「つー俺」奇談その②

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 一、まじない、再び  二人が姫津に滞在して、数日が経った。法事も終わり、あそこだここだといろいろな場所を回り、夏生も姫津に慣れ始めていた頃。 「……おはようございますー。……って、ええええ!?」 「おはよう。……どうした? なつき」  目が覚めた夏生は、隣で眠っている恋人を指さして、固まっていた。 「ひとをゆびさすな。ひんがわるいぞ。……ん?」  光は自分の声がずいぶんと高いことに気付く。そして、自分の手足を確かめた。 「……え?」  高い声、小さな手足、そして体を覆う大きすぎる浴衣。 「つ、つー、さん?」 「……なつ、き?」  恐る恐る、光は夏生に手を伸ばした。光より一回り小さいはずの夏生の手が、そっと彼の小さな手を握る。 「なんで、なんで、そんな……ちっちゃくなってるんですか!?」  そう叫んで、夏生は幼い光を思い切り抱き締めた。 「おもいあたるふしが、ひとつある」  一頻り抱き締め、ついでに頭や背中や尻まで撫でてから光を離した夏生は、神妙な顔をして頷いた。だが、気持ち悪いほどの笑みは抑えられない。 「ゆうべ、ゆうはんのあとでうりがでただろう」 「あー、そうでしたね。確か、五月さんが裏で作ってるとか」 「……ああ。ふるいどのみずでな」  夏生の脳裏に、数週間前の記憶が蘇る。霖から送られてきた桃が発端と思われる、一日だけの性別転換体験を思い出し、夏生はまさか、と呟いた。 「かのうせいはある」 「で、でもその……付いてますよね?」  言われて初めて、光はぶかぶかな下着の中をそっと覗いた。大きすぎるそれの中には、ちゃんと男の証がある。光はこくりと頷いた。 「じゃ、こないだの俺とは違うってことか……」 「げんいんはおなじかもしれない。……が、おれはべつに、こどもになろうなんておもいながら、その……じいは、してない」  ぽっと、光の頬が染まる。可愛い! と叫びながら、夏生はまた小さな光を抱き締めた。 「な、なつ……くるし……」 「だって、こんな可愛い生き物……! だっこして然るべきでしょ! あーもう、ちっちぇー!」 「い、いたい……、い、いきが……」  夏生の胸の中で酸欠気味になり始めた光の耳に、ドアの開く音が届いた。突然のその音に、夏生の腕が緩くなる。 「朝から喧しい。盆休みくらい静かに寝かせろ」  思い切り不機嫌な顔をした浴衣姿の霖が、いつものように小言を言った。だが、今の光にはそれが天の声にすら聞こえる。  光は少し力が弱まった夏生の腕を振り解き、下着を引き上げながら兄のところへ走った。その小さな弟の姿を見て呆然としている霖の足に抱きつき、やはり呆然としている夏生から隠れようとする。 「…………これ、は…………、なんだ」 「たすけてください、にいさん! なつきが……」 「…………おい、どういうことだ。説明しろ」  霖は珍しく混乱しながら、なおも呆然としている夏生に命じた。だが、夏生はひどくショックを受けていて、答えることもできず泣きそうな顔で幼い光を見ていた。 「つーさん、俺より霖さんの方がいいんですか……?」 「いたくするおまえは、きらいだ!」 「き、嫌い……」 「おいお前ら、状況を……」  ぐす、と鼻をすする夏生と、やはり涙目の光を見比べ、霖は深々と溜息を吐く。  霖は浴衣に包まれた自分の足を抱いて、夏生を睨みつけている小さな弟を抱き上げ、ドアを閉めた。 「にいさん?」 「……お前は光……なのか?」  こくりと頷いてから、光は安堵のあまり泣き出した。かつてのようにめそめそと泣いている弟をあやしながら、霖は夏生へ歩み寄る。 「夏生、泣いていないで説明しろ」 「だって……、つーさんが嫌いって……」 「お前がいらんことをするからだろう。そんなことより、これはなんで縮んでいるんだ」  えらく堂に入ったあやし方をしている霖に途轍もない違和感を覚えながらも、夏生は鼻をすすって、座った二人を見つめる。 「よく分からないんですけど、起きたらちっちゃくなってました」 「……お前に科学的な説明を期待した私が阿呆だった」 「うりですよ、にいさん」  正座をした兄の膝の上にちょこんと座って、光は涙を拭きながら言った。 「ゆうべ、うらにわでつくっているうりをたべたでしょう?あれがげんいんではないかとおもうんです」 「……子どもの空想に付き合ってられん」 「おれはもうさんじゅうです。とにかくはなしをきいてください」  高い声でいつも通りの喋り方をする光の顔を一瞥して、霖は黙って頷いた。 「このあいだ、にたようなことがあったんです。おくっていただいた、うらでつくっているももをたべて……その、せいこうしたら、つぎのひなつきがおんなになっていました。そのときは、いちにちでもとにもどったんですが……」 「待て、お前達はこんな非科学的な事象を頻繁に起こしていると言うのか」  霖は思い切り眉を顰めて、二人をじろりと見つめる。 