プロローグ

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 テスト当日の朝をむかえていた。よく晴れた気持ちのいい朝だったが、僕は疲れていた。  昨日の夜は緊張して眠れなかったせいで、体は重く頭がボーッとして熱っぽい。こんな日は休みをとって体を休めるべきかもしれないが、そんなことは言ってられない。  今日は大切なテストの日だ。テストに行かなければ、これまでの三十年の努力が全て水の泡になってしまう。  熱っぽく重い体、ボーッとした頭にカツをいれようと北の神に教えてもらったストレッチを始めた。ストレッチを始めると体がだんだんと軽くなり、頭もスッキリとしてくる。 「習の神、おはよう」  背中から声がしたので振り向くと、野々神の笑顔があった。 「あっ、野々神。おはようございます」  僕はストレッチを中断して、野々神に勢いよく頭を下げた。 「いよいよテストだな」  テストという言葉を聞いて、少し落ち着きはじめた僕の心臓は再び暴れだした。 「は、はい」  緊張をほぐすように、思いっきり肺に空気を送り込んだ。 「頑張ってな」  野々神が僕の肩に手を置いて優しい視線をくれた。 「はい、自分は絶対に合格してみせます」  直立不動になり大きな声で返事した。 「中地区の現場での成績もなんとか幸福度が六十を越えたし、いい感じになってきたな」 「はい、これも野々神のおかげです」 「俺の力なんてたいしたことないよ。お前が頑張ったからだ。北の神が抜けて大変な時期だったが、なんとか乗り越えたしな」 「最初はどうなるか、不安でした」 「あとはお前が合格して、北の神が担当していた北地区を担当してくれたら、ありがたいんだけどな」  北の神が抜けてから北地区は野々神が兼任し担当していた。野々神は忙しかったので、南の神にも手伝ってもらいたかったようだが、南の神はそんな気は無さそうだった。  僕は自分の担当の中地区だけで、精一杯だったが、合間をみつけて野々神を助けようとした。  野々神は、僕のテストのことを心配して、中地区の人間の幸福度を六十に上げることに集中すればいいと言ってくれた。中地区の幸福度は、なかなか上げられず本当に大変な時期もあった。そんな時は北の神がいてくれたらなと思った。 「北の神は今どうしてるんでしょうね。北の神には早く人間界から戻ったきてもらって、またいろいろ教えてもらいたいです」 「あいつが戻ってきたら、あいつには今度は南地区を担当してもらおうかと思ってるんだ。今の南の神はやる気が無さすぎるよ」  野々神は唇を歪めて言った。 「自分は絶対に南の神みたいにはなりません。自分は北の神が目標です」 「確かにお前は北の神と似たところがあるからな。ただ、目標にするのはいいが、あいつは正義感が強すぎる。あの会議の場で北の神は協会長に言い過ぎた。場をわきまえなければダメだ。そこのとこだけは北の神のようにならないでくれ」 「でも、自分は北の神の言ってることが正しいと思っています。今の協会長のやり方だと人間界の幸福度は上がらないです」 「確かに気持ちはわかる。わかるけどな、協会長も協会を存続させていかなければならないし、いろいろ考えてるわけだから、協会で神様を続ける以上は協会の方針に従わざるを得ないんだ。嫌なら独立してフリーでやるしかないけど、それで成功するのは、ほんの一握りだ。ほとんどが浮浪の神か疫病神になってしまってる」 「その話は、北の神からも聞いたことがあります。でも、フリーのなかには成功してカリスマ的な神様もいるんですよね」 「いるみたいだね。噂だけで会ったことはないがな。そんなことは、今考えなくていい。今はテストのことだけに集中しろ」 「はい、わかっています。テストに合格して野々神にご迷惑はおかけしません」 「そうか、それなら安心だ。しかし、南の神は遅いな。もう昼過ぎてるぞ」 「そうですね。もうすぐ二時になります。また遅刻ですかね」  僕は唇を尖らせた。 「今日は参拝者のことは南の神に任せて、お前は少しでもテスト勉強をしておいた方がいいんだがな。私が一緒にいてやりたいが、テスト会場の準備で、申し訳ないがもうすぐ会場に行かなければならないんだ」 「南の神が来なかったら一人でここにいますから、大丈夫ですよ。野々神は心配しないで、テスト会場の準備へ行ってください」 「しかしなー、もし南の神が夕方になってもここに来なかったら、お前はテストに行けなくなるじゃないか。そんなことになったら大変だぞ。テスト会場の準備を断ろうか」 「それはマズイんじゃないですか。自分なら大丈夫ですよ。南の神もそのうち現れるでしょうし、南の神が来たら、参拝者のことは全て任せてテスト勉強に集中します。野々神は心配しなくて大丈夫です」 「本当に南の神は来るんだろうな。後輩の大事なテストの日に、あいつは何を考えてるのか、ほんと困ったもんだ」  野々神は腕を組んで境内を見渡していた。 「今にはじまったことじゃないですよ」 「まあ、そうだがな」 「あっ、来ました」  視線の先に、目を充血させてあくびを堪えながら歩いてくる南の神の姿があった。 「やあ、おはようさん」  南の神が、こっちに向かって、ひょいと右手を上げて挨拶した。 「南の神、『やあ、おはようさん』じゃないですよ。とっくにお昼過ぎてますよ。今日は、習の神の大事なテストの日なんですよ。後輩の大事な日に何してるんですか。少しは緊張感持ってくださいよ」  野々神が眉間に皺を寄せながら声を張り上げた。 「後輩の大事な日ねぇ」  南の神は僕を横目で見た。 「習の神は、ここでいっしょに頑張っているあなたの後輩でしょ」  野々神が苛ついている。 「確かにそうだな」  南の神は面倒くさそうに首を左右に折った。 「習の神は今日テストなんです。大事な日なんですよ。覚えてましたよね」 「何度も言うな。覚えてるよ。だから、休みだってえのに、こうしてわざわざ来てやったんじゃねