3人が本棚に入れています
本棚に追加
幼馴染みの背中を見送ってから、俺はブランデーを飲み続けていた。あいつの家の近くに店を出すことが決まった時、すぐに買ったブランデーだった。初めて店に来てくれた日に、一緒に飲もうと思っていた。紆余曲折あって、結局あいつは一口飲んで寝ちゃったけど。
その時までは、まだあいつのことを忘れられなかったんだろうな、と思うと、なんだか笑えてきた。異国の地で恋をしなかった訳ではないが、実ったり散ったりのいくつかの恋と、あの高校卒業の日に消えていった恋では、思い入れが違いすぎるのだ。まして、その相手の近くに、また住むことができるなんて。俺は、この十二年で元の幼馴染みに戻ったんだと思っていたが、今思い出してみれば、あの時の自分の喜びようは、幼馴染み相手のものじゃない。やっぱり、諦め切れてなかったんだ。
……だけど、それも……、あの日まで。アルバイト募集の張り紙を見て、彼がここを訪れた……、あの、まだ肌寒い日までのことだ。
意志の強そうな、それでいてどこか安心できる、綺麗な目が特徴的だった。別に、睫が長いわけでも、取り立てて大きな目というわけでもない。でも俺は、その目に吸い寄せられてしまった。
一目惚れ。三十路目前にして、初めての体験だった。一も二もなく採用したかったが、最初にいい加減な奴だと思われたら信用がなくなると思って、できるかぎり大人の男を演じた。だから、彼も初対面の時は、かなり緊張していたらしい。……後になって、「まさかこんな人だったとは」なんて言われてしまい、ちょっと凹んだのは秘密だ。
それから、俺はあんまりあいつを意識しなくなった。開店してすぐで、なにかと慣れなくて忙しかったこともある。あいつも、編入手続きやら卒業式やら自分の研究やらで、いろいろ忙しかったようで、顔を出さなかった。……でも、意識しなくなったのは、そんな物理的な距離の問題じゃない。
彼が……ブロくんがいてくれたからだ。ブロくんに一目惚れしてから、俺は暇になると彼のことばかり考えるようになっていた。時々、暇じゃなくても考えてしまって、仕事が手に付かなくなることもあった。……もういい年なんだから、もっと余裕のある恋ができるつもりだったのに。
とにかく彼のことでいっぱいで、あいつのことは二の次になっていた。忘れられたことを、安堵する暇もなかった。ほんと、俺って惚れっぽい。
そうこうしている内に、あいつも店にやって来た。と思ったら、あいつを追っ掛けて可愛らしい男の子も入って来た。それが、半田くん。初めて会った時から、彼が自分と同じだってことは分かった。彼は明らかに、俺にヤキモチを焼いていたから。あいつと仲良く話してる俺が許せないんだろうな、と思うと、彼がとんでもなく可愛く見えたのだ。童顔とはいえ、外見は手放しに可愛いと言えるタイプじゃない。でも、彼の必死さが微笑ましかった。
だから、俺は一目見た時から、彼を応援しようと決めていた。俺は果たせなかったけど、あんなに必死にあいつのことを好きになってくれた彼に、想いを成就して欲しかった。
それに、矛盾してるかもしれないけど、俺が想ってやれなくなったから、あいつが寂しがってないか心配になっていた。あいつは他人の様々な感情に疎い上に、他人との間にすぐ壁を作る。大切に想ってくれる人も、家族以外ではほとんどいない。だから、俺の代わりにあいつを想ってくれる半田くんが現れてくれたのが、純粋に嬉しかった。
……はず、なのにな。
ブランデーの味が、よく分からない。酒の強さは人並みだと自負していたが、どうやらそれは気のせいだったみたいだ。
「……泣きたくなってきた」
だーれもいない店内に、俺の泣き言が虚しく響いた。もちろん、だーれも返事してくれない。ああ、ほんと、なにやってるんだろうな、俺は。
さっき、あいつにはメールしたけど、多分見てない。返事はないから、まだ話してるんだろうか。半田くん、あんなに頑なに自分の想いが受け入れられないと思い込んでたもんな。そりゃ、相手にするのは大変だろう。……でも、これはあの二人の問題。俺は、これ以上の手助けをしちゃいけないんだ。