「いちどだけです! おれだって、しんじられません。でも、こもんじょにかいてあったんです。ついりのいどみずだけでつくったものをたべ、みをきよめてから、つよくねがいながらせいをささげるというぎしきのことが」  霖は、付き合いきれないと言わんばかりに首を横に振る。だが、光は引き下がらなかった。 「だから、もういちどもとにもどるようにねがいながら、うらにわでつくったものをたべてからだをあらって、せいをささげれば、きっと……」 「……待て。なぜそれを私に向かって言う。夏生でもいいだろう」 「ぎしきがおこなえるのは、ついりのにんげんだけで……、あ」  光は不審そうに兄を見上げた。肉の少ない膝から下り、光はゆっくり後じさる。 「もしかして……、にいさん、ゆうべ」 「……性交はしていない。自慰はしたが」  少し目を伏せて、霖は言った。やっぱり、と光は呟く。  自分のところへ戻ってきた光を、夏生は嬉々として抱き上げた。あぐらを掻いた自分の上に座らせて、ふわりとした癖の少ない髪に頬を擦り寄せる。だが、光はそれを気にする暇もなく、大きな目で悲しそうに兄を見上げた。 「にいさん……、そんなにいまのおれがいやでしたか」 「なぜそうなる」 「いやいやむしろ、こんな小さい子どもを想像しながらオナニーしてることの方が問題でしょ!」 「それをお前が言うな。……昨夜、お前達がまたアルバムを見ていただろう。それで、懐かしくなって少し思い出しただけだ。昔に戻れなどとは思っていなかった」  珍しく、少ししおらしい顔をして霖は言った。  光はじっと兄の顔を見つめてから、意を決して口を開く。 「にいさん……。おねがいします。……おれをもとにもどしてください。いまのおれでは……その、そんなこと、できないでしょうから」  下を向いたまま言った光を見て、霖は不機嫌そうにそっぽを向いた。それが照れ隠しなのは、光にも夏生にも簡単に分かった。 「……男を想像しながら自慰をしろと言うのか」 「いや、したじゃないですか小さい弟想像して」 「少し思い出しただけだと言っている!」 「強く願わないとこうならないんですよ!」 「ふたりとも、やめてくれ!」  甲高い光の声が、エスカレートしかかっていた二人の口喧嘩を止める。 「……いちるののぞみをたくすしかないんです。にいさん、おねがいします。このままでは……」  縋るような光の目を見て、霖は溜息を吐く。そして、頷いた。 「少し待っていろ。……やってくる」 「え、いま?」 「早い方がいいだろう」  立ち上がった霖の足に、光はまた抱きついた。大きな目で霖を見上げ、頬を少し赤らめる。 「あの……、ありがとうございます、にいさん」  霖は片方の眉を跳ね上げてから、そっと光の頭を撫でる。光が手を離すと、ちらりと小さな弟を一瞥してから部屋を出て行った。  その後ろ姿を見送って、夏生はぽつりと呟いた。 「……霖さんって、やっぱブラコンだったんですね」 「おれも……おどろいた。まさか、あのひとが……」 「ほら、いつか言った通りでしょ! やっぱ、隠れゲイだったんですよ」  得意そうに言いながら、夏生は小さな光を抱き締める。複雑な顔をして、光は兄が去っていったドアをじっと見つめた。  先程、光を抱き上げてくれた兄の腕は、途轍もなく優しかった。あやしてくれた兄の手にも、愛情が籠もっていた。  彼の今までの人生で、ここまで兄の優しさに触れたことはない。初めての経験であるそれが、性欲によるものだとは思いたくなかった。  二、霖の想い 「……で、おまえはなにをさがしているんだ」 「携帯ですよ! 今の内に写メ撮っとかないと! あ、デジカメの充電ってまだ残ってましたっけ?」  布団の周りを漁りながら、夏生は嬉々として叫んだ。すぐに携帯電話を見つけると、むっとしたままの光を写真に収める。 「かーわいい!」 「……おまえな……。いまのじょうきょうをたのしみすぎだ」 「だって、こんな異常事態、楽しまなきゃやってらんないでしょ! あ、次は笑ってくださいねー」  キャリーケースからデジタルカメラを引っ張り出し、夏生はにっこりと笑った。ひきつった笑みを浮かべた光の写真を、二枚三枚と撮り続ける。 「あ、動画撮ろうかな!」 「なつき、いいかげんにしろ!」 「まぁまぁ、そう怒らないで……」  光を宥めながら、夏生は小さな唇にそっと口付けた。至近距離で大きな目を覗き込み、夏生は微笑む。 「俺よりずっと小さいつーさんなんて、きっと二度と拝めません。だから俺、今の時間を大切にしたいんです」 「……でも……」 「いっつも、俺はつーさんを見上げてました。けど今は、あんたに見上げて貰ってる。嬉しくて、仕方ないんです。だから……」  素早くカメラを構え、夏生は至近距離でシャッターボタンを押した。慌てて身を引いた光をカメラで追い掛け、満面の笑みを浮かべる。 「びっくりしてるつーさん、ちょう可愛い!」 「まさか、ほんとうにどうがを……!?」 「容量あとちょっとなんで、そんなに撮りませんよ!」 「そういうもんだいじゃない!」  