそれを持ち上げる。 「良いですよ、自分で持ちます」 「これくらいなら平気だ」  少しはっきりした頭で、栗花落はきっぱりと言った。夏生のいるところまで下りると、キャリーケースを手渡す。 「どれくらい寝たらすっきりしますかね? とりあえず、五時間くらい?」  携帯電話を見ながら、夏生は呟く。まだ午後一時を少し過ぎた頃であった。 「その場合、ここを出るのは六時頃か。ここから家まではどれくらい掛かるんだ?」 「バスで二十分、歩いたら一時間くらいですかね。夕飯はいつも七時過ぎなんで、帰るにはちょうど良いかも。五時間にしますか」 「ああ」  言い合っている内に階段を下りきった二人は、キャリーケースを片手にカウンターへ向かった。利用時間と施設についての説明を軽く受けた後、部屋番号が書かれたレシートを渡される。  二人が宛がわれた部屋は更に地下にあり、四畳半の座敷だった。時期が時期なら炬燵が用意されている部屋で、今は簡単なマットレスが敷かれている。 「……こんな部屋もあるんだな」 「俺も初めて知りました。こっちにいた時、あんまり来たことなかったんで。毛布取ってきますから横になっててください」  夏生に言われるがままに、栗花落は横になった。途端、睡魔が彼の思考を支配する。ぼんやりとした意識の向こうで、栗花落は夏生がドアを開ける音を聞いた。一抹の寂しさを覚えながら、栗花落は睡魔に身を委ねたのだった。  夏生が戻って来た頃には、既に栗花落は眠っていた。安らかなその寝顔を見て、夏生は小さく笑う。長身に不釣り合いな短い毛布を彼の体に掛け、夏生は隣に座った。  部屋のドアは上部に窓があり、店員がすぐに中を覗ける構造になっていた。店内でのアルコール摂取やみだらな行為を禁止するためであり、今の夏生にはもどかしいほどに効果的であった。  少し迷ってから、夏生はそうっと栗花落の額を撫でる。  付き合ってから五ヶ月が経とうとしている今でも、彼は栗花落の顔を見つめるたびにどきりとしていた。その上、夏生と同じ時間に寝て彼より早く起きる栗花落の寝顔は、ほとんど見られない。ここが故郷でなく、そしてネットカフェの中でなければ、夏生は間違いなく栗花落に口付けていた。 「……ごめんね」  自分でも気付かない内に、夏生は栗花落に謝っていた。酔い止めの副作用でよく眠っている栗花落は、ぴくりともしない。それが嬉しくもあり、寂しくもあった。  しばらくそうして栗花落の額を撫でていた夏生だったが、店員が外を歩いていることに気付いて立ち上がった。漫画が置かれているブースへ向かい、適当に数冊選ぶ。部屋に戻ってそれを平積みにすると、夏生は胡座を掻いて読み始めた。  さして興味があったわけではないが、それに集中していれば栗花落の寝顔を見なくてすむ。夏生は縋るように興味のない漫画を読んでいる自分を笑いながら、ひたすらページを繰っていった。 「……夏生」 「あ、目ぇ覚めました? もうちょっとで退店時間ですよ」 夏生は読んでいた本から顔を上げて、目を開けた栗花落に笑いかけた。 「もうそんな時間か……」  ゆっくりと体を起こし、栗花落は軽く伸びをする。節々が音を立て、血行が少しだけ正常に戻った。 「本返してきますね。ちょっと待ってて」  平積みにしていた本を持ち上げ、夏生は部屋を出て行った。その背中を見送って、栗花落は立ち上がる。体に掛かっていた毛布を手に取り、それを丁寧に畳んだ。 「……分かってるよ、夏生」  夢うつつの中で聞こえた夏生の謝罪を思い出しながら、栗花落はそっと呟いた。毛布を抱き締め、目を閉じる。 「どうしたんですか? それ、気に入った?」 「あ、いや……、少し匂いが気になるなと思っただけだ」  部屋に戻ってきた夏生に苦しい言い訳をしながら、栗花落は無理矢理笑った。 「煙草とかの匂いが付いてるかもしれないですねぇ。俺はあんまり気にならないけど」  夏生はさして気に留めた風もなく言って、自分のキャリーケースを持ち上げた。彼に続いて栗花落も己のそれを持ち、部屋を出る。  精算をすませた二人が外に出ると、学校帰りの高校生達が列を成して闊歩する時間になっていた。寄り道をする者、買い食いをする者、お喋りに興じる者などで、商店街は活気に満ちている。 「ここの道を真っ直ぐ行くと駅なんで、この辺りの店は市外から来てる奴らとかがよく使ってるんですよ」  立ち止まって高校生を眺めている栗花落に、夏生は解説した。言われた通りに彼らの歩いていく先を見ると、アーケードの向こうに小さく仙台駅が見える。 「俺もバス待ちの時には、連れと一緒に来てましたよ。っても、雨の日以外は自転車だったから、そんなによく歩いてたわけじゃないですけど」 「そう、か……」  自分が知らない数年前の夏生を想像して、栗花落は奇妙な寂寥を感じた。それを悟られないように、無理をして笑顔を作る。 「やはり、ここは大きな街だな。