……って、分かってるんだけど……。気になるよなぁ。
「……はぁ。あー、気になる」
また独り言を言いながら、ブランデーを飲んだ。じんわりと鼻に立ち上ってくる豊かな香りも、今の俺にはちょっとした刺激臭くらいにしか感じない。あー、なんて勿体ない。高かったのに。美味しいはずなのに。
カウンターにほっぺたをのせると、ひんやりしていて気持ちよかった。……今日は、このまま寝ちゃおうかな。ついでに風邪でも引いて、明日は休みにしようか。
……駄目だ。明日はブロくんがバイトに入る日だ。風邪引いたなんて言ったら……。うーん、体調管理くらいしっかりしてくださいよ、マスター、とか冷たく言われて終わりかなぁ。それとも、こないだの半田くんの時みたいに、お粥作ってくれたりするかなぁ。
「……なにやってんですか、マスター」
あれ? もう明日? おかしいな、ブロくんの声が聞こえる。こんな時間なのに……って、今、何時だろう。
「マスター? 大丈夫ですか?」
「……ふえ? 夢かな……。なんて都合のいい夢……」
「なに言ってんですか。現実ですよ。こんな時間まで灯が点いてるから、様子見に来たんです。いい加減、起きてください」
ゆさゆさと、俺を揺する少し冷たい手が心地いい。
「ブランデー? 一人で飲んでたんですか?」
「うん……。今日は、アニバーサリーだから」
「は? わざわざ英語で言わなくていいじゃないですか」
うーん。冷たい。やっぱり、風邪引いても心配してくれないかなぁ。
「記念日だかなんだか知りませんけど、鍵も掛けないで店で寝ないでくださいよ。ほら、起きてください」
「うーん、後一時間だけ……」
「長いわ!」
鋭いツッコミが入る。あれ? 実家は関西だっけ? いや、確か東海の辺りだって聞いたような……。ま、いいや。
「ごめん。後一時間したら、ほんとに諦めがつくから……」
「……どうしたんですか? ほんとに。記念日とか言う割には、後ろ向きじゃないですか」
ブロくんが、隣に座る音がする。やっぱり、優しい。
優しいブロくんなら、俺のこんなグダグダな気持ちを聞いてくれるかな? 聞いてくれたとして、俺はどうしたいんだろう。ま、いいか。なんかもう、深く考えるのが面倒になってきた。……半田くんのことも話さなきゃいけなくなるけど……、ブロくんは、そんな狭量な男じゃないよねぇ。うん。
「あのね、驚かないで聞いてくれるかな」
「内容次第ですね」
なんて冷静な意見。全くその通りでございます。俺はカウンターに頬をくっつけたまま、ブロくんを見上げた。
「今ね……、つーが、半田くんに告白してるんだよ」
「……なにをですか?」
少し、険を含んだ目。冗談を許さない、真っ直ぐな視線。この強い目が、好きなんだ。
「愛の告白。……でも、先にしたのは半田くんだから、この場合は返事なのかな」
「夏生が? 栗花落さんと? ……冗談だったら、ぶっ飛ばしますよ」
「確かめてみたら? たぶん、連絡取れないと思うけど」
お尻のポケットから携帯電話を取り出して、ブロくんに渡した。ブロくんは、戸惑ったようだった。
「……マジ、ですか?」
「マジです。半田くんは、つーのことが好きなんだって。……しかも、一目惚れ」
ブロくんの、意志の強そうな目が、揺れる。そんなに動揺するんだ。……ま、そりゃそうか。親友がゲイだってこと、こんなところで暴露されれば、誰だって驚く。
「でね、つーも満更じゃないみたいだから、今返事してるんだよ」
「それって……、栗花落さんもゲイだったってことですか?」
……そうだったら、良かったのかな? あの日の俺の想いも、受け入れてもらえたのかな? ……たぶん、結果は変わらないと思うけど。
「違うよ。ゲイじゃない。けど、あいつは半田くんの想いを拒否するなんて、考えてなかった。それなら、答えは一つじゃない?」
「……そう、ですか」