怒鳴ってから、光はカメラに背を向けて走り出した。当然、夏生もその後を追い掛ける。逃げている姿もしっかり録画されており、光はまた泣きたくなった。  最終的に古い勉強机の下に隠れた光を、にこにこしながら夏生はビデオに収める。 「ほらつーさん、恥ずかしがらずにこっち向いてください!」 「むりをいうな!」  叫びながら、光は背を丸めて小さくなった。もう、半泣き状態だった。  その耳に、ノックもなくドアを開ける音が聞こえる。それは光にとって、天からの福音にも思える音であった。 「にいさん!」 「わっ!」  机を飛び出して夏生を突き飛ばし、光はドアへと走った。白いシャツに着替えた霖は、驚きながらも光に歩み寄る。 「……っ!」  だが、霖のところへ辿り着くことなく、小さな足が夏生の散らかしたキャリーケースの中身につまずいて、光は盛大に転けた。 「光!」 「つーさん!」  慌てて、二人は光に駆け寄る。だが、さして勢いがついていたわけではないというのに、光の意識はなかった。 「……夏生、貴様……」  冷たい炎が、鋭い目に浮かんでいる。視線だけで射殺されそうなほどの霖の強い怒りに触れ、夏生は慌てて頭を下げた。 「ご、ごめんなさい! つーさん可愛くって、つい!」 「これは今、心も体も不安定な状態なんだぞ! 貴様が追い詰めてどうする!」  霖は珍しく声を荒げた。夏生は言葉もなく項垂れる。 「……とにかく、寝かせるぞ」  小さな光を抱き上げ、霖は乱れた布団の上に寝かせた。溜息を吐きながら掛け布団を掛け、そっと光の前髪を払う。 「瓜を食べて、湯を浴びて……、やってきた。こんな非科学的なことを信用したくはないが……、光の言葉が正しければ、これで元に戻る」  いつものように表情のない顔で、霖は言った。夏生はこくりと頷いて、兄弟の顔を見比べる。光はなにかにうなされるように眉を顰めて眠り、霖は苦しげな弟をじっと見守っていた。  しばらくして、霖はぽつりと呟く。 「……夏生、お前はこれの……恋人なのだろう」 「……はい」 「お前がこれを守らねば、誰がこれを守る。……もっと自覚を持て」   「……! はい」  泣きそうな顔で、夏生は頷いた。霖は幼さの残る弟の恋人を一瞥して、立ち上がる。 「お前達の分の朝食を持ってくる。待っていろ」 「え……、俺が行きますよ」 「五月になにか聞かれたら、どうするつもりだ。お前ではあれを上手く誤魔化せまい」  背を向けたままそう言って、霖は部屋を出て行った。夏生はその後ろ姿を見送ってから、下を向く。  光は汗を掻きながら、うなされていた。キャリーケースからハンドタオルを取り出し、夏生は滑らかな光の頬を優しく拭いた。小さな額を伝う汗が、夏生の胸を締め付ける。 「……霖さんって……、ゲイ、なのかな」  先程、確信を持ってそう言ったにも関わらず、夏生は自信なくそう呟いていた。だが、深く考える暇もなく、夏生の体を強烈な睡魔が襲う。目眩のような眠気に身をゆだね、夏生もまた横になった。 「先程から、どうなさったんですか? なんだか、光さんのお部屋から大きな足音が聞こえましけど」  二人の朝食を取りに来た夫へ、五月は不思議そうに訊ねた。皿洗いを手伝っていた翠も、不安そうに父の顔を見上げる。 「……鼠が出て、夏生が騒いでいただけだ。気にするな」 「あら、またですか。もう少し鼠取りを増やした方がいいでしょうかね?」  困ったように言いながら、五月は二人分の味噌汁を入れた。 「それにしても……、昨日まではお元気そうだったのに、夏風邪に罹るなんて……。光さん、久し振りのご実家ではしゃいでらしたようですし、本当は疲れが溜まってらしたのかもしれませんね」 「ああ。それに、あれも久し振りに姫津で夏を過ごしたからな。体が冷えたのかもしれん」  しれっとそう言いながら、霖はおかずをいくつか盆に載せた。昨日の残りの瓜に目を遣り、少し考えてからその皿も取る。 「お盆だから病院も開いてませんし、風邪薬も生憎、切らしてますし……。私、コンビニまで行ってきましょうか?」  ご飯を盛りながら、五月はそう提案した。躊躇いなく、霖は頷く。 「そうだな。頼む」 「……わたしも、いっしょにいっていい?」  翠は母を見上げて言った。 「ええ。お皿洗いが終わったら行きましょう」 「うん」  微笑んだ娘の横顔を見て、霖はそっと眉を顰める。幼い頃に戻ってしまった弟と、今の翠はよく似ていた。 「他になにか、必要な物はあります? お飲み物とか、流動食みたいな物は……」 「いや、大丈夫だろう。食欲はあるようだ」  箸や取り皿を用意している夫の背中を見て、五月はふっと微笑んだ。 「あなたは……、本当に光さんが大切なんですね」 「……なんだ、急に」 「だって、さっきからずぅっと、声が優しいですもの」  霖は訝しげな顔をして、妻の笑みを見下ろす。五月はさして気にした風もなく、夫の人形のような顔を見返した。 「この間、翠が入院した時だって、仕事を優先してらしたのに……。光さんの風邪は、こんなに心配なさってるわ」 「あれは……外せない商談があったからだ。