商店街は賑わっているし、子どもも多い」 「そうですかねぇ? 東京から帰ってくると、やっぱ田舎だなって思いますよ」 「さすがに首都と比べたら、どこも田舎に思えるのは否めないが……」  口を開こうとした栗花落だったが、背後から迫る足音に気付いて振り返った。夏生もつられて、後ろを振り向く。「兄ちゃん! やっぱり兄ちゃんだった!」  走り寄ってきた少女は、そう叫んで笑った。  三、兄と妹 「お帰り! ひっさしぶりだね」 「おう。お前相変わらずうるせーな」 「兄ちゃんも、相変わらずちっちゃいな」 「お前よりでかいですぅー」  再会の喜びを分かち合うのもそこそこに、兄妹は互いに好き勝手なことを言い出した。栗花落は二人のやり取りを、ぽかんとしたまま見守る。 「この人が、観光に来たっていう兄ちゃんの先輩?」 「そ。栗花落光さん。略してつーさん」 「つーさん? 変な響き」  無遠慮に眺めてくる夏生とよく似た目を見て、栗花落は少し恥ずかしさを覚えながらも、よろしくと言った。 「おい、自己紹介」 「はーい。私、夏生の妹の半田小夏です。こないだ十八になりました」  真っ直ぐなポニーテールを揺らしながら、小夏は頭を下げた。セーラー服から伸びる手足はよく日に焼けており、少女に健康的な魅力を与えている。 「兄ちゃんにこんなかっこいい友達ができるなんて、嘘みたい! 兄共々よろしくお願いします」 「こ、こちらこそ……」 「あのな、この人に色目使うなよ」  不機嫌な声で、夏生は妹に向かって言った。栗花落は突然態度を変えた夏生に驚き、思わず隣に目を遣る。  小夏は周囲を見回してから、夏生に近付いて声を潜めた。 「もしかして……、兄ちゃんの彼氏?」 「そ。いーだろ」 「な……夏生?」  小夏の耳元に口を寄せ、夏生は自慢げに囁いた。途端、小夏の顔色が変わる。栗花落はぽかんとして、あっさり暴露した夏生を見つめることしかできなかった。 「うっそ、マジで!?」 「だから、うるせぇってお前」 「だってこんな綺麗な人……! なにそれ、勿体ない!」 「あ、あの……」 「あのな、言っとくけどこの人、俺以外と付き合ったことねーんだからな」 「ありえない……。兄ちゃんがそんないい人捕まえるなんて……。ってか、私より先に彼氏できるなんて……」 「ま、俺って魅力的だから?」 「そんなこと言ってると、すーぐ捨てられちゃうんだから!」 「え、ええと」  会話に口を挟むことができず、栗花落は呆然と二人を見守るしかなかった。 「で、どこまでいったの? キスくらいしたよね?」 「あー、ま、お子様には分からないところまで?」 「な、夏生?」 「きゃー、マジで? ね、どっちが入れるの? 背高いからつーさん?」 「ばーか、身長とか関係ねーし」 「ま、待て!!」  力一杯、栗花落は叫んだ。その声に通行人すら視線を寄越し、慌てて栗花落は夏生を引っ張る。 「往来で……しかも年頃の女の子と、なんて会話をしてるんだお前は……」  栗花落が小声で窘めると、夏生は苦笑しながらはーいと頭を下げた。 「じゃ、とりあえず家に帰りますか。お前、チャリは?」 「今日は歩きだよ、朝は雨降ってたから。えっと、今夜はうちに泊まるんだっけ?」 「ああ。父さん達の前でうっかりしたこと言うなよ」 「分かってるよ」  笑い合う兄と妹を見て、栗花落は少し頭が痛くなった。栗花落家ではまず考えられないやり取りの数々に、頭がついていかなかったのである。 「ごめんね、つーさん。こいつ下品で」 「兄ちゃん程じゃないですぅー。つーさん、こんな人のどこがいいんですか?」  自分を挟んで歩き出した兄と妹を見比べながら、栗花落は唸った。 「兄ちゃんのいいとこなんて、童顔くらいでしょ? あ、最近料理始めたんだっけ?」 「あ、ああ」 「料理できる男って、いいですよねぇー。私、絶対に料理できる人がいい!」 「この人、全っ然駄目だぞ」 「あー、確かに、そういうのやらなそう。いいじゃん、イケメンなんだから」  再び口を挟む余裕がなくなってきた栗花落を挟んで、二人は楽しげに会話を続ける。 「つーさんって、身長どれくらいあるんですか?」 「百八十三、四くらい……」 「おっきー! 兄ちゃんより十七センチはあるんだ!」 「十六センチだし! 百六十七あるし!」 「ないない、気のせいだって」  遠慮なく言い切る小夏に、夏生は頬を膨らませる。その子どもっぽい仕草に、栗花落はふと微笑んだ。  小夏は少し驚いて、栗花落の顔を見上げる。 「うわ、笑うともっと綺麗……」 「え?」  目を見開いた栗花落の腕を、小夏はぐっと引っ張った。 「ほんと、兄ちゃんには勿体ないわ。私にしません? 兄ちゃんより可愛いですよ?」 「え、あ……」 「は? 言ってろよガキ」 「ほんとのことだもーん」  恋人のように栗花落の腕を抱く小夏を見ても、夏生はいつものように妬くことはなかった。その代わり、軽く肩をすくめて小夏を睨む。 