疲れたようにそう呟いて、ブロくんは俺のブランデーグラスを取った。ず、と一口飲んで、渋い顔をする。
「はは、ブロくんにはまだ早いかな」
「……ほっといてください。それより……、さっきの話がほんとなら、今日はマスターの記念日じゃなくて、あの二人の記念日じゃないですか」
「うん。あの二人の記念日。だけど、俺の記念日でもある」
ブロくんは、不思議そうな顔をした。そんな表情になると、少し幼く見える。……俺が老けたのかな。
「幼馴染みの、恋が実った日だから……ですか?」
「いいや」
ますます訝しげに、ブロくんは俺を見た。……まぁいいか。勢いで、言っちゃおう。どうせ酔ってる時じゃなきゃ、こんなこと話せない。
「……十二年越しの恋が、やっと諦められた記念日」
そう言ったら、ブロくんは固まってしまった。……瞬きすらしない。
そんなにびっくりするような内容……いや、うん、驚くよな。そりゃ。
「それ、って……、マスターも?」
「うん。ゲイだよ。隠しててごめん。気持ち悪い?」
ブロくんの表情が、激変する。さっきまで固まっていた目は、きついきつい光を放った。……なんだか、嬉しい。
「馬鹿にしないでください。あんたや夏生がゲイだからって、俺があんたらを気持ち悪がる理由にはならねぇ」
「……うん。ありがとう。でね、気持ちに整理が付いたから、こうして飲んでるんだ」
ブロくんは、また不思議そうな顔をした。まだ、ちょっと怒ってるみたいだ。……俺、なんか変なこと言っただろうか?
「気持ちに整理が付いたのに、酒飲むんですか?」
「うん。なんか、無性に飲みたくなってね。あ、別にアル中じゃないよ」
「そんなこと分かってます。そうじゃなくて、言ってることとやってることが合ってないですよ、マスター」
ん? そうか? うーん、そうなのかな? 俺は、祝杯のつもりなんだけど……。
「普通、失恋した時とかに酒飲んで忘れるもんじゃないですか。なんで、気持ちに整理が付いたのに、忘れようとするんですか? 忘れたいとか諦めたいとかってのを通り越したのが、整理が付いたって状態じゃないんですか?」
「うーん……。そうなのかな? 俺としては、しっかり区切りが付けられたと思うんだけど……」
「……じゃ、なんでさっきから、そんな泣きそうな顔してるんですか?」
……え? そう、なのか? 俺、今泣きそう? 自分の顔をぺたぺたと触ってみたが、熱くなっていること以外はよく分からなかった。
「……マスター。諦められてないんじゃないですか?」
「そんなことないよ。俺は、半田くんとつーが一緒になれればいいって、心から思ってる。半田くんが、この店に来た時から、ずっと」
うん。そうだ。俺は、ずっと……彼を応援してる。今も、それは変わらない。あんな健気で可愛い子、今時女の子にもいない。あいつのことも、きっとおっかなびっくりでも大切にしてくれる。
「夏生のことは、この際ほっといてください。大事なのは、マスターの素直な気持ちでしょう?」
「……素直な気持ち? やっとあいつを諦められて、心底ホッとしてるよ。振られてから十二年も掛かっちゃったけど……」
「本当に? ホッとしてるって顔じゃないですよ」
俺、今どんな顔してるんだろう。ほんとに。鏡……奥の部屋にあった気がするけど……。
「……栗花落さんを夏生に取られて、ほんとは辛いんじゃないですか?」
「違うよ。ブロくん。それは、違う。……なんで、俺じゃ駄目で、彼ならいいんだろうとは思った。けど、あいつには彼じゃなきゃ駄目だったんだ。きっと」
そう。あいつにとって俺は、兄弟みたいなものだから、俺じゃ駄目だった。けど、半田くんは違う。
「あんた、それでいいんですか? そんな曖昧な理由で、ほんとに諦められるんですか?」
「ああ……。あいつが幸せになるなら、それで……」
いい、と言おうとしたけど、突然襟が締まって息が苦しくなった。……気が付いたら、ブロくんが俺のシャツの首を掴んでいた。
強い強い目が、俺を睨んでいた。
「そういう言い方してる奴は、大抵諦められてねぇんだ!
