プロローグ

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『緊急会議、協会所属の全神様は出席せよ』  人間の幸福度が下がり続けている緊急事態ということで、緊急会議が開かれるという通知がメールで届いたのは二日前のことだった。  神様協会に所属する全神様が出席となると、その間、神社は空っぽになり参拝に来る人間の願いを聞いてあげることが出来なくなる。  しかし、神様協会の会長の命令は絶対なので、野々神社の神様全員を緊急会議に出席させなければならない。  私は野々神社の責任者として神社を空っぽにしていいものだろうかという気持ちもあったが、その気持ちを押し殺すしかなく、『はい、かしこまりました』とメールを返信した。  緊急会議のことを野々神社に所属する部下たちに伝えると、予想通り三者三様の反応が返ってきた。 「はい、わかりました」  習の神は研修生らしくはつらつとした声で応えた。 「誰か一人は、神社に残るべきですよ。会議に全員参加する必要はないと思います」  北の神は、憮然とした表情を浮かべて、そう言った。人間の幸福度のことを真剣に考える真面目な北の神らしい意見だ。私もそう思ってるよ、と心の中で呟いた。 「後ろの席で居眠りしとけば、いいだけだ。どうせ大した話じゃねえんだし」  南の神は境内に寝転んだまま言った。居眠りして注意だけはされないでくれよと願った。  私は三人のそれぞれの反応に深いため息が出た。  通知の最後には、神様協会に所属する神様たちに、現状の体たらくを理解させ、尻を叩き、そして協会長が決めた新たな対策を発表するための大切な会議だと書いてあった。  会議当日、会議が始まる五分前に大会議室を見渡した。野々神は三人とも出席しているのかが気になった。  北の神は文句を言いながらも習の神といっしょに一番前の席に陣どっていた。  北の神は眉間に皺を寄せ、睨むような視線で、誰もいない壇上をじっと見ていた。  習の神は筆記具をテーブルの上に置き、背筋をピンと伸ばし緊張した面持ちで座っていた。聞く姿勢はばっちりだ。  最後に南の神を探した。どうせ後ろの方の席だろうと視線を走らせていると案の定一番後ろの席に座っていた。腕を組んで背もたれに背中を預け目を閉じていた。  私は、北の神も南の神も問題を起こさないでくれよと祈りながら、大会議室の両サイドに設けられた各神社の責任者の席に腰を下ろした。  最初に壇上に立ったのは、司会進行を務める部長だった。部長は簡単な挨拶を済ませた後、人間の幸福度の専門家として有名だという先生を紹介し、「先生、よろしくお願いいたします」と言ってマイクを専門家に渡した。  白髪で白衣を纏った鶏ガラのような男は「皆さん、こんにちは」とガラガラした聞きづらい声を出した。  室内の照明が少し落とされ、専門家の背後のスクリーンに折れ線グラフのついた画像が映し出された。 「このグラフからもわかるように、このあたりから人間の幸福度がずっと右肩下がりになっております」  専門家がスクリーンに映し出される右肩下がりのグラフの折れ線に指し棒を沿わせながら説明した。 「過去にも戦争や災害で、人間の幸福度が大きく下がることはありました。例えばこことかここですね」  今度は折れ線グラフが大きく窪んだ箇所を指し棒で軽くトントンと叩いて示した。  その後、みんなが理解したか確認するように専門家は眼鏡をずらして会場を見渡した。会場からの反応は、ないに等しいほど薄い。専門家は、口元を歪めてから、ボードの折れ線グラフに視線を戻した。 「しかし、戦争や災害の後、すぐに大幅に幸福度が上がっているのです。ほら、ここです、ここ」  今度は窪んだ箇所の後に折れ線グラフが急上昇している箇所を指し棒で強くトントンと叩いた。 「このように人間の幸福度が下がった要因がはっきりしている場合は、すぐに上がってきますからいいのです。わかりますか」  専門家はまた会場を見渡した。やはり反応は薄い。