今は盆休みだろう」 「もし今、風邪を引いたのが翠や私でも、あなたはこんな風に朝食を用意してくださるかしら」  視線を逸らした夫を、五月は少し恨めしそうに睨んだ。 「……当たり前だ」 「あら、優しい」 「先程からなにが言いたいんだ。回りくどい言い回しは好かん」  不機嫌そうな霖を見て、五月は小さく吹き出した。 「珍しくあなたがお優しいから、からかってみたくなっただけですわ。後は……、少しだけ嫉妬です」 「……くだらん。あれも翠もお前も、私の家族だ」  それだけ言って、霖は二人分の朝食が載った盆を持ち上げた。妻子に背を向けて、霖は歩き出す。 「あなた、気を付けて持って上がってくださいね」 「分かっている。……お前達も、気を付けて行ってこい」  あら、と五月は苦笑した。珍しい霖の優しさは、光だけでなく妻子にも分け与えられた。それが五月の言葉を受けて出たものか、それとも霖の本音なのかは、彼女には分からない。 「……本当に、妬けちゃうわ」  少しだけ寂しそうに、五月はそう呟いた。  三、兄として  光が目を覚ました時、すぐ隣に夏生の寝顔があった。寝苦しそうな夏生を揺すって、初めて光は自分の手が大きくなっていることに気付く。 「……良かった! 元に戻っている……! 夏生、夏生!」  突然声を上げた光に驚き、はっと夏生は目を覚ました。 「つーさん……?」 「戻ったんだ! 夏生!」  光の嬉しそうな声とは裏腹に、夏生の表情は曇っていた。泣きそうな顔をして、夏生は光を抱き締める。 「つーさん……、まだ、です……。大きくなったけど、まだ……」 「……え?」  困惑する光を、夏生はゆっくり立ち上がらせた。光と夏生の視線は、全く同じ高さになる。 「そん、な」  光の目に、じわりと涙が浮かぶ。夏生は同じくらいの身長になった光を、強く抱き締めた。 「……また、霖さんにお願いしてみましょ?」 「だが……、これ以上兄に、迷惑を掛けるわけには」  幾分幼さの残る顔をした光は、苦しげに首を横に振った。 「……お前と同じくらいの身長だった頃……、多分、十二、三才くらいだと思う。その頃なら……確か、精通はもうあったはずだ」 「え? じゃあ」  光は小さく頷いた。 「俺も……、儀式を行える。……多分」  そう言って、光は手を握り締めた。それから少し頬を染めて、夏生をそっと抱き締め返す。 「その……、手伝ってくれるか?」 「もちろんですよ。……さっき、霖さんに怒られちゃいましたしね」 「え?」  ばつが悪そうに、夏生は俯いた。光に頬を擦り寄せながら、ごめんなさい、と呟く。 「今、つーさんは不安定な状態なのに……、恋人の俺が追い詰めてどうする、って。……俺がつーさんを守らなきゃ、誰が守るんだって」  だからね、と言って夏生は微笑んだ。 「だから、もう……、さっきみたいに馬鹿にはしゃいだりしません。つーさんが望んでくれるなら、手伝います」 「……ああ。そうか……兄さんが、そんなことを」  感慨深そうに、光はそう呟いた。変声期が始まったばかりの、少し掠れた声が揺れる。  抱き締め合ったままの二人の耳に、少し乱暴なノックの音が届く。夏生は光を優しく離して、ドアへ向かった。 「夏生か? 開けろ」  ドアの向こうから、霖の声が聞こえる。夏生はいつも通りの居丈高な物言いに苦笑しながら、ドアを開けた。  料理の載った盆を持っている霖を見上げて、夏生はにっこりと笑った。 「ありがとうございます、霖さん」 「……かまわん」  霖はそっと、目を逸らす。 「兄さん? ご飯を持ってきてくださったんですか?」  弟の声を聞いて、霖は訝しげに部屋の奥へ目を遣った。 「……光、か?」 「はい。……完全には、戻りませんでした」 「……そうか」  盆を机の上に置いて、霖は少年めいた光を見下ろす。 「ですが、効果はありました。……非科学的ですが、今はこれを頼るしかありません」 「……納得はできんが、仕方あるまい」  霖はそれだけ言って、二人に背を向ける。部屋を出て行こうとしたその後ろ姿を、光は慌てて引き留めた。 「あの、兄さん」 「なんだ」  後ろから手を引かれた霖は、振り向いて弟の顔を見た。兄の顔を直視することができず、光は俯く。 「……その、後は自分でやるので……」 「できるのか?」 「多分……」  霖は耳まで赤くした弟の旋毛を、じっと見つめた。それから、光を見守っていた夏生に目を遣る。 「俺も手伝います。だから……、霖さんは心配しなくてもいいですよ」  再び、にっこりと笑った夏生を見て、霖は眉を顰めた。 「……まさか、これと性交をする気か」 「は、はぁ!?」  汚れた物を見る目をして言った霖に、夏生は思わず大声を上げる。霖は一切の表情を変えることなく、光の手を振り解いて夏生を睨んだ。 「手伝うとは、そういうことだろう。またこれを追い詰めるつもりか」 「なんでそうなるんですか! 別に、入れなくても手伝えますよ! そりゃ、俺と同じくらいの身長だから、いろいろ普段できないこともできるなーとか思いますけど、さすがに実行には移せません!」 