「……その、小夏さんは、夏生が……同性愛者だと、知っていたんだな」 「小夏でいいですよー。兄ちゃんのことは、中学の頃に教えてもらいました。それから、ずーっと応援してたんです。でも、まさかこんな綺麗な人捕まえてくるなんて……」 「だーかーら、俺の魅力のたまものだって」 「うっわ、なんか調子に乗ってますよね、この人」  兄を指さす小夏に、栗花落は微笑みながら首を振った。 「夏生の言う通りだよ。君のお兄さんは、十分魅力的な人だ」 「ちょ、なに言い出すんですかあんた」 「ふーん。今日の残暑は厳しいねぇ、兄ちゃん」  にやにやと笑いながら、小夏は兄に向かって言い放つ。小突こうとした夏生の手を栗花落を壁にして避けつつ、小夏は兄の恋人を再び見上げた。 「相思相愛じゃん。もう付け入る隙なんてないね。ま、諦めてやるかー。つーさん。私、なんでも相談に乗りますから、いつでも連絡してくださいね」 「へ?」 「ってことで、つーさんのメルアド後で送ってね、兄ちゃん」 「へいへい。ま、使わねぇだろーけど」  さっそく携帯電話を取り出して、夏生はボタンを押し始めた。小夏はうんうんと頷きながら、珍しく素直な兄を眺める。 「あ、そういえばお土産は? なんかないの?」 「つーさん、東京駅でなんか買ってましたよね。なに買ったんですか?」 「なにがいいか分からなかったから、無難に菓子を……」  バナナの形をした人形焼きを思い出しながら、栗花落はちらりとキャリーケースを一瞥した。 「やった! 兄ちゃんはなんか買ってないの? かわいー妹に」 「俺の顔だけで十分だろ」 「つーさんくらいの顔だったら十分だけど、兄ちゃんじゃちょっと……」  今度こそ小突かれた小夏は、不満げに兄を睨み付ける。 「もう、ほんとのこと言われたからって手ぇ出さないでよねー。もしかして、つーさんにもDVしてるの?」 「するか!」  そもそも家庭を作っていないのに家庭内暴力とはこれいかに、などと栗花落は思ったが、軽妙なやり取りをしている二人に口を挟めなかった。  そうこうしている内に、アーケードは終わった。目の前に、広々とした仙台駅が現れる。 「あ、つーさん、ずんだ食べました?」 「いいや」 「じゃ、買って帰りましょ? 兄ちゃんの奢りで」 「は? つーさんはともかく、お前は嫌!」 「ケチ! バイトしてるんでしょー」 「夏生には、休み中の旅行で少し遣わせすぎてしまったんだ。俺が奢るよ」  栗花落がそう言うと、小夏は小さく唸ってから兄と栗花落の顔を見比べた。 「じゃあ、つーさんの分は私が奢ってあげます。兄ちゃんは自分で買って」 「な、なぜそうなるんだ……」 「だって、つーさんはお客さんですもん。お客さんに奢らせるわけにはいかないでしょ?」 「えー、俺も奢ってよ小夏ちゃーん」 「いーや」  きっぱりと兄のお願いを断って、小夏は少し前を歩き始めた。美味しいお店があるの、と言いながら、勝手を知る道をすいすいと歩いていく。 「あ、そうだ。ずんだシェイクとずんだシュー、どっちがいいですか?」 「しぇいく? しゅー? 餅ではないのか?」 「お餅よりそっちの方が美味しいですよ。ってゆーか私、お餅の方食べたことないし」  小夏の言葉に、夏生もうんうんと頷いた。 「こっちに越してきてすぐの頃は、食べてみたかったんですけどねー。連れがシェイクとかのが美味いって言ってそればっかり食わせてきたから、とうとう食べないまんま出ちゃいました」 「引っ越し?」  きょとんとした顔で、栗花落は夏生の顔を覗き込む。 「あれ、兄ちゃん話してないの?」 「あー、そういや、まだだった」  夏生は頭を掻きながら、隣の栗花落を見上げた。 「うちの父親、ずっと転勤族だったんです。だから俺、高校入るまではいろんなとこうろうろしてたんですよ」 「そうそう。東京でしょ、京都でしょ、山口でしょ、福岡でしょ、新潟でしょ」 「岡山にも少しだけいました。小学校ん時かな」 「名古屋もちょっといたよね。そもそも、仙台も二回目だし」 「そうだったのか……」  夏生の人懐こさの原因を知った気がして、栗花落は複雑な気分になった。だが、当人はさして気にした風もない。 「つーさんはどこの人なんですか? 東京?」 「いや、岡山だよ。姫津という、山の方の田舎から出てきたんだ」 「岡山かー。えーっと、桃が美味しかったよね」 「マスカットとかな。あ、でも昔は、ままかりの良さは分かんなかった」  わいわいと岡山にいた頃の話を始めた兄妹を見守りながら、栗花落は無性に寂しくなった。生まれてから東京に出るまでずっと姫津に住んでいた栗花落には、引っ越しばかりの生活が二人のように楽しめるものには思えなかったのである。  会話を弾ませる兄妹の後を、栗花落は少し離れて追った。男にしては華奢な夏生の背中と、女にしてはしっかりした小夏の背中を見比べながら、目以外は似てないなとぼんやり考える。 「つーさん? どうしたの?」 