プロローグ

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 目を覚ますと男の切れ長な目があった。彼は俺の顔をじっと見つめている。彼の瞳はユラユラと潤み、光に照らされキラキラと輝いていた。  長い時間、ずっとその状態が続いた。そのうち彼の潤んだ瞳から涙が零れ、俺の顔に落ちてくるんではないかと冷や冷やした。  男の口角は思いっきり上がり、幸福度絶頂といった様子だった。 「秀太、大きくなったらいっしょにキャッチボールでもしような」  男は俺のもみじのような小さな手を強く握ってきた。温かくて大きな手だ。  体を自由に動かすことが出来ない俺は、一日中男に頬ずりをされたり手を握られたりと、されるがままだった。  俺はついこの間まで野々神社に所属する北の神という神様だった。神様協会の緊急会議の場で意見を述べたことが神様協会の協会長の逆鱗に触れ、人間にされてしまった。  俺は人間界で、北野家の長男の秀太として生まれ、今病院のベビーベッドに横たわっている。  俺のことをずっと覗きこんでいるこの男が、俺が人間界で過ごす間の父親で、名前を北野俊介という。そして、俺の隣のベッドで横になってるのが、母親の北野みどりだ。  神様が処分をうけ人間にされてしまう場合、本来は神様の記憶を全て消されてしまうそうだが、俺の場合は、その記憶を消されることなく残してもらえた。  緊急会議の場で、自分の考えを発言しただけで、処分され人間にされてしまったことに憤りを感じるが、神様の頃の記憶と神の力を残してくれ、神様に戻るチャンスを与えてくれたことには感謝しなければならない。  だから、気持ちを切り替えて、神様に戻った時に役立つよう、これから人間界でしっかり修業するつもりでいる。  今日は多くの人間が秀太の誕生のお祝いにかけつけてくれた。 「お祝いに来てくれてありがとうございます」  俊介は感謝の言葉を口にし、幸せな気持ちを分け与えるかのように、来る人来る人の手を強く握りしめていた。  ベッドで横になっているみどりに対しては、「お疲れさま。本当にありがとう」と今日だけでこの言葉を十回以上口にしていた。 「お疲れ様。本当にありがとう」  俊介が俺の顔を覗きこむのをやめて、みどりの方に振り向き、またその言葉を口にした。  フフフとみどりの笑う声が聞こえた。  俊介はみどりが横になるベッドに体を向けて、みどりの右手を両手で優しく包むように握った。 「今日はぼくにとって人生最良の日だよ」  俊介の声は涙声になっていた。 「結婚式の時も、今日が人生最良の日だって言ってなかったっけ。あなたにとって、どっちが本当の最良の日なのかな」  みどりはクスクス笑いながら言った。 「そうだった。結婚式も最良の日だったなー、けど、うーん、今日も最良の日なんだ。甲乙つけられないよ」 「あなたには人生最良の日がいくつもあるのね」 「うん、これからもみどりとこの子と一緒に過ごせば、きっとぼくにとっての最良の日がいっぱいできると思う」 「あなたはいいわね、最良の日が次から次からいっぱいできて」 「うん、だからぼくは、これから先、君やこの子に次から次へと最良の日をいっぱいプレゼントする。絶対に約束するよ」 「じゃあ、期待してるわ」  みどりはそう言って、ニコニコしたまま俺の方を見た。  俺が生まれただけで、両親の幸福度がドンドンと上がっていくのがわかった。神様の頃に赤ん坊の力は凄いと思っていたが、ここまでとは思わなかった。  神様の頃に、何度も目にしたお宮参りの家族の様子が頭に浮かんだ。赤ん坊を囲んだ人たちはみんな満面の笑みを浮かべ幸せそうだった。  今日、病院に訪れたたくさんの人たちも俺が横たわるベビーベッドを覗きこみ、俺の顔を見るなり顔がパッと晴れやかになり、幸福度を一気に上げていた。  俺は生まれてから両親からの変わらぬ愛情を受けてスクスクと育った。人間がよく口にする『平凡だけど幸せな人生』とはこういうことなのだと実感した。  ところが、俺が小学校三年生の時に北野家にとって、はじめての苦難が訪れた。  幸せで明るい家族がたったひとつの出来事で一気に暗転する。自分たちがなにか悪いことをしたわけでもないのに、昨日まで太陽に照らされたような明るい家族がそのことだけで暗闇に立つことになる。これが人間界の恐ろしさだと知った。  いつも元気で、病気とは無縁だったみどりが乳癌になってしまったのだ。  それを告げられた俊介はすごくショックを受けていた。 「もしものことがあったら、ぼくはもう生きていけない。みどりのいない人生なんて考えられない」と頭を抱えて涙を流していた。 