「な、夏生?」 「ふん、邪なことを考えているではないか。お前は自分で、その性欲を抑制できると思っているのか?」 「それくらいできます! 俺だって、この人のこと守りたいのはあんたと一緒なんですから!」  霖は夏生を見つめたまま、光は兄を見上げたまま、目を見開いた。 「……ど、どうしたんですか?」  黙ってしまった二人を、夏生は交互に見遣った。何も言わない霖の手を取り、光は泣きそうな顔で、笑みを浮かべる。 「兄さん……」 「……なんだ」 「ありがとうございます」 「……なにが」  霖は殊更ぶっきらぼうな声で、弟に訊いた。夏生は困惑しながらも、二人を見守る。 「俺を、守ろうとしてくれて……、守ってくれて、ありがとうございます」  光は兄の手をぎゅっと握った。固く目を閉じた霖を見上げ、恐る恐る先程のように兄に抱きつく。 「……つー、さん……?」  夏生の声に引っ張られるかのように、光はすぐ兄から離れた。悲しげに笑って、夏生の隣に立つ。 「兄さん。俺は、あなたのことも夏生のことも、同じくらい信頼しています。だから……、兄さんも、夏生をもっと信頼してくださいませんか?」  そっと目を開けて、霖は二人を見つめた。その目に、強く冷たい輝きが宿る。それは、夏生が光の前から逃げ出したあの日、霖が見せたそれとよく似ていた。 「私は……夏生がお前を痛めつけた上に逃げ出そうとしていたことを、忘れていない。お前をあそこまで傷付けた前科者を、信頼しろと言うのか」  夏生は霖の視線に耐えられず、下を向いた。だが、夏生の手を握り締めた光は、恋人の代わりに反論する。 「言ったはずです。あれから一度も、夏生は俺を傷付けようとはしていません」 「では先程の体たらくはなんだ。お前を愛玩動物かなにかのように扱い、追い詰めていたではないか」 「あれは……」 「反省をしても、それが行動に反映されなければ意味がない。夏生が同じような過ちを繰り返す以上、私はお前を信用せん」  言い捨てて、霖はドアへと歩き出した。光はなにも言い返せず、悔しそうにその背中を見送る。  その時、夏生は光の手を強く握り返した。ぐっと唇を噛み締めてから、ゆっくり口を開く。 「じゃあ……、見ててくださいよ」 「……なにを」  振り向いた霖の前で、夏生は光の唇を奪った。再び目を見開いた霖を横目に、夏生は驚いて動けない光をゆっくり横たえる。 「俺はこの人を傷付けたりなんかしないって確認すれば、信頼してくれるんでしょ?」 「夏、生……?」 「なにを、する気だ」  ひどく優しい目をして、夏生は再び光に口付けた。男に唇を奪われて抵抗もしない弟を、霖は呆然と見つめる。 「そこで、見ててください。俺が……この人のこと、傷付けないって……確かめてください」  夏生は真剣な目で、霖を見上げていた。霖はしばし夏生の目を見た後で、押し倒された弟の顔に視線を遣る。  目を閉じて、光は小さく頷いた。隠しきれない羞恥で頬を赤く染めながらも、光は自ら年下の恋人に唇を寄せる。  深く口付け合う恋人達を前にした霖の頬に、初めて赤味が差した。視線を逸らし、手で口を覆う。 「……もういい。私に覗きの趣味はない」 「逃げんなよ」  踵を返そうとした霖を、夏生は静かながら強い口調で引き留めた。霖の柳眉が、跳ね上がる。 「今あんたが逃げたら、俺は一生あんたに信頼されないままなんじゃないですか? 最後まで、ちゃんと見ててくださいよ。それとも、光さんの為に俺を怒鳴る勇気はあっても、光さんがちゃんと愛されてるのを確認する勇気はないんですか?」 「……弟が性欲の対象になっているところなど、見たくない」  霖はぽつりと呟いた。なおも言い募ろうとする夏生を無視し、霖はドアを開ける。 「……兄さん」 「お前まで、私に見ていろと言うのか」  光はそっと首を横に振った。夏生を優しく退かせて、背を向けたままの兄に歩み寄る。 「俺も……あなたに見ていて欲しいわけではありません。でも……、知っていて欲しいんです」  霖の手を優しく握って、光は兄を見上げた。 「夏生は俺を愛してくれています。俺も……、夏生を愛しています。俺は夏生の性欲を満たす為だけに、あいつに抱かれているのではありません。それは、紛れもない事実なんです。……それだけは、知っておいてください」  霖は僅かに後ろを向き、華奢になってしまった弟を見下ろした。光からは、ほとんど表情は見えなかった。 「……私には、分からん。体に負担が掛かる上に、子どももできんというのに、愛だの恋だのと言いながら性交をするお前達の感覚など……。一生掛かっても理解できん」  霖はそっと、一回り小さな光の手を握り返した。ドアが軽い音を立てて閉まる。 「私にとって重要なのは……、夏生がお前を傷付けるかもしれない、ということだけだ」 「兄さん……?」  少し躊躇ってから、霖は眉間に皺を寄せながら振り向く。そして、ゆっくりと光を抱き寄せた。  夏生と光は、言葉もなく呆然と霖を見つめる。 「……お前は、私の弟だ。