「いや……」 「またぼーっとしてきたんですか? 辛いなら、キャリーケース持ちますよ? 小夏が」 「えー、私? ……まぁ、つーさんのなら持とうかな」 「大丈夫だよ。少し考え事をしていただけだから」  そう言って栗花落が笑うと、夏生と小夏は揃って彼の顔を見上げた。四つの猫のような目に見つめられて、栗花落は困惑する。 「あの……、本当に大丈夫だから」 「そう言ってる時って、大体無理してる時ですよね」 「そうそう。やっぱり私が持ちますよ。あ、でも兄ちゃんのキャリーのが軽そうだから、兄ちゃんがつーさんの持って。私がそっち持つよ」  栗花落を置いて話を進めた兄妹は、さっと栗花落のキャリーケースを奪う。夏生が栗花落のそれを、小夏が夏生のそれを持ち、二人でにこりと笑って困惑する手ぶらの彼の腕を引いた。 「行きましょ!」 「お店、こっちですよ」 「え、いや、その」 「はいはいこういう時は甘えるー。なー?」 「ねー」  有無を言わさぬ二人に、栗花落は抵抗することができない。栗花落は腕を引かれるまま、仙台駅の構内まで向かったのだった。    四、両親  駅でずんだを使った物をいくつか食べた三人は、バスに乗って帰宅の途に着いた。夕飯を前にして少し重たい物を食べてしまった、と栗花落は後悔したが、半田兄妹はさして気にした風もなくまたわいわいと会話を楽しんでいる。  会話が弾めば、時が進むのも早い。二十分程度の道程をあっという間に終え、三人はバスを降りた。 「ここからすぐですよ」  栗花落のキャリーケースを手に、夏生は歩き出した。小夏も兄のそれを持って後に続く。 「すぐなら、自分で持つぞ」 「いいですって」  自分のキャリーケースを持とうとした栗花落を制し、夏生はにこりと笑う。 「それより、体は大丈夫ですか? 辛かったら無理しないで、さっさと寝てくださいね」 「そういうわけには……」 「いいのいいの。うちの両親はそういうこと、いちいち気にする人達じゃないから」  困り顔の栗花落を見上げ、小夏も兄と同じように笑って頷いた。しかし、ふと真面目な顔をして、小夏は先を行く 兄の背中を見つめる。 「……ねぇ兄ちゃん、つーさんのこと話すの?」 「母さんに送ったメール、お前も見たんだろ? 『大学の先輩が仙台を観光したいって言ってるから、帰郷ついでに案内する』んだよ。俺は」  振り返りもせず、夏生は言い放つ。小夏は兄の背中と栗花落の俯いた顔を見比べて、そっと眉を顰めた。 「もしばれたら、どうすんの?」 「……ばらすなよ。お前」 「分かってる。もしもの話だよ。そん時、兄ちゃんどうするつもりなの?」  夏生はしばらく、なにも言わなかった。彼が唇をきつく噛み締めたのを、後ろにいる二人は知らない。 「出てくよ。……出てけって言われなくても。どうせ、分かって貰えないから……、つーさんの傍にいる方を選ぶ」 「けど……、父さんは悲しむよ」  小夏の言葉に違和感を覚えて、栗花落は顔を上げた。だが、小夏は夏生の背を見つめるばかりで、彼の様子に気付かない。 「……お前がいるだろ」 「けど、兄ちゃんは……!」 「お前は、俺と違う。だから……、父さんと一緒にいてやれよ。ま、決めるのはお前なんだから、俺が言うことじゃねーけどさ」  少しだけ振り向いて、夏生は微笑んだ。見たことのない寂しげな横顔を、栗花落は呆然と見つめる。 「兄ちゃん……、それでいいの?」 「……当然」  それだけ言って、夏生は前を向いた。その背中を見つめ、小夏は何度か口を開こうとしたが、止める。  ささやかな沈黙が、夜の帳と共に落ちた。三人はしばし無言で、薄暗い街灯の下を歩いていく。  栗花落は半田兄妹の会話を反芻しながら、曖昧な会話の真意を突き止めようとした。だが、彼には与えられている情報量が圧倒的に足りない。自分の家族関係や生い立ちなどは話していても、夏生のことはほとんど知らないことを、今更ながら栗花落は思い知っていた。  どうして話してくれなかったんだろう、という恨みがましい思いと、少しでも自分から訊いていれば、という後悔が、栗花落の胸を締め付ける。 「もうそろそろですよ。……つーさん?」 「あ、ああ……」 「……大丈夫ですか?」  お前こそ、と言おうとしたが、栗花落は口を閉じた。そっと微笑んで、頷く。  三人の行く道の向こうには、古ぼけた社宅が並んでいた。 「ただいまー」 「ただいま!」  兄妹の声が、玄関から家中に響き渡る。返事も聞かずに靴を脱ぎ始める二人に驚きながらも、栗花落も「失礼します」と声を掛けた。 「お帰り、二人とも」  玄関の傍にある襖から顔を出したのは、小夏に似た体格のいい女性だった。 「母さん、この人が言ってた先輩」  夏生に紹介され、栗花落は緊張しながらも頭を下げる。 「ようこそー。狭い家ですけど、おくつろぎくださいね」 「お構いなく。お世話になります」 「あ、いい匂い! カレー?」  堅苦しい挨拶にさっそく飽きた小夏は、家に上がって襖の奥を覗いた。 