専門家は首を傾げてから続けた。 「しかし、今の状況は戦争や災害などの大きな要因があって下がっているのではなく、緩やかに止まることなく下がり続けているんです。じわりじわりと真綿で首を絞められるように」  専門家がそこで言葉を切って、自分の首を両手で絞めるポーズをした。そしてまた会場を見渡し薄気味悪く笑って見せた。  それでも会場から何の反応もなかった。専門家は、会場の反応を期待するように、しばらく両手で首を絞めたポーズのまま、おどけた表情を見せたが、結局、最後はあきらめて話に戻った。 「私の知る限りでは、このような下がり方をしたことは世界中どこを探しても過去に前例はありません。この傾向は大変危険だと言わざるを得ません」  その後も専門家は過去の事例や世界の事例の説明を延々と続けた。結局、具体的な対策は専門家の口からは出てこなかった。危険だ、過去に前例がない、を繰り返すばかりだった。  専門家は話を終えて、壇上からゆっくりと数段しかない階段を降りていった。ヨボヨボと足元がふらついている姿のせいで、さっきまでの話の説得力が一段と欠けてしまった。会場内にどんよりとした重い空気だけが流れた。  北の神を見ると、腕を組んで首を傾げていた。表情は険しい。隣の習の神は、下を向いたまま必死でノートにペンを走らせていた。後ろに座っている南の神は机にうっぷせていた。 「俺たちにどうしろって言うんだよな」  会場のあちらこちらからそんな小声が聞こえてきた。  協会長の顔を覗き見ると、会場を睨むように見ていた。北の神、もう少しやわらかい表情をしろ、南の神、顔を上げろ。野々神は心のなかで呟いた。  専門家が壇上を下り、代わって部長が勢いよく壇上へ上がった。  部長が会場を見渡して口角を上げた。ザワザワしていた会場が静まった。それを確認してから、部長は口を開いた。 「皆さん、大変厳しい状況ですが、下を向かず、全員、前を向いて、この危機を乗り越えましょう」  部長が空気を変えようと溌剌した声を上げたが、会場からは、それに応えるような声はあがらず、静まり返ったままだった。  部長は苦笑いを浮かべながら静まり返った会場を見渡してから続けた。 「皆さん、そんなに暗くなることはありません。ピンチはチャンスです。この後、協会長から、このピンチを乗りきる今後の具体的な対策について、有難いお話がございます。今の苦難の時期を乗り越えるために協会長が、寝る間も惜しんで、皆さんのことを一番に考え、練りに練った対策です。心して聞いてください」  部長は、そう言ってから笑みを浮かべ協会長に視線を向けた。 「では、協会長よろしくお願いいたします」  部長は協会長の座席に体を向けて力強い拍手をした。  協会長が席を立ち壇上へ向かうと、会場からもチラホラと中途半端な拍手が起こった。私もそれに混じって中途半端な拍手をした。  協会長が壇上に上がったところで、部長は深々と頭を下げた。協会長が部長に不機嫌そうな視線を向けた後、会場を睥睨した。  会場の空気がピンと張りつめた。そこで、協会長は会場に向けて満面の笑みを浮かべた。 「皆さん、お忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。皆さんの日頃の努力に感謝しております」  そう言って慇懃に頭を下げた。会場に集まった神様たちは、泡が割れるように、ポツ、ポツと頭を下げていった。 「皆さんが本当に頑張ってくれていることは、よくわかっています」  協会長はそう言って会場を見渡した。会場の反応の無さに不服そうな表情を浮かべ、ひとつ咳払いをしてから続けた。 「しかし、先程の専門家の話でもわかるように、今の人間の幸福度の下がり方は大変厳しい状況にあります」  協会長は、さっきの専門家が説明してくれていたグラフに視線を向けていた。 「このままでは、われわれ、神様協会が崩壊してしまうかもしれません。そうならないために、皆さんには人間の幸福度を大幅に上げてもらうよう、より一層努力してもらわなければいけないのです。しかし、そう悠長なことも言ってられないのが現状です。そこで、私はある対策を考えました」  協会長はそこで言葉を切り、演台に置いてあるコップの水を口に含んだ。 「私の考えた対策、それは早急に人間の幸福度の吸い上げの割合を五十パーセントから七十パーセントに上げるということです。これについては、すでに協会本部の方で準備にとりかかっています」  静まり返っていた会場内が、にわかにざわつきはじめた。  私も驚いた。人間の幸福度をこれまで以上に吸い上げるのは無謀だと思った。たぶん会場のみんながそう思ったのだろう。しかし、そんなことは、絶対誰も口には出せない。  会場のざわつきに、協会長は剣呑な視線を向けて、わざとらしく激しい咳払いをした。それと同時にざわつきが、波が引くようにスーッと引いた。  会場が静まりかえった時、一番前に座る神様が手を上げてから「すいません」と言って立ち上がった。  協会長がその神様を見て、怪訝な表情を浮かべた。  私は手を上げて立ち上がった神様の方へ視線を向け、その神様を見た瞬間、心臓が飛び出しそうになった。 「今は質問の時間ではございません。ご着席ください」  部長は慌てて言ったが、その神様はそれを無視した。 「せっかく上がった人間の幸福度から、いきなり七十パーセントも吸い上げてしまうのは、吸い上げ過ぎだと思うのです。確かに神様協会は厳しい状況かもしれませんが対策が乱暴すぎます」  嘘だろ。協会長に向かって何を言い出すんだ。北の神、それは後で直属の上司である私に相談してくれればいいことだ。飛び出していって北の神の口をおさえたい心境だが、体がガタガタ震えて動けなくなった。  北の神の意見に同調する「そうだ、そうだ」という声が会場内のあちこちから飛んだ。みんなやめろ、北の神もやめてくれ。私は冷や汗がダラダラと出た。  協会長は顔を真っ赤にし演台を思い切り叩いた。バーンという音が室内に響き渡り、演台に置いてあるコップと花瓶が倒れた。演台から水がしたたり落ちる。会場内は静まり返った。 「人間の幸福度が君たちがのんびりしていたおかげで三割も落としているんだぞ。協会を維持するためには、七十パーセント吸い上げるしかないんだ。それでも、協会を維持するにはギリギリなんだ。これ以上、君たちが人間の幸福度を落とし続けると、吸い上げは七十パーセントどころではなくなるんだ。もっと上げないといけなくなるんだぞ。文句いう暇があるなら、人間の幸福度を上げる対策をしっかり考えろ」  協会長が北の神を睨み怒鳴るように言った。  しかし、北の神は全く怯むことはなかった。 「せっかく上がった人間の幸福度を七十パーセントも吸い上げてしまうと、その後の人間の幸福度が下がりやすくなります。人間の幸福度は一旦下がりだすと、堰を切ったようにドンドンと下がりだすこともあります。そうなってから人間の幸福度を上げるのは大変難しいんです。われわれ現場の意見としては、人間から吸い上げる幸福度を急激に増やさないでほしいということです。七十パーセントに上げるより反対に三十パーセントに下げてほしいくらいです」  立ち上がったまま、北の神が意見を続けた。  北の神、もうやめてくれ。後で協会長から大目玉をくらうのは上司の私なんだよ。私は祈るように手を合わせた。 「そんな現場のわがままを聞いていたら、神様協会は崩壊してしまう。そうならないために、五十年以内には、七十パーセントにするしかない。わしも苦渋の決断だ。それくらい理解しろ」  協会長の怒りはすでに頂点に達している。真っ赤な顔をして目は血走っていた。 「そんなことより人間の幸福度を上げる政策は考えないのですか」  北の神はまだ食い下がる。 「そんなこと、だと」  協会長は怒鳴った。 「はい。人間の幸福度を上げる政策が必要です」 「フン」協会長は鼻を鳴らし続けた。 「人間の幸福度を上げる政策は君たち現場の下僕たちが考えることだ」 「それなら現場の神様を増員してもらえないでしょうか。現在、現場を担当する神様は全部で五百人です。