父に託された……、たった一人の。だから私はあの人の代わりに、お前を……守らねばならん」 「兄、さん……」 「たとえお前が望んでいても……、本来ならばこんな状況を許すべきではないのだ。  お前には人並みの幸せがあったはずだ。仕事に就き、結婚して、家庭を作るような、当たり前の道があったはずだ。叔父のように分家して、将来私の子を支える道も、当然あったはずだ。  だが、お前は敢えて、普通でない道を選んだ。傷付きやすいお前が、辛い道を選んだ。ならば私は、お前を傷付けるかもしれないものを排除せねばならん。……それくらいしか、お前にしてやれることはない」  ひどく優しい手つきで、霖は光の頭を撫でた。その優しい手に、記憶の奥底に眠る僅かな父との思い出が蘇り、光は一滴、二滴と涙を零す。 「夏生」  泣き出した光をそっと抱き締めて、霖は立ち竦む夏生を睨んだ。 「私に信用して欲しければ、私以上に光を守れ。決して傷付けることなく、な」 「でも……、そんなの、どうやったらあんたに分かってもらえるんですか……?」 「信用など、一朝一夕で作り上げるものではない。……とりあえずは、これを傷付けないように元に戻せ」  夏生にそう言ってから、霖は光をゆっくりと離した。少し乱暴に光の涙を拭って、小さくなってしまった弟の頭をもう一度撫でる。 「傷付けられそうになったら、すぐに言え。……外で待っている」 「……はい」  夏生からは見えなかったが、霖はほんの少しだけ笑みを浮かべた。そしてすぐに踵を返し、今度こそ部屋を出て行った。  軽い音を立てて、ドアは閉まった。光はしばらく、そのドアを見つめていた。その背中を、夏生は恐る恐る抱く。 「つーさん……」 「……夏生、ゆっくりでいい。ゆっくり……あの人に分かって貰おう。お前を、信用して貰おう」  こくりと、夏生は頷いた。  振り向いた光の唇に、夏生は優しく優しく口付ける。いつものように見上げる必要のないキスは、夏生に多大な違和感を与えた。 「……なんか、変な感じ、ですね」 「ん?」 「いろいろ……変な感じ」  言いながら、夏生は光の手を引いて布団へ向かった。ドアの向こうに霖の気配を感じながら、細身になった光をゆっくりと寝かせる。 「つーさんはちっちゃいし、霖さんは優しいし……、なんか、……変な感じです」  三度同じ言葉を口にしながら、夏生は光の下着を脱がせた。いつも以上に薄い陰毛をそっと撫でてから、いつもより細い陰茎に口付ける。 「夏生、待て。まず儀式を……」 「あ、そっか。えーっと……最初に瓜……」  机の上に置かれた朝食から瓜を一つ摘んで、夏生は光の口元に持っていった。小さな口を開けて、光はそれをゆっくりと咀嚼する。ごくりと、夏生は生唾を飲み込んだ。 「それから風呂……でしたっけ?」 「ああ。問題は……義姉さん達だが」  言いながら、光は下着を履き直した。少し悩んでから、夏生のキャリーケースからシャツを取り出す。 「借りていいか? 俺の服では大きすぎる」 「はい。……五月さん達には、気付かれない方がいいですよね」 「……そうだな。兄さんに相談してみるよ。お前は待っていてくれ」  心細そうな夏生の頭をいつものように撫でてから、光はシャツを着て部屋を出た。  四、父親代わり  光がドアを開けると、壁に背を預けた霖がどうした、と声を掛けてきた。 「兄さん、風呂に入りたいのですが……義姉さん達は?」 「風邪薬を買いに、コンビニまで行っている。……そろそろ戻ってくる頃だ。手早く済ませろ」  そう言って、霖は光の手を取った。足早に歩き始める霖に合わせ、光は必死に足を動かす。 「兄さん……、ずっと、聞きたかったことがあるんです」  階段を下りながら、光は兄の背中に問い掛けた。 「兄さん宛の父さんの遺言状には……、なんと書いてあったんですか?」  ちらりと、霖は弟を一瞥した。すぐに前を向いて、光から表情を隠す。 「遺産相続の件が中心だった。……だが、最後に関係ないことが一つ、書かれていた」  霖は独り言のように言った。光は常より大きく思える背中を、じっと見つめる。 「……家長として、栗花落家を守れ、と」  ぽつりと、小さく霖は呟いた。だが、光には聞こえている。じんわりと、光の胸は温かくなっていった。 「……ごめんなさい、兄さん。ずっと……、あなたのことを、誤解していました」 「誤解?」  光は兄の後ろ姿を見ながら頷く。 「俺がここを出て行ったことや、大学に入ったこと……、全部気に入らないから、再三連れ戻そうとしていたのかと思っていました。兄さんは、そんな個人的な感情で動いていたのではないんですね」 「……気に入らんのは事実だ。今でも、私の補佐をできる人間はお前だけしかいないと思っている。戻ってくるなら、いつでも……戻ってきて欲しい」  霖はやはり振り向かない。照れているのだろうか、と思って、光はくすりと笑った。 「だが、あの時のお前を見て分かった。無理に連れ戻せば、お前は間違いなく使い物にならなくなる。それに……」 「それに?」 