プロローグ

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 摩耶が男を連れて来る時間が近づいてきている。心臓が口から飛び出しそうだ。落ち着かず部屋の中を歩き回った。 「あなた、とりあえず座りましょうよ」  優花がコーヒーカップを手にして笑みを浮かべている。 「ああ」とだけ言った。 「コーヒーでも飲んで、少し落ち着いた方がいいんじゃない」  優花はコーヒーカップをテーブルに置いて腰を下ろした。  秀太も優花の前に腰をおろして、壁の時計に視線をやった。約束の時間まで、あと十分。またトイレに行きたくなって、すぐに立ち上がった。これで朝から三回目だ。  トイレから戻って優花を見ると、湯気のあがるコーヒーカップで両手を暖めていた。  こんな時に落ち着いていられるなと、優花に感心しながらコーヒーを口に含んだ。コーヒーの香りも味もわからない。  優花はコーヒーを飲みながらクッキーをかじりはじめた。 「ウワー、これ美味しい」  優花は完全にリラックスモードだ。この余裕は何なんだろう。父親と母親の違いなのか、それとも優花も緊張しているが、芝居をしてそれをごまかしているのか。それなら優花は俳優の才能がある。  秀太も少しは落ち着こうと、コーヒーを一口、二口と続けて飲んだ。そこで玄関のチャイムが鳴った。 「来たみたいね」  優花がコーヒーカップを口につけたまま、上目遣いに秀太に視線を向けた。 「そ、そうだな」  秀太はコーヒーカップをテーブルに置いて、すくっと立ち上がり、「フゥー」と息を吐いた。  優花も立ち上がって胸に手を当て、秀太と同じように「フゥー」と息を吐いた。  やはり、優花も緊張しているようだ。玄関のドアの開く音が聞こえた。 「お父さん、お母さん、ただいまー」  玄関から麻耶の声が聞こえてきた。 「あなた、落ち着いてね」  優花が、そう言って笑みを浮かべながら、コーヒーカップを片付けはじめた。  緊張が沸騰寸前のところまできていた。秀太は自分でも顔がひきつっているのがわかった。秀太は大きく息を吸ってから、玄関へと向かった。 「あなた、ちょっと待って」  優花が後ろから声をかけてきた。立ち止まり、振り返ると優花が秀太に向かってキュッと口角を上げてみせた。 「あなたも笑って」  優花はそう言って、両手の人差し指を秀太の唇の端に当て口角を持ち上げた。  そうだった。お義父さんのように、まずは相手の男性の緊張をほぐしてやらなければならないのだ。  優花に上げてもらった口角をそのまま固定して、笑みを貼りつけた。  麻耶がリビングまでやってきた。 「お父さん、お母さん、南野さん連れてきたよ」  麻耶の顔は紅潮し、声も上ずっていた。さすがに緊張しているようだ。 「ああ」  秀太は貼りつけた笑みを崩さないように、自分の右手の人差し指と中指でもう一度口角を上げた。  摩耶の後をついて、玄関へ向かって歩いて行くと、玄関にがっちりした男のシルエットが見えた。ついにこの時が来てしまった。  優花が先回りして、玄関に立つ男のところへ向かった。 「お父さん、お母さん、紹介します」  麻耶が男の横に立って背筋を伸ばした。 「彼が、今日、お父さんとお母さんに紹介したい南野翔さんです」  摩耶が男の腕に手をまわして男を紹介した。 「はじめまして、南野翔です」  男は深々と頭を下げた。  長い髪の毛を後ろで束ね、四角い顎と彫りの深い顔を見て、気難しい頑固な男に見えた。  秀太の勝手なイメージだが、ミュージシャンという感じがしなかった。どちらかというと、陶芸家といった感じの武骨な感じがした。男が緊張しているせいもあるだろうが、少し取っつきにくい印象を受けた。  麻耶の一目惚れで、ミュージシャンだと聞いていたので、細くてスタイルのいいイケメンが、秀太の頭の中で勝手に出来上がっていた。なので、目の前の男を見た瞬間、秀太は意外に思った。  まあ、外見はこの際どうでもいい。問題は中身だ。麻耶のことを本気で愛して幸せにしてくれる男なのかどうかが一番大事だ。 「よく来てくれたね。とりあえず、中に入ろうか」  秀太はお義父さんのことを思い出しながら、出来るだけ笑みを消さないように優しい口調を心がけた。  優花がこっそりオーケーサインを秀太に送ってきた。秀太は優花に笑みを返した。  居間に入り、少し南野という男と話をした。  ミュージシャンを志した理由や摩耶との出会い、出身地や学校、家族のことなどを話してくれた。  最初は秀太と南野の間には重苦しい空気が流れていたが、その空気は意外と早く晴れた。  南野は見た目の尖った印象とは違い、優しくて心の澄んだ男だということが、秀太にはすぐにわかった。  話しはじめてすぐに、この男なら麻耶を幸せにしてくれると、なぜかそう確信した。  南野と話していると、この男に会うのは初めてではない気がしてきた。どこかでいっしょに何かをした気がする。そして秀太はこの男から助けられている。そんな気がしてならなかった。  もしかすると、前世というものが本当にあって、その前世で、この男に助けてもらったことがあるのかもしれない。  南野に、これまでにどこかで会ったことがないかと訊ねると、南野は、「ええ、いつ、どこでかは、思い出せませんが、お義父様とは、どこかでお会いした気がしてならないんです」  そうこたえた。  この南野という男はすごい力を持っている。音楽の力で人を幸せにしたいと言っているが、この男なら本当にやりそうな気がした。  そして、摩耶を幸せにしてくれる男はこの男しかいないと、秀太はなぜかそう思った。
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