百年前に比べると現場の神様は二百人も減っています。反対に協会本部は、百人だったのが倍になり二百人に増えています。現場を担当する神様の数が減っているため人間の幸福度が下がっていることも考えられます。現場を担当する神様を六百人にして、本部を百人にしていただけないでしょうか。それで、もうしばらく幸福度の吸い上げは、五十パーセントのままにしておいていただきたいです。それから人間から吸い上げた幸福度の配分ですが、私たち現場への配分を増やしていただきたいです。現在、配分が不透明なのも納得いきません。たぶんですけど、本部の配分の方が多くて現場が少ないと感じます。現場の神様に神の力を与えないと、人間の幸福度も上げられません。神様の数から考えても現場の方が多くて当たり前ではありませんか。本部と現場の配分は考え直していただきたいです」  北の神がいつも愚痴っていることだが、それをこの場で言うことはないんだ。 「それについては、後日検討する」  協会長は話を終わらせようと、視線を下に落とした。 「後日というのは、いつごろでしょうか」  北の神、もうやめてくれ。協会長にたてをつくと、お前の身が危うくなるんだぞ。 「今聞いてすぐには答えられるわけない」  協会長のこめかみがピクピクと音を立てている。北の神、もうダメだ。限界だぞ。 「以前から問題になっていたことですよね。これまでに検討することはなかったのでしょうか。現場の神様は幸福度を神の力に変えて、人間に還元していますが、一体協会本部では、吸い上げた幸福度を何に使ってしまっているのでしょうか。そこもまったく見えてきません。不透明すぎます」 「それぞれの立場や生産性も考慮して検討してるんだ」 「検討した内容をもっと具体的に示していただけますか? そして今後の幸福度の分配について、早急に決めてください」 「専門家の意見も聞かないといけないし、まだまだ結論なんて出せるわけがない」 「悠長なこと言ってられないんでしたよね」 「君、いい加減にしなさい。誰に向かって、そんな口を叩いてるんだ。自分を何様だと思ってる。今この場でこれ以上は口を開くな」  協会長は、北の神に向けて人差し指を突きだし、ハ虫類を思わせるような目で睨みつけた。協会長の体が怒りのせいで震えている。会場内の空気が凍りついていた。  協会長は次に部長に視線を向けた。「部長、なんでこんなことになる。しっかり進行しろ」 「は、は、はい、司会進行がまずくて申し訳ございません」  かたまってしまっていた部長は壇上に上がり、深々と頭を下げた。 「こ、この場は、皆さんの意見や質問を聞く場ではございません。これ以上のご意見や質問はご遠慮願います」  部長の声は最初のはつらつとした声とは違いかすれていた。 「部長のいう通りだ。君たちはこの場で偉そうなことを言える立場ではない。君たちの怠慢のせいでこうなってしまってるのだ。もし意見や質問がある場合は各神社の上司を通すようにしてくれ。この場で君たちのわがままを聞くのは時間のムダだ」  協会長は意見した北の神を一瞥した。部長が頭を下げて、締めに入った。 「予定の時間が過ぎていますので、これで終わらせていただきます。まずは幸福度の吸い上げ率七十パーセントに向けて、協会本部は準備をすすめておりますので、決まり次第ご報告いたします。よろしくお願いします。以上で閉会いたします。お疲れ様でした」  部長は一気に捲し立てた。 「吸い上げ七十パーセントは断固反対です。多数決で決めてください」  北の神がまだ食い下がる。 「いい加減にしろ」  協会長が演壇をバーンと叩いた。 「部長、しっかり進行しないか」  また会場内が凍りついた。 「も、申し訳ございません。それでは、現場の皆さん、人間の幸福度を上げるために頑張ってください。以上で閉会いたします。各神社の長には、この後、幸福度の吸い上げ七十パーセントに向けてのスケジュールについてご説明いたします。各神社の長だけは残っておいてください」  部長は顔をひきつらせてそう言った。  