「牛タンカレーよ。せっかくだから仙台っぽいものをって思ったんだけど、他に思い浮かばなくて。お酒は召し上がらないんでしたかしら?」 「ええ。下戸なもので……」 「夏生はどうするの? あんたは飲めるでしょう?」 「じゃ、ちょっと飲む。……仏壇行ってくる」  キャリーケースを廊下に置いた夏生は、奥の部屋へ向かって歩き出した。栗花落はその背中を追って、狭い廊下を進む。  すぐに夏生はドアを開けた。栗花落が付いてきているのも気付かず、さっさと中に入る。 「夏生?」  ドアの前で、栗花落は夏生の背中に声を掛けた。ようやく、夏生は栗花落の方を振り向く。 「つーさんも、手合わせてくれるんですか?」 「ああ。お前も姫津に行った時にやってくれただろう? お返しだよ」  栗花落が微笑むと、夏生はまた寂しげに目を伏せた。目の前の小さな仏壇の扉を開け、引き出しから道具を一式取り出す。  夏生が蝋燭に火を灯している間に、栗花落は彼の少し後ろから仏壇を眺めた。栗花落家のそれより遙かにシンプルな作りの仏壇には、小さな写真が一枚飾られている。 「……この人は、お前の姉か?」 「違いますよ」  線香を蝋燭に近付けながら、夏生はさらりと言った。 「……では、お祖母さんが若い内に亡くなられたのか?」 「あー、そういう返しは初めてですね」  線香を立てて、夏生は鈴を叩く。明確な答えがもらえない栗花落は、もどかしさを抱えながら夏生の背を見つめた。 「……母親です」  目を閉じ、手を合わせながら、夏生はぽつりと呟いた。 「え? だが、……先程」 「うん。だから、母さんは俺を産んだわけじゃないんです。小夏は母さんの子だけど」  振り返った夏生は、寂しげに笑っていた。栗花落はなにも言えず、じっと夏生を見下ろす。 「俺の母親は、俺を産んだ時に死んだんです。位牌とか墓とかは母親の実家にあるらしいんですけど、ここにあるのは写真だけ。  母親なんて言うけど……、俺にとっては他人と一緒です。物心付いた時から母さんは母さんで、この人は仏壇の写真の人。けど母さんがうるさいから、手合わせるの癖になっちゃって」  訥々と語りながらも、夏生の視線は下がっていった。 「そう、だったのか……」 「……隠してたわけじゃ、なかったんですけど。結果的にそんな感じになっちゃいましたね。すいません」  首を振って、栗花落はそうっと夏生の癖毛を撫でた。 「無理に言う必要はないことだ。気にするな」 「……はい」  眉を下げて、夏生は困ったように笑った。 「さ、早く手ぇ合わせちゃってください。あんまり待たせるとうるさいのがいるんで」  いつもの調子で言って、夏生は立ち上がる。言われるままに栗花落が線香を立てていると、ドアの開く音が響いた。線香の香りを打ち消すほどの煙草の匂いが入り込み、栗花落はたまらず眉を顰める。 「夏生、お帰り」 「ただいま、父さん」  部屋に入ってきたのは、夏生とそっくりな目をした壮年の男だった。白髪交じりだが強い癖毛と、男にしては小柄な体も、息子とよく似ている。 「この人が、メールで言ってた先輩の栗花落さん」 「は、初めまして……」 「初めまして。息子がお世話になってます」 「こちらこそ……」  上手い言葉が見つからず、栗花落は通り一辺倒の挨拶をして頭を下げた。 「わざわざ仏壇に手を合わせていただいて……」 「あ、いえ……」 「父さん、話なら飯食いながらでもできるだろ」 「分かった分かった」  夏生に追い出されるようにして、彼の父は部屋を出て行った。小さく溜息を吐いて、夏生は鈴を叩こうとしない栗花落を振り返る。 「ほら、つーさんも早く」 「あ、ああ。……その、お父さんとよく似てるな」 「よく言われます。あれが将来の姿かと思うと、ぞっとしないですけど」  夏生は軽く肩をすくめる。そして再び栗花落を促すと、自分は廊下に出た。  ざらつく壁を背に、夏生はぼんやりと天井を見上げた。慣れ親しんだ場所に栗花落がいるというだけで、違和感と疲労と緊張が夏生を襲ってくる。 「……なーんか、な」 「どうした?」  ドアを開けた栗花落が声を掛けると、夏生はびくりと肩を震わせる。 「いえ、なんか……、変な感じだなーって」 「……俺のせい、か?」 「そういうわけじゃないですよ。……つーさんのせいって言うより、自分のせいかな」  自嘲しながら、夏生は歩き出した。ぎしぎしと音を立てる廊下を行く彼の背は、栗花落にはいつもより少し小さく見える。 「あ、そういえば、父さんヘビースモーカーなんですけど、つーさんって煙草平気でしたっけ?」 「あまり……。周りに吸う人間がいなかったせいか、慣れなくてな」 「うーん……、じゃ、できるだけ離れて座りますか」 「頼む」  夏生は振り返って頷いた。いつものように笑おうとしているのが、栗花落にも分かる。夏生が居間の襖を開ける前に、栗花落はそうっと彼の頭を撫でた。 