「……お前からあれを引き離せば、お前はあの時以上に深く傷付く」  光の胸に、あの日の心と体の痛みが蘇る。連れて帰ってあげてください、と言った時の夏生の冷たい声は、光の心の片隅に今でも住み着いていた。 「お前を追い詰めるのは、私の本意ではない。だからお前達を許した。……お前があれから離れたいと言うのならば、私はいくらでも協力してやる」 「離れたいなんて……、思ったこともありませんよ。心配しなくても大丈夫です」  霖の手を握り返して、光はきっぱりと言った。脱衣所を目前にして立ち止まった霖は、微笑む弟を見下ろす。 「……余計なことを話しすぎた。忘れろ」 「無理ですよ。兄さんがこんなに、……想ってくれているなんて。嬉しくて忘れられません」  そっぽを向いて、霖は壁に背を預けた。拗ねたような兄の姿に苦笑しつつ、光は脱衣所へ入る。  光は改めて、自分は守られているのだと実感していた。  辞職したこと、大学に入り直したこと、独りで暮らすこと、そして夏生とのこと。全て、兄や叔母達はそれぞれの形で受け入れてくれている。その上で、自分を守ろうとしてくれているのだと、今更のように光は思った。 「……幸せ者だな、俺は」  少しだけ掠れた声が、脱衣所に響く。光はまた苦笑して、ゆっくり服を脱ぎ始めた。  ささやかな嬌声と、少しだけの床の軋みが聞こえてから、光の部屋は静かになった。霖は思い切り眉を顰めたまま、部屋の前でドアを睨んでいた。  しばらくして、軽い足音が霖へと近付いてきた。 「おとうさん……? ひかるおじさんのおくすり、もってきました」 「……ああ」  翠は不思議そうに、不機嫌な顔をした父を見上げる。市販の風邪薬を手渡して、翠は父の視線を追った。 「ひかるおじさん……、ねてるの?」 「そのようだ。風邪がうつるから、お前は下りていろ」  不安そうにドアを見つめてから、翠は頷いた。踵を返し、ゆっくりと去っていく。  小さなその背中を見つめながら、霖は遠い過去と未来に思いを馳せた。光も、翠も、彼にとっては守るべき者に変わりはない。  そっと、霖は溜息を吐く。ゆっくりと座り込んで、自分の膝に頭を預けた。  目を閉じた時、ドアノブを回す音が霖の耳に届く。 「あの……終わりました」 「……いちいち報告せんでいい」  顔を覗かせた夏生に、殊更ぶっきらぼうに霖は言った。 「でも、光さんが伝えてくれって。……もう、寝ちゃいましたけどね」  夏生は慈愛に満ちた目で苦笑した。それから、霖の隣に座り込む。 「光さん、嬉しそうでしたよ。……妬きたくなるくらい」 「……私は、家長として当たり前のことをしているだけだ」 「でも、それがあの人には嬉しかったみたいです」  言いながら、夏生はぼんやりと宙を見上げた。しばし考えてから、口を開く。 「俺……、あなたのこと、隠れゲイだと思ってました」 「……は?」 「うっわ、嫌そうな顔……。ま、普通はそんな顔しますよね……」  思い切り顰め面をした霖を見て、夏生は溜息を吐く。 「霖さん、光さんにすごく執着してたし、すごく大切にしてたから……、もしかして、って。けど……」  夏生は横目で霖を見た。また、霖は自分の膝に顔を埋めている。 「今回のことで、なーんとなく分かりました。あなたは別に、あの人のことが俺みたいに好きなんじゃなくて……、心配で心配で仕方ないんだって」 「……当たり前だ。あれは私の……弟だからな」  顔を埋めたまま、独り言のように霖は呟く。 「……ひょっとして、照れてます?」 「……照れていない」  殊更に小さな声で、霖はぽつりと言った。にやりと笑って、夏生は霖の顔を覗き込もうとする。 「ほんとに?」 「当たり前のことを言っただけで、なぜ照れねばならん」 「だって、そういうこと素直に言いそうにないから」 「……お前に私の、なにが分かる」 「ちょっとだけ。……俺と同じで、光さんを大切にしたいってことと、俺のことあんまり信用してないってことくらいは。後、素直じゃないけど案外優しいですよね」  覗き込んできた夏生の頭を小突いて、霖は立ち上がった。 「いきなり、馴れ馴れしくするな。……先程までは、噛み付いてきていたというのに」 「だって、光さんはあなたのこと、もう恐がってません。誤解も解けたって言ってました。そんで嬉しそうに、兄さんはやっぱり俺のこと想ってくれてたんだって言ってました。光さんがそんな風に言うなら、俺もあなたのこと警戒する必要なんてないでしょ?」 「お前の理屈はよく分からん。大体……あれには忘れろと言ったのに」 「無理でしょ。あんだけ喜んでたら」  苦笑して、夏生も立ち上がった。ずっと上にある霖の顔を見上げて、にっと笑ってみせる。 「あの人が喜んでると、俺も嬉しいんです。……ほんと言うとちょっと、ヤキモチ妬いたけど……。でも、俺も霖さんのこと、なんとなく好きになってきた」 「……俺には、男色の趣味はない」 「知ってますよ。そーいうんじゃなくて、人として、ね」  夏生の笑顔を訝しげに見下ろしてから、霖は静かにドアを開けた。すうすうと寝息を立てる弟を一瞥し、霖はまたドアを閉める。 