協会長は壇上を足早に下りて、そのまま奥へと消えていった。続いて協会幹部たちも席を立ち奥へと消えていった。会場内には現場の神様たちのブーイングが飛び交った。それを両サイドに陣取る各神社の長たちが必死でなだめるが、静まりそうになかった。  司会の部長が壇上に上がり満面の笑みを会場に向けた。 「皆様、お疲れさまでした。これで解散します。各神社の長の方は三十分後に隣の第二会議室にお集まりください。それ以外の方は、くれぐれもお気をつけてお帰りください」  私は体中のありとあらゆるところから汗が吹き出て、びしょびしょになっていた。この後の各神社の長だけの会議は針のむしろになるだろう。 「各神社の長は全員揃ったのか」  協会長が座ったまま剣呑な目を前に座る各神社の長たちに向けて言った。  私はこの場から逃げ出したい気分でいた。北の神が集会の場で反抗的な意見を述べたので、協会長はすこぶる機嫌が悪い。きっと、北の神の上司である私は怒られるだろう。 「はい、全員揃っております」  部長の声は上滑りしていた。 「今日の集会、あれはなんだ?」 「私の司会進行がまずくて、大変申し訳ございませんでした」  部長が深々と頭を下げた。 「君の進行もまずかったが、それより、こっちが大事な話をしてる時に、現場のヒラの神様が何故あんな生意気なことを言うんだ。どんな教育をしてきたんだ」  協会長の声を聞く度に私の体は縮んだ。 「申し訳ございません。本人にはこのあと厳重に注意しておきます」 「なぜ、あの場ですぐに追い出さなかった。わしの話を聞きたがっていた他の神様に迷惑だろ」 「配慮が足りませんでした」 「あの生意気な若造は、どこの神社だ?」  ついにきた。私は、顔を上げられず体を沈めた。 会場は静まり返っている。 「おい、どこの神社だ。その神社の長はどいつだ」  私が手を上げなければならない。それはわかっている。わかっていても手を上げる勇気がない。  まず、恐る恐る顔を上げて、協会長の顔色を窺った。真っ赤な顔をして鬼のようだった。当たり前だが完全に怒っている。 「あの発言をした神様の所属する神社の長の方は挙手してもらえますか」  部長が手を上げながら会場を見渡していた。誰も手を上げない。当たり前だ。私が上げなければならないのだから。 「あの生意気な若造は、どこの神社の所属だと訊いてるんだ。そこの長はさっさと手を上げろ」  協会長の怒鳴り声が、俯く私の頭の上を通り過ぎていった。  部長が、ハァーとため息をついた。 「早く挙手してもらえますか」 「調べればわかることだぞ。あいつは、どこの神社の所属だ。そこの長はすぐに手を上げろ。早くしろ。時間の無駄だ」  どうせわかることだ。私は顔を上げ勇気を持って、ゆっくりと肘を曲げたまま少しだけ右手を上げた。 「そこー、しっかり手を上げろー」  協会長の声が私に向かって飛んできた。目が合った瞬間に体が縮みあがった。 「は、は、はい」  声を絞り出してゆっくり肘を伸ばし、手を頭の上まで上げた。 「お前のとこか」  一段と激しくなった怒声が飛んできた。 「は、は、はい。そ、そうです」  真っ赤な鬼のような顔が大きく膨らんだ。 「すぐな立てー」 「は、はい」  立ち上がった瞬間に椅子がバタンと倒れた。 「お前はどこの神社だ?」 「は、はい、の、の、野々神社です」 「なに、ののののだと」 「い、いえ、の、の、神社です」  しっかりと言葉が出ない。 「野々か」 「は、はい。の、の、です」 「野々か。あそこはわしの嫌いな地区だ。で、あの若いのは、野々のどの地区を担当してるんだ?」 「き、き、きた地区を、た、たんとう、し、しております」 「なに言ってるかよくわからんな」 「あの若い神様は野々神社の北地区を担当しているようです」  部長が協会長に向かって言った。 「野々神社の北地区担当か、よーし、わかった」  協会長はそう言って、私を一瞥して、部長の方に顔を向けた。 「野々神社の北地区の成績はどうなんだ。すぐに調べろ。