あんた、そうやって諦めたふりして、逃げてんじゃねぇのか!?」
「く、るし……、離して……」
「はっきりしろよ! いちいち言い訳付けてないで、素直な気持ち伝えて来いよ! 苛々すんだよ、あんたや夏生みたいな、恋愛ごとに消極的な奴!」
……ブロくん? おかしいな……。怒ってるのに、泣いてる……。
「素直になれよ……! あんたは、まともに恋愛ができるんだから……!」
「……え?」
どういう意味? 男同士が、まともな恋愛? 分からない。ブロくんの言ってること、分からないよ。
ブロくんはひどく悲しそうな目をして、俺から手を離した。唇を引き結んで、涙を堪えている。……なんで、なんだろう?
「……男同士が、まとも? ブロくん、それはさすがに俺でもちょっと……」
「……まともだろ。誰かを好きになれるんだから」
吐き捨てるようにそう言って、ブロくんはまたブランデーを飲んだ。今度は、痛みを耐えるような顔をして。
「俺は誰も好きになれない。……誰も、好きにならない」
「……どうして? 聞いて、いいのかな?」
ブロくんの置いたブランデーグラスをそっと彼から離して、俺は涙を湛える目に見入った。とても……綺麗だった。
「楽しい話じゃないです。聞いたって、なんの役にも立たない」
「……楽しくなくたって、かまわないよ。役に立つかどうかで、話を聞くか聞かないかも決めない。……話すのが辛くなかったら……、教えてくれよ」
……悩んでるのかな。……辛いこと、なんだろうな。俺には……教えてくれないかな。
ブロくんは、黙ったままだった。じぃっと、カウンターの向こうを見ていた。いいや、彼の目にはたぶん、もっと別のものが映っている。彼の中の、とっても大きくて……辛いものが。なんでだろう……。胸が痛くて、苦しい。
「ごめん、な」
「……え?」
ブロくんは、きょとんとした顔で俺を見た。
「ごめん。やっぱり、いいよ。辛いこと思い出させたね」
揺れる。俺の大好きな、とても強くて綺麗な目が、ゆらりと。見ていたいけど……、同じくらい、見ていられない。俺は、ブロくんの頭を撫でることで、彼の前髪でその目を隠した。少し乱暴に。
「でも、君の言う通りだ。俺も、素直に言ってみるよ。あいつに……今の気持ちを」
ブロくんはなにも言わない。ただ、……涙を堪えるために、震えているようだった。
俺は頭頂を撫でていた手を、頭の後ろに下ろそうとした。
だが、その手は強い勢いで払われる。
「……つっ」
「す、すいません!」
俺よりも慌てた声で、ブロくんは顔を上げた。だけど、その目は……怯えている。
「ブロくん……? ほんとに、どうしたんだ?」
「……なんでも、ありません。それより、怪我してませんか? 大丈夫ですか?」
さっき自分で払った俺の手を掴んで、ブロくんは必死になって傷を探した。でも、ちょっと赤くなったくらいで、目立った外傷はない。
「心配しないでいい。全然、怪我なんてしてないよ」
「……良かった。ほんと、すみません」
殊勝なことに、わざわざ頭を下げてくれた。……でも、そこまでされるようなことじゃない。どうしたんだろう?さっきから、彼の様子がおかしい。
「……頭、触られると……、いつもこうなんです。我慢しようと思っても、手が勝手に動く。……それに、頭だけじゃない……」
ぽつぽつと、彼は呟いていた。俺に話しているようでいながら、彼の目は俺を見ていない。
「人に触られると……、体が勝手に反応するんです」