「……無理をして、笑わなくていいぞ」 「……はーい」  ふっと泣きそうな顔をしてから、夏生は離れていく栗花落の手を見送った。少し深めに息を吸って、襖を開ける。  ふわりと懐かしい香りが漂って、二人の心をほんの僅かに癒したのだった。  五、あなたの温もり 「大丈夫か、夏生」 「なんとか……」  半ば物置と化していた自分の元の部屋に敷かれた布団に倒れ込み、夏生はようよう応えた。栗花落は心配そうに彼の隣に座る。 「くっそ親父……、散々飲ませやがって……」 「もう少し水を飲むか?」 「いただきます……」  手渡されたペットボトルを一息に飲んで、夏生は深々と溜息を吐く。  夕食の席で、しきりに栗花落へ酒を勧める父の気を逸らすため、夏生は彼の代わりに何度もコップを空にしていた。おかげで栗花落は一滴も飲まずにすんだが、夏生は珍しく足元がふらつくほど酔っている。抱えられるようにして歩いた部屋までの道程を、彼はほとんど覚えていない。 「あー……、暑ぃ……」 「エアコン……はないな。扇風機を付けるか?」 「お願いします……。あ、コンセントの位置分かります?」  起き上がろうとした夏生だったが、視界がぐらついて思わず顔を顰めた。 「無理をしなくていい。寝ていろ」 「うー……、コンセント、箪笥の横ですから……」  それだけ言って、夏生は泣く泣く横になった。気持ちの悪い汗が額を伝っていく。吐き気はないが、思考がふわふわとして落ち着かず、体の感覚がなかった。  程なく、夏生の火照った体を、優しい風がゆっくりと撫でていった。 「こんなに酔っているお前を見るのは、初めてだな」 「……そりゃ、そうでしょ。こんなに酔ったの初めてですから」 「ああ……。何杯飲んでいたか、俺にも分からないくらいだ」  苦笑しながら、栗花落は扇風機の風に揺れる夏生の前髪を撫でた。優しい手のひらの感触も、今の夏生にはよく分からない。 「ね……、つーさん」  とろりとした目のまま、夏生は栗花落を見上げた。視界はぼやけていたが、栗花落が頷くのは分かる。 「……嫌じゃ、なかった? 俺の家族」 「まさか。明るくて優しくて……、お前と同じで、初対面の俺にもあんなに気さくに接してくれた。やはり、ここに来て良かったよ」 「なら、いいんですけど……」  栗花落の言葉を聞いても、夏生の気分は晴れない。目を閉じて、夏生は大きく息を吐いた。 「なんか、住んでる世界が違う、って感じでしょ? 食ってるものも、着てるものも、この社宅も……」 「ああ、違うな」  びくりと、夏生は肩を震わせる。 「初めての場所なのに、驚くほど居心地がいい。誰もが俺を受け入れてくれる。……とても、温かい」 「……褒めすぎ」  栗花落は首を振った。手を夏生の火照った頬に移して、そうっと撫でる。 「羨ましいよ。こんな家に生まれていたら、俺の人生はもっと明るかったかもしれない」 「……そういう仮定の話は、あんま好きじゃないです」 「すまない……」  それに、と呟いて夏生は栗花落の手に自分の手を重ねた。 「……こんな家に生まれたつーさんなんて、きっと俺は好きになりませんよ。俺は、あの大きな古い家に生まれて、過保護なお兄さんの元から離れて俺と出会ってくれた、今のあんたが好きなんだから」 「……ああ」  泣きそうな顔で、栗花落は笑った。夏生の手の熱さを感じながら、ゆっくり顔を下ろす。 「……夏生」 「……はい」 「キス、していいか?」  あと数センチで唇が触れるという距離で、栗花落は小さく訊ねた。  遠くで、自動車の駆動音が聞こえる。夏生はすぐ目の前にある栗花落の顔を見つめながら、ゆっくり頷いた。  二人は目を閉じる。階段を下りていく足音を聞きながら、 栗花落は夏生の温かな唇に触れた。少し開いた唇から、酒の香りが立ち上る。軽い目眩を覚えながらも、栗花落は唇を離さなかった。  酔いの回った頭の隅で、夏生はぼんやりと、見つかったらどうしようと思った。だが、今日一日で嫌という程味わった、秘密を隠す緊張感とただの友人として栗花落と接することへの違和感は、もうどこかに消えていた。まるでいつもの週末、どちらかの部屋で触れ合っている時のように、夏生は舌を差し込む。  密やかに、栗花落は吐息を漏らした。それは、いつもなら性交の始まりを意味する。夏生が、羞恥心と理性の塊のようなこの男の籠絡を始めた合図だった。 「……夏、生、駄目だ……」 「……うん。……ごめん、なさい。後、少しだけ」  張り詰めていた糸が、酒と二人きりの部屋によってぷつりと切られていたことに、今更ながら夏生は気付いた。そして、いつもより栗花落の抵抗が少ないのをいいことに、熱を持った手で彼の頬を包んで何度も口付ける。  次第に、栗花落の目もとろりと溶け始めた。悪戯に唇を突く夏生の舌に、栗花落もささやかな反応を見せる。ちろちろと薄い唇から零れる舌を自分のそれで撫でながら、夏生は酔い以外の熱に浮かされ始める。 