成績が悪ければ、あいつをすぐに協会から放り出せ」 「い、いきなり放り出すんですか?」  部長が目を大きく見開いた。 「わしに質問するな。お前も放り出されたいのか。さっさと言われたことをやれ」 「は、はい。そ、早急に」  部長は頭を下げて、立ったまま手元にあるパソコンのキーボードを叩きはじめた。  北の神を放り出すなんて無茶苦茶だ。しかし、北の神は完全に協会長を怒らせてしまった。協会長は本気かもしれない。私にはどうすることもできない。できることは神様にお祈りするくらいだ。  北の神の成績は優秀だ。北の神の成績を見れば協会長の怒りも収まるかもしれない。そうあってくれと部長が慣れない手つきでパソコンのキーボードを叩く姿を祈るようにして見た。 「まだ出ないのか」  協会長が私を睨んだまま部長に向かって言った。 「も、もうしばらくお待ちください。あれー」  部長は髪の毛をかきむしった。 「さっさとしろー」 「あっ、はい」 「とろい奴は、必要ない」 「は、はい。で、出ました」 「奴の成績はどうだ?」 「野々神社の北地区の成績ですが……」  部長がパソコンの画面に顔を近づけた。そして右手で右目をこすりながら見た。 「早く言え」 「え、えっと、ですね。それがですね。す、すごいんです」 「何がすごいんだ?」 「優秀です。びっくりしました」 「ふん、優秀だと?」 「は、はい。野々神社の北地区の人間の幸福度は常に九十以上はあります」 「なに?」 「こ、これです」  部長がパソコンを持ち上げ、協会長に画面を向けた。  協会長が訝しげにパソコンを覗きこんだ。 「こちらです」  部長はパソコンの画面を協会長の方に向けた。  協会長がしばらくパソコンの画面を見ていた。 「ほぉー、なかなかたいしたもんだな。これはびっくりだ」  協会長がそう言ってから、ちらりと私の方を見た。 「はい、これは凄いです」  部長も私の方を見た。  これで北の神は大丈夫かもしれないと思った。 「おい、野々神、あいつはこんなに成績が優秀なのか? 勤務態度とかはどうなんだ?」 「あ、あ、はい。こ、この度は申し訳ございませんでした」  私は腰を二つに折った。 「詫びはいい。今日の件は、お前も後で処分してやるからな。それよりあいつの成績と勤務態度がどうかを訊いているんだ。それをさっさと答えろ」 「あ、はい、き、北の神の成績は確かに優秀でございます。勤務態度もこれまでに問題を起こすようなことはなかったのですが、今回はどうしたことなのか、私も戸惑っております」 「成績優秀なのは確かなようだな。しかし、それとこれとは別だ。わしに対して反抗的な態度をとったことは絶対に許さない」 「は、はい、ごもっともです」 「協会から放り出してやってもいいのだが、これだけの実力があると、フリーで活躍する可能性もある。そうなると協会としては困るよな」  協会長は隣の部長に同意を求めるように言った。 「確かにそうですね。常に九十以上はすごい数字です。九十も出せる実力ならフリーになっても活躍する可能性は十分にあります」 「協会が追放した神様がフリーで活躍したとなると、協会の面子も丸潰れだしな」 「しかし、全協会員の前で協会長に批判的な発言をしたわけですから、それなりの処分をしないと、これもまた、協会の面子に関わります」 「そうだな、じゃあ、後でゆっくり決めるか」  協会長が右の口角だけを上げた。 「それでは、処分については、後日ということでよろしいですか」 「そうだな、それまでは謹慎させておけ」 「野々神、彼の処分については、後日また連絡します。それまでは彼を謹慎させておいてください」 「はい、申し訳ございません」  私は深く深く頭を下げた。この後、北の神にどんな処分が下されるのか。それも気にはなるが、私自身もそれなりの処分を受けなければならないだろう。そう思うと鉛を飲み込んだような気分になった。 「人間界に行ってもらうことにした」  協会長に呼び出されたのは、緊急会議の五日後のことだった。  