「よく寝るな、あれは」 「はい。……そういえばさっき、気絶してるあの人の横にいたら、俺も急に眠くなってきちゃって……。なんか、あのおまじないと関係あるんですかね?」 「……あまり信用したくはないが、その可能性もあるかもしれん。とりあえず寝かせておくか」  霖はゆっくりと歩き出した。夏生はその背中を見送ってから、部屋に戻る。  しばらくして、光の部屋は静寂に包まれた。  光が目を覚ました時、最初に目に入ったのは兄だった。 「……兄さん?」 「起きたか。もう夕方だぞ」  そう言われた光は、ぼんやりした頭をゆっくりと動かした。窓の外では、山々が夕焼け色に染まっている。 「……体は大事ないか」 「ええ……。……え?」  我に返って、光は自分の手足を見回す。 「元に……戻っている?」 「そのようだ。……信用してみるものだな」  安堵の笑みを浮かべた光を、霖は少しだけ優しい目で見つめた。 「そういえば……夏生は?」 「……そこにいる」  霖の視線は、光の布団の隣へ向いていた。あどけない寝顔を見て、光は穏やかに微笑む。 「……また、夏生に苦労を掛けてしまいました」 「これはいつも、お前に苦労を掛けているんだろう。……あいこだ」 「そんなことは……」  首を横に振りながら、光はそっと夏生の前髪を払った。 「兄さんにも、苦労をお掛けしました。ありがとうございます」  殊勝に頭を下げた光を、霖は一瞥する。少し考えてから、霖は弟の頭を撫でた。光は目を細めて、兄の手を受け入れる。 「お前の世話には、昔から慣れている。今更、礼などいらん」 「……そう、でしたか?」  霖は手を離し、無表情で頷いた。 「お前をあやすのは私の仕事だったからな」 「そ、そんなに泣いてませんでしたよ……」 「覚えていないだけだ。幼稚園に通い始めた頃など、母さんが帰るとすぐに泣いていたぞ」  必死になって光は記憶を辿ったが、おぼろげな思い出しか残っていなかった。だが、嫌そうな顔をした兄と、涙を堪えられない自分のことだけは、鮮明に覚えていた。   「私が小学校に上がる頃には、あまり泣かなくなっていたがな」 「ああ、それはヒロが……、友達ができたからですよ」 「あのやたらと遊びに来ていた奴か?」 「ええ。……名前、覚えてないんですか? 重永寛弥ですよ」  霖はしばし黙考してから、頷く。 「あの、菓子作りだの紅茶だのに興味を持っていた奴だな。母さんに懐いていた……」 「母さんの葬式にも来てくれましたよ。今は俺の家の近所で喫茶店をしてます」 「……ああ、驟が言っていたな」 「夏生もそこでアルバイトをしているんですよ。夏生の料理の先生でもあります」  夏生の癖毛を撫でながら、光は微笑んだ。慈しむようなその笑みは、性交を終えた後で部屋を出た夏生が見せたそれと、よく似ていた。 「……兄さん? どうかしましたか?」  黙り込んでしまった兄の顔を、光は首を傾げながら窺った。 「……いや。夕飯はどうする。一応、お前は風邪ということになっているが」 「なら、ここで食べた方がいいかもしれませんね」 「分かった」  立ち上がろうとした霖の手を、光は咄嗟に掴んでいた。訝しげな兄の視線を受けても、光は笑みを崩さない。 「もう少し……、話しませんか? せめて、夏生が目を覚ますまで」 「……なにを」 「他愛のないこと、です。……思い出話でも。こんな風に兄さんと話すことは、滅多にありませんから」  霖は何も言わず座り直した。光は満面の笑みを浮かべる。  そうして二人は、暗くなるまでぽつぽつと語り合った。両親のこと、幼い頃のこと、今のこと。兄弟を取り巻く様様なことについて。  やがて世界は暗闇に包まれ、霖は電灯を点けた。目映い電灯の下で、夏生は小さく唸って目を開ける。 「目が覚めたか?」  優しい目をしたいつもの光を見た夏生は、霖の目も気にせず光に抱きついた。 「よ、良かった……! 戻ってる……」 「ありがとう。苦労を掛け……ん?」  違和感に気付いた光は、ゆっくりと夏生を抱き上げた。 「どうした?」  眉を顰めた霖を、光は泣きそうな目で見上げる。 「……兄さん、また……です」 「は?」 「え、つーさん、またって……?」  光は頬を染め、夏生の胸をちらりと見た。夏生の顔から、ゆっくり血の気が引いていく。 「……ま、またぁ!?」 「どういうことだ」  光の視線を追った霖は、ありえないものを目撃した。夏生の胸が、ふっくらと丸みを帯びていたのである。 「また、女になってる……」 「……どういうことだ。一体」  夏生と霖に見つめられ、光は恥じらいながら俯いた。 「まさかとは……思うんですが、その……、先程の……性交の時に、……そんなことを、考えてしまって」 「つ、つ、つーさんの、馬鹿……!」 「す、すまない……」  情けない顔で俯く弟を見て、霖は思い切り溜息を吐いた。  霖が落ち着けるのは、まだまだ先である。    
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