「……つー、さん、ごめん……も、ちょっと」 「……ああ」  開かれた栗花落の唇に舌を突き入れて、夏生は甘い唾液を吸った。未だに口の中に残る強い日本酒の味と混ざって、常よりもずっと甘さが増している。甘露、という言葉を夏生は思い出していた。彼だけの甘い露を、ごくりと飲み込む。 「おいし……」 「お前は……もう」  恍惚とした目で、夏生は恋人を見上げて微笑んだ。栗花落は苦笑して、癖毛に隠れた額に口付ける。 「……おしまい?」 「ああ。これ以上は、お前が困るだろう?」  そう言っているつーさんの方が困り顔だ、と夏生はぼんやりした頭で思った。 「それに……、なんだか眠くなってきた」 「……昼、寝たりなかったんですか?」 「いや、多分これは……酒のせいだ」  大きく欠伸をして、栗花落は目元に溜まった涙を拭う。 「もしかして、キスでも酔うんですか?」 「粘膜が触れ合うからな……。それに、強い酒の味がした」 「……ごめんなさい。寝ちゃう前に、風呂入ってください」 頷いて、栗花落はキャリーケースの中から着替えを取り出した。その背中を眺めている内に、夏生の瞼は重くなっていく。 「上がったら起こしてやるから、先に寝ていていいぞ」  頭を撫でてくれる手の感触を最後に、夏生は夢の世界へ旅立っていった。  次に夏生が目を覚ました時に、真っ先に飛び込んできたのは栗花落の寝顔だった。残暑が厳しいとはいえ、布団も掛けずに長身を横たえている。 「……つーさん、ちゃんと寝ないと風邪引きますよ」 「ん……」  いつかの金曜の夜に見せたような無防備な顔で、栗花落は小さく呻いた。だが、目を覚ます気配はない。  彼を起こすのを諦めて、夏生は携帯電話を掴んだ。既に日付は変わっている。階下では物音一つ聞こえない。父は仕事、妹は学校、母は二人の朝食の世話のために、この時間には皆眠っている。誰も起こさないように、夏生は静かに起き上がった。まだ体はふらふらしていたが、頭は少しはっきりしている。  夏生は眠っている恋人を布団に寝かせて、タオルケットを掛けた。安らかに寝息を立てる薄い唇に口付けてから、着替えの用意を始める。  もしも栗花落と自分の関係を両親が受け入れてくれたら、と考えて、夏生は自嘲した。それはあまりにも悲しい夢想であった。 「……だから、仮定の話は嫌いなんだ」  唇を噛み締める。声を出して泣きたいような気分になりながら、夏生は部屋を出た。  昔、夏生はいろんな仮定の話を想像していた。もしも、本当の母親が生きていたら。もしも、父親がもう引っ越しをしないと言ってくれたら。もしも、あの男の子が自分を好きになってくれたら。もしも、もしも、と考えて空想の中で幸せになっても、現実はいつも冷たい。それを幾度となく思い知らされた夏生は、いつの間にかそんな空想が嫌いになっていた。そして、僅かな期待も切り捨てて生きるようになっていた。  だが、栗花落にだけは期待を捨てきれなかった。一目見て好きになった時から、切り捨てよう切り捨てようと思っても、夏生は結局、彼への想いを捨てられなかった。好きになってくれたら、恋人になってくれたら、彼の全てに触れられたら、そんなことを思いながら、虚しい自慰を繰り返した日々を、夏生は一生涯忘れないと信じている。  夏生が捨てきれなかった想いは、栗花落にも届いていた。互いがそれに気付くまで、出会ってから一ヶ月弱。言葉にするとあまりにも短い期間だが、夏生には天国と地獄が連なる途轍もなく長い日々だった。だが、その日々を潜り抜けたからこそ、夏生は今、栗花落にだけは素直に自分の期待を掛けられた。  この関係を壊したくない。壊されたくない。夏生は心の底からそう思っていた。だからこそ、どんな些細な切っ掛けでも両親に自分達の関係を知られるわけにはいかなかった。少なくとも、夏生が自分の足で立ち上がれる日までは。  暗く狭い廊下を、夏生は風呂へ向かって歩く。密やかに、そして……しっかりと。  夏生が風呂から上がって部屋に戻った時、栗花落はドアの開く音を聞いて目を覚ました。 「あ、起こしちゃいました? ごめんなさい」 「……いや、いい。すまないな、寝てしまっていた」  起き上がろうとする栗花落を制して、夏生は自分の布団を彼のそれにくっつけた。紐を引いて電灯を消すと、ころりと横になる。 「俺、まだ酒臭いですか?」 「……少し」 「そっか。……ちぇ」  残念そうに呟いて、夏生は栗花落のタオルケットに潜り込む。突然入り込んできた温かく小柄な体を、栗花落は少し驚きながらも受け入れた。 「いいのか?」 「いいんですよ。起こしに来ないように言ってありますから」  栗花落の体を抱き締めて、夏生は囁いた。その広い胸板に顔を埋め、目を閉じる。 「……今日は、ごめんなさい」 「……分かってる」  栗花落は優しく抱き返した。背中をさすりながら、夏生の耳元に唇を寄せる。 「分かってるよ。