協会長に意見をするなんて前代未聞のことで、集会での北の神の発言は、やはり大きな問題になっていた。  私は、北の神の処分がそれなりに重くなるだろうと予想はしていたが、その予想をはるかに超える重い処分だった。  人間界に行くということは、処分の中でも一番重い処分だ。  通常は協会での活動停止が一般的な処分で、処分の重さは活動停止期間の長さに比例する。一番重い場合は永久追放ということになる。  永久追放されてしまうと、協会に属さないフリーの神様になってしまい、そうなったほとんどの神様がそこで路頭に迷い浮浪の神になるか疫病神に転身してしまう。  人間になるというのはそれよりも重い処分になる。協会長は北の神が優秀な神様だと知り、フリーになって活躍されることを恐れたのだろう。処分した神様がフリーで活躍されると協会の面子が丸潰れになってしまうからだ。  そこで、協会長は北の神を人間界に送ることに決めたようだ。人間になるということは神様だった時の記憶や神の力を全て失ってしまうので神様としての死を意味する。人間界の死刑と同等の処分と言っていい。 「に、人間にしてしまうのですか」  私は、あまりにも重い処分にショックで目の前が真っ暗になった。 「フフン、ショックのようだな」  協会長は右の口角だけを上げて笑った。 「あ、は、はい。北の神は優秀なやつです。何とか助けてもらえないでしょうか。お願いいたします」  私はふらつく体を二つに折り、深々と頭を下げた。 「あいつを助けたいのか?」 「お願いします」  頭を下げると、涙が床に落ちた。 「わしに歯向かうとこういうことになるんだ」 「は、は、はい」  頭を下げたまま、声は上ずってしまう。 「さすがに辛そうだな」 「は、は、はい」 「誰かのそういう困った姿を見ると、わしは嬉しくなる。ハハハ」 「本当に申し訳ございませんでした。なんとかお許しいただけませんか」  私は土下座し床に額をこすりつけた。 「フン」 「お願いいたします」  協会長の顔を見上げて懇願した。 「わかった。君がそこまで言うなら処分は少し軽くしてやろう」  協会長は私を見下ろして言った。 「ほ、本当ですか」  協会長は勝ち誇ったように笑みを浮かべていた。 「ああ、処分は軽くしてやる」 「ありがとうございます」  もう一度、床に額をこすりつけた。 「あいつは優秀なようだし、神様に戻れるチャンスは残してやろう。しばらく人間界で自粛してもらうという形にする。だから人間になっても神様としての記憶や神の力は残しておいてやろう」 「北の神は神様に戻れるわけですか」 「ああ、あいつが人間界で過ごして、心を改めるようであれば、すぐに神様に戻してやる。ただし、自分が神様であったことを絶対に人間に漏らしてはならない。そして、人間界で過ごす間は神の力を使うことも絶対に許さない。もし、それを破った場合は、その時点で神様の記憶も神の力も失うことになる。神様としては死んでもらう」  めずらしいケース、いや、こんな処分は、これまで聞いたことがない。  きっと、協会長は北の神の実力を認めているのだろう。だから人間界で過ごしている間に改心すれば協会にとって大きな戦力になると考えたのだ。協会長は将来的に、優秀な北の神を自分の手足として使うつもりだ。 「わ、わかりました。神様に戻るチャンスはあるわけですね。ありがとうございます。処分は人間界で修業すると伝えておきます。期間はどれくらいになるでしょうか」 「まだ決めてはいないが、長くても人間の寿命は百年くらいだろう。人間の寿命を全うするまでだ。もし、あいつが改心したとわかれば、もっと早くしてやる。そうだな. 十年や二十年でも神様に戻してやってもいいな。但し、改心しなければ人間の寿命を全うしても神様に戻すつもりはない。その場合は人間として死んだ時点で神様としても死んでもらう。そこがタイムリミットだ。それまでに改心してもらいたいものだな」
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