「……うん。不用意に触って、ごめん」
「マスターは悪くありません。……でも、分かったでしょう? こんなだから、俺は……恋なんてできない」
体の接触を、本能的に拒んでる? もしかして、ブロくんは……。
「気を悪くしたら、ごめん。……虐待、受けてた?」
ブロくんの目が、大きく開く。涙がゆらゆらと瞳を揺らす。……やっぱり。
「……それなら、仕方ないよ。体が勝手に動くのは、君が無意識の内に自分を守ろうとしてるから……だろうしね。俺も詳しい訳じゃないけど、自然な反応だと思うよ」
「違う!」
……え? 違う、のかな? どこかで、そんな風に聞いたんだけど……。ブロくんは強い強い目で、俺を睨んでいた。
「……違うんです。俺は……、体を、傷つけられたわけじゃねぇ。どこも……どこにも、跡なんか残さなかった! どこにも、怪我なんかしなかった!」
「ブロくん? 落ち着いて、俺はなんにも……」
「虐待……、じゃねぇ……。あれは、虐待じゃないんです。兄貴は、悪くない……!」
兄貴……? 跡を残さなかったって……、もしかして、性的虐待!?
「ブロくん……落ち着いて。大丈夫。俺は君も君のお兄さんも、責めたりしない」
「けど……! 俺が」
「悪くないよ。君はなんにも悪くない。いつだってよく働いてくれるし、面倒見もいいし、なにより俺みたいないい加減な奴を、見捨てないでくれてる。俺は、君を責めることなんてできないよ」
ゆっくり、諭すように、目を見て話した。ブロくんの目はまだ揺れていたが、激昂は収まったようだった。
「……辛いなら、話さなくていいよ。でも……、もし吐き出したくなったら、いつでも言って。話、聞くだけならできるから」
また頭に触れようとして手を持ち上げてしまったけれど、俺はその手を引っ込めた。また手を払ってしまって、ブロくんが自分を責めるところは見たくない。
「……忘れて、ください」
「うん、と言いたいところだけど、ちょっと無理かな」
「なんで。こんな胸くそ悪いこと、覚えてたって意味ないでしょう?」
氷みたいな声と目だった。とてつもなく冷たくて、ひどく鋭い。……溶かせるんだろうか。俺に。
分からないけど……、溶かしてあげたい。
「……意味、あるよ。好きな子のことだから」
ブロくんの目が、また大きく揺れる。
「は……? あんた、さっき栗花落さんが……」
「言っただろう? 十二年前に振られたって。もう、そんなに長い時間が経ってるんだ。整理を付けるには、十分な時間が。だから、俺はあいつのことを好きだけど、恋とか愛とかの好きじゃない。……たぶん」
「じゃ、なんだって言うんですか! 恋でも愛でもなきゃ、好きなんて言葉使うんじゃねぇ!」
また、彼の目に強い光が戻ってきた。……嬉しい。
「……うん。でも、俺には、好きって言葉以外に、なんにも出てこないんだ。俺は栗花落光が好き。兄弟みたいに、一緒に育ってきた。小さい頃から、いつもあいつの隣にいた。幼稚園も、小学校も、中学も、高校も、あいつと同じだった。
ずっと、一緒にいるもんだとばかり思ってた。俺が、あの傷つきやすくて自分の殻に閉じこもりがちなつーを、守るつもりだった。この気持ちは、あいつが好きだからに他ならない、だろう?」
なんにも言わず、ブロくんは頷いてくれた。
「けど……、俺はあいつと自分の夢を比べて、自分の夢を取った。あいつを置いて遠くの専門学校に行って、イギリスに行って……、あいつの傍にいてやれなかった。……振られた後だったから、いない方が気が楽だったのも、あるんだろうけど……。でも、ずっと心配してた。また、独りぼっちになってやしないかって。案の定、ずっと独りぼっちだったみたいだけどね」