「きっと治るから大丈夫、心配しないで」とみどりの方が気丈に振る舞い俊介を励ましていた。  神様の頃に、重い病にかかった人間が苦しむ姿をたくさん見てきた。患者本人だけでなく家族も辛い思いをし、悲痛な表情で神社に手を合わせに来ていた人間を数多く見てきた。  神様の頃、そんな人間を助けてあげたかったが、思い通りにならないジレンマがあった。俺たち神様は人間が思っているほど万能ではない。俺たちの持つ神の力では苦しむ人間を救うことは出来なかった。  みどりが乳癌だと聞いて、人間が家族のために神社にお参りし、神様にすがる気持ちが痛いほどわかった。しかし、神様の頃の俺はどうすることもできなかった。  俺は絶対にお母さんを助けたかった。このまま神様にもどれなくてもいい。協会長との約束を破り、自分の持つ神の力をすべて使い切ってでも、お母さんの命を救うことを考えた。  それがこれまで自分に愛情を注いでくれたお父さんとお母さん二人への恩返しかもしれないと思った。 「お母さんは早期に癌が見つかってる。しっかり治療すれば完治するから心配しなくても大丈夫だよ」  みとりの担当医の吉岡先生が、泣きそうになっていた俺の前に屈み、視線を合わせ笑みをくれた。  吉岡先生の眼鏡の奥で光る瞳は、小さいけれど強く輝いていた。この人に任せれば大丈夫だと思った。 「はい、よろしくお願いします。お母さんを治してください」  俺は泣くのを堪えて笑みを浮かべて頭を下げた。 「ああ、約束する」  吉岡先生が俺の頭を撫でて、そう言ってから右手小指を突き出した。  俺も右手小指を出して、吉岡先生と指切りをした。お母さんが本当に治るかはわからないが、本当に神様といえるのは、この吉岡先生のような人だろう。  隣に立っていた俊介は目を真っ赤にして、右手で目頭を押さえていた。 「先生、本当に、本当に、よろしくお願いいたします」  俊介は、そう言って吉岡先生の右手を両手で強く握りしめ何度も頭を下げた。  自分が神の力を使わなくてもこの吉岡先生に任せれば大丈夫な気がした。この吉岡先生に託してみよう。  もし、それでダメなら自分の神の力で、出来るだけのことをやってみようと決めた。  その後、みどりの手術は成功し、吉岡先生のおかげで、俺の神の力を使うことなく、みどりは順調に回復した。やはり吉岡先生が、俺たち家族にとっての神様だった。  吉岡先生と出会ったことで、俺は神様に戻る前に医者になって多くの人間の命を救いたいと思うようになった。  そうだ、神様でなくても、人間を幸せにすることができる。いや、神様より人間の方が人間を幸せにできるのかもしれない。  人間でいる間に、人間の力だけで人間を幸せにする経験をしておくのもいいなと思った。 「お母さん、俺、お母さんを治してくれた、吉岡先生みたいなお医者さんになって、たくさんの人の命を救いたいんだ」  みどりが退院してから、俺がそう言うと、みどりは嬉しそうににっこりと笑った。 「じゃあ、今からしっかり勉強しないとね」  それからの俺は医者になるために猛勉強を始めた。そして、必死で勉強した甲斐もあり、大学の医学部に入り卒業し医者になることができた。  大学病院で働き始めた俺には、尊敬する先輩がいた。五年先輩の沢田美智香という、瞳の綺麗な美しい女性だ。  沢田は病と闘う患者やその家族に寄り添い、患者に親身になっているのが、そばにいて伝わってきた。この人もみどりの病を治してくれた吉岡先生と同じで、神様みたいな人だと思った。  俺は医者という仕事に憧れて志し、医者になることができたが、厳しい仕事でもあった。精神的にも肉体的にもキツイ仕事で逃げ出したくなることもあった。そんな時に沢田の頑張っている姿を見ると俺は初心に戻ることができた。そして彼女の顔を見ると胸がときめいた。  沢田は、俺にとって特別な存在だった。それは俺が彼女を女性として意識してしまっていることもあるのだが、それ以上に彼女との間に深い縁を感じていた。  それは沢田に会うのは今回が初めてではなかったからだ。俺が神様の頃に彼女に会っていた。それがわかったのは沢田の子供の頃の話を聞いたからだった。 「北野くんは、なぜ医者になろうと思ったの」  沢田に訊かれたのは、彼女と一緒に働くようになって二ヶ月くらい経った頃だった。  その時、母親の乳癌の時の担当医の吉岡先生に憧れ、自分も患者やその家族に寄り添う医者になりたいと思い医者を志しましたと答えた。 「沢田先生は、どうして医者を目指したんですか?」  彼女には自分よりも強い志を感じたので俺は興味があった。 「わたし?」  沢田が自分の鼻に細く長い人差し指を向け口角を上げた。 「はい、沢田先生の仕事への情熱がすごいので、気になります」 「そんなにすごくないけどね」 「いえ、すごいです。