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1.十九才 大学二年生 春
いつもと違う道を選んだ。
耳に押し当てたスマートフォンが、スマートとは言えない重さに感じられてくる。
「隼」
母親の声が弱々しく俺の名前を呼ぶ。
だから簡単に電話を切ることが出来ない。
もっと高圧的に、あるいはヒステリックにわめいてくれたなら、うるさいと怒鳴り返すことも出来るのに。
「隼。もう一度頑張ってみて。医学部なら一浪や二浪する人はたくさんいるって。お父さんも言ってたわ。お兄ちゃんたちと同じ大学じゃなくたっていいと思うし」
もう一度も何も、医学部なんか受けたこともない。母親は忘れているのだろうか。
俺は推薦でこの大学に入ったんだよ。お母さん。自分で自己推薦書を書いてさ。
心の中でだけ返答する。
靴底の感触が変わった。
雨上がりに濡れて艶めくえんじ色。レンガ造りの遊歩道に踏み込んでいた。
「隼は今年も二軍なんでしょう?」
母親が遠慮がちに尋ねる。
「今年も二軍なら、サッカーはあきらめなさいってお父さんが」
俺は奥歯を噛む。
髪の中に左手を突っ込んで一度立ち止まり、こらえる。水たまりにスニーカーのつま先が踏み込んでしまっている。
「お母さん」
「隼。あのね、私大の医学部なら、お父さん、ある程度すすめられるところがあるって」
「お母さん」
すすめられるってどういう意味なんだろう。
裏口入学まがいのことを、させるつもりなんだろうか。俺だったらそんなヤブ医者に診察されたくない。
通話を終わらせられないまま再び歩き出す。
中央図書館が見えてくる。
遊歩道と同じレンガのえんじ色。五階建ての堂々とした建物だ。
「お母さん。聞いて」
おそらくこちら側をミュートにしても延々としゃべり続けるだろう母親の言葉をさえぎる。
「大丈夫。上手くいってる。そんなに悪くない。一軍にも声はかけられてる。二軍の方が試合にたくさん出られるから。それだけ」
良いニュースを。なるべく耳障りのいいものを。
そうしなければ今度は母親が父親に叱られる。
もう足を止めたくない。レンガの上を歩き続ける。
足を止めたら、立ち尽くしてしまいそうになる。
大丈夫。上手くいってる。
その言葉を呪いみたいに唱える。
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