「……なにが、言いたいんですか?」
おや、昔話はもう聞いてくれないのかな……。ま、いいか。
「結論だけ言うとね。あいつを独りにしたくないけど、俺はもう傍にいられない。あいつのことが大切だけど、あいつを幸せにするのは俺じゃない。そういうこと」
「……訳、分かんねぇ」
「うん。自分でも正直、よく分かってない。でも……、こういう感情も、好きに入るんじゃないかな? 俺は、そう思ってるよ」
そう。そういうことなんだ。俺は、あいつが好きだけど、もうあいつに触れたいとか、あいつの傍にずっといたいとか思わない。けど、あいつが大切で、幸せになって欲しいって、心の底から思えるんだ。
「……それ……、きっと、兄弟みたいだから、ですよ」
「え?」
ブロくんはやっと、笑った。目に涙を溜めたままで。
「兄弟みたい、だから……、恋とか愛とかなしで、栗花落さんのことを好きでいられるんです。……きっと」
「……そう、なの……かな?」
力強く、頷いてくれた。……でも、ブロくんは……。
「俺も、……兄貴には、幸せになって欲しかった。……なに、されても……。あの人は、俺の大好きな、兄貴だったから」
耐えきれなくなった涙が、ぽろりと零れた。……とても、綺麗だった。
「……マスター。それならそれで、栗花落さんに伝えた方がいいと思います」
「うん……。半田くんにも、伝えなきゃね」
言ってから、……少し迷ったけど、そうっとブロくんの涙を拭ってみた。驚いたようだったけど、手は払われなかった。
「……あの、さ」
改めて、俺は真っ直ぐにブロくんと向き合った。
「今、俺が一番幸せにしたいのは、君だよ」
「……マスター。その話は、栗花落さんとちゃんと話して、整理付けてからにしてください」
「……うん。ごめん。でも、今言いたかったんだ」
ブロくんは、少しだけ目を伏せた。
……きっと、受け入れてくれないんだろうな。でも……、もし振られても、俺はできるだけ傍にいたい。そうすることで、彼の苦しみが少しでも癒されるなら、彼の強くて綺麗な目が、ずっと輝いていてくれるなら、振られたってかまわない。そんな、気分だ。
「話聞いてくれて、ありがとう。そろそろ、帰るよ」
椅子から立ち上がろうとしたけど、体がふらふらしてまともに立てない。うーん、やっぱり弱くなったのかなぁ。酒に。
「大丈夫ですか? 大体、酔ってたらチャリ乗れないじゃないですか」
「へ? そうなの?」
「チャリでも、立派な飲酒運転ですよ。せめて少し酔いが冷めるまで待った方がいいです」
う、確かに今自転車に乗っても、真っ直ぐ漕げない自信はある。でも、せっかくいい気分だから、今日はすぐにでも寝ちゃいたいんだけどなぁ。
「なんなら、うちで休みますか? 横にはなれますよ」
「え? いいの?」
「別にいいですよ。あんたをこのまま帰らせる方が恐い」
「でも……、俺、君のこと好きなんだよ?」
ほんの少しだけ悲しそうな目をしてから、ブロくんはいつものように苦笑した。
「けど、あんたは……、俺に手を出さねぇだろ」
「……うん。ありがとう」
信頼されてる、と思うと、なんだかあったかい気持ちになった。こういう感覚は、久し振りだ。
そんなことを思いながら、俺は自分の店を後にした。
最初のコメントを投稿しよう!