……俺だって、あのタイミングで兄さんや驟に告げていなかったら、この間の帰省の時にお前と同じような行動をしただろう」 「……うん」 「だから、いいんだ。それに……今回は俺の我が儘でここまで来てしまった。俺の方が謝らなければならない」  ぎゅ、と栗花落は夏生の体を包み込んだ。 「すまない。無理をさせてしまって」 「……うん」  温かな腕の中で、夏生はそっと涙を零した。幼子のように栗花落の胸に縋り付き、固く固く瞼を落とす。 「好きだよ、つーさん。……大好きだよ」 「ああ。分かってるよ」 「……だから、ごめん」 「……分かってるよ」  夏生の頭に唇を寄せて、栗花落は穏やかな声で言った。 「もう、謝るな」 「うん……」  癖だらけの頭を撫でる栗花落の手が、揺れる夏生の心にゆっくりと凪をもたらす。全身を包む温もりに身を委ね、夏生はいつの間にか眠りに就いていた。  六、近くて遠い帰路      「えー、もう帰っちゃうの?」  数日後、荷造りを始めた兄とその恋人のいる部屋に顔を出した小夏は、思い切り残念がった。 「また、春休みにでもお邪魔したいと思っているよ」 「でも、大学生の春休みって二月とかからでしょ? 私、受験の真っ最中だから遊べない……」  深々と溜息を吐いた妹を、夏生は鼻で笑う。 「どーせ大したとこ入れねーんだから、そんな根詰めて勉強する必要ねーだろ」 「うっさい! 兄ちゃんよりいいとこ行くの! あ、でも栗花落さんと同じ大学に通ってみたーい」 「君も歴史に興味があるのか?」 「へ? いや、そういうわけじゃないんですけど……」  そうか、と残念そうな顔をする栗花落を見上げて、小夏は首を傾げる。 「あれ? つーさんって歴史勉強してるんだっけ?」 「そーだよ。俺もつーさんも歴史学科だよ」 「あー、そうだったっけ……」 「お前なぁ……、そんくらい覚えとけよ。つーか、お前はやりたいことあんの?」 「え? やりたいこと?」  うーん、と唸ってから、小夏はまた首を傾げた。 「OL?」 「適当だな、おい。まぁ、俺もそんなもんだったけど」 「兄ちゃんはやりたいことあんの?」 「実は、あんま考えてない」  顔を見合わせる兄妹に、栗花落は苦笑を零す。母が違っても、この兄妹はよく似ていた。 「大まかにでも、今の内にやりたいことを決めておいた方がいい。大学に入ってちゃんと勉強していれば、自ずと絞られてくる。俺で良ければ相談に乗るよ」 「ほんとですか! じゃ、やっぱり兄ちゃんと同じとこかな……。ううん、とにかく東京のどっか! つーさんとすぐ会えるとこがいいな」 「あのな……」 「心配しなくても、つーさんは取らないよ!」  ばしばしと兄の肩を叩いて、小夏は陽気に笑った。 「ばっか、声でかい」 「大丈夫、母さんパートに行ってるから。……あ!」  忘れてた、と叫びながら小夏は階下へと走っていった。程なく、再び走って戻ってくる。 「これ! 母さんが、夕飯にどうぞって」 「……これ、駅の近くのでかいとこじゃん」  妹から差し出されたホテルのディナー券を見て、夏生は目を丸くする。 「ドラッグストアの懸賞で当たったって言ってた。友達も当たったから、母さんはいらないんだって」 「じゃあ……、遠慮なく行きますか」 「そうだな」 「あれ? でも、バスの時間って大丈夫なの? 何時のバス?」  夏生はちらりと栗花落を見上げてから、妹に悪戯っぽく笑った。 「……ほんとは、明日のバスなんだ。最後の一泊だけホテル取ったんだよ。この券のとこじゃないけど」 「それって……」 「そういうこと」  それだけ言って、夏生はキャリーケースのジッパーを上げた。既に準備を終えていた栗花落は、恥ずかしそうに目を逸らしている。 「ぜってぇー電話掛けたりしてくんなよ!」 「ぜぇったい電話掛けるもん!」  しばらくふくれっ面をし合ってから、二人は笑う。どたばたと音を立てながら階段を下りていく兄妹を眺め、先程の羞恥心を忘れた栗花落は優しく微笑んだ。  玄関で立ち止まった小夏は、靴に足を通した栗花落の腕を掴んだ。 「つーさん、また遊びに来てね! あと、私も遊びに行くから!」 「ああ。楽しみにしてる」  にっこりと笑ってから、小夏は次に兄の腕を掴んだ。真っ直ぐな目で、夏生を見上げる。 「兄ちゃん、つーさんのこと……離しちゃ駄目だからね」 「分かってる」 「……父さんと母さんのことも、忘れちゃ駄目だよ」 「……分かってる」  夏生は目を伏せた。頼りない兄の肩を思い切り叩いて、小夏はまた満面の笑みを浮かべる。 「次来る時は、お土産忘れないでよね! じゃ、また!」 「ああ。また」  栗花落と夏生は、手を振って小さな社宅を出た。  夏の残り香を浚う仙台の涼しい風が、二人の頬を優しく撫でていく。  どちらからともなく手を握り合って、二人はゆっくりと歩き出した。
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