沢田先生を見ていると、俺、すごく胸が熱くなります」  そう言った後、心臓がバクバクし体が熱くなった。 「北野くんにそう言ってもらえると嬉しいな」 「そ、そうですか」  嬉しいなんて言ってもらえて、胸がはち切れそうになった。 「わたしが医者を目指したのも北野くんと少し似てるかな」 「俺と似てるんですか」 「そう。北野くんとほぼ同じ」  沢田はそう言ってから立ち上がり窓の前に立った。それから外の景色を眺めていた。俺も立ち上がり彼女の後ろに立ち、そこから窓の外に視線をやった。ビルの上に明るく光る三日月が見えた。  沢田はしばらく窓の外の景色を眺めていた。俺はすらりとした後ろ姿を見て鼓動が早くなった。  一歩だけ彼女に近づいてみた。彼女はまだ窓の外を見ている。沈黙が続く。もう一歩近づいた。手を伸ばせば彼女の細い肩に手が届く距離だ。  俺は勇気を出して彼女の肩に手をのせようとした。その瞬間に彼女がこっちに振り向いた。俺は慌てて上げかけた手を下ろした。 「わたしの母も乳がんだったの」  沢田が俺の目をじっと見て言った。その目は潤んでいた。沢田は昔のことを思い出し、外の景色を見ながら涙を堪えていたんだ。なのに、俺はなにを勘違いしているんだ。 「えっ、沢田先生のお母さんも、ですか?」  俺は気を取り直して訊いた。 「そう、二十五年も前で、わたしはまだ幼かった頃なんだけどね。母は、今のわたしより若かったのに助からなかったわ」  沢田は唇を噛みしめていた。 「そうだったんですか。助からなかったんですか」 「そう、助からなかった」  沢田の潤んだ目から涙がこぼれ頬を伝った。 「嫌なことを思い出させてしまって申し訳ありません」  頭を下げて、この話は終わらせようと思った。 「気にしないで、遠い昔のことだから大丈夫よ。それに、正直に言うと、わたしには母の記憶はあまりないの。母が死んだ時、悲しかったのは、確かだけど」  彼女はそこで言葉を詰まらせた。顔を上げ天井を見つめ、唇を噛みしめていた。  やはり、この話は早く終わらせるべきだと思っていたら、沢田が続けて話しはじめた。 「母が亡くなって、わたしより父の方が大変だったと思う。わたしは幼かったから、あまり記憶にないけど、きっと、悲しくて、寂しくて、辛かったんだと思う。それなのに男手一つでわたしを育ててくれた」 「そうですか」 「それでね、父みたいに辛い思いをする人を少しでも減らしたくて、できるだけたくさんの患者さんを病から救いたいと思ったの。それができるのは、やっぱり医療に携わるしかないでしょ」 「そうですね、俺もそう思いました」 「実はね、二十五年前の母の手術の日に父に連れられて、家の近くにある野々神社という小さな神社にお願いに行ったの。おかあさんが助かりますようにってね。父といっしょに必死でお願いしたのを今でも覚えてる。その帰り道、わたしは神様にお願いしたから母は助かるものだと信じてた。父に向かって、これでおかあさん助かるねって言って、笑ってたと思う。でもね、ダメだった。神様なんてインチキなんだと幼心に思った。だから、自分が医者になって少しでも多くの命を救うと決めたの」  俺が野々神社にいた頃だと、記憶の扉を開けた。そういえば父親と幼い女の子がお願いにきたことを思い出した。  習の神が何とかしてあげたいと言っていたのに、その時、俺は無理だと言ったことを苦々しく思い出した。 「すいませんでした」  つい、頭を下げてしまった。 「なんで、北野くんが謝るのよ」  沢田先生は首を傾げて笑った。 「いや、そんな苦労してたんだと思うとなんか申し訳なくて」 「苦労したのはわたしより父よ」 「沢田さんのお父さんは、今もお元気なんですか」 「おかげさまで父は元気よ。これからもずっと元気でいてほしい。わたしを育てるのに大変だっただろうから、これからは父にも恩返しがしたい。再婚すればよかったのにと思ったけど、父はそんな気はなかったみたい。今も一人で暮らしてるわ」  俺はこの時、神様に戻ってからやらなければいけないことがたくさんあると思った。  神の力は万能ではないが、もっと人間を幸せにできる力があるはずだ。そのためには、やっぱり神様協会を変えなければならない。  沢田への俺の想いは片想いで終わったが、それから優香という女性と知り合い結婚した。優香のお腹に子供ができた時は、俺も俊介もみどりも優香も優香の父親も母親もみんなの幸福度がグーンと上がった。  俺はこれからこの家族の幸福度を上げ続けるために、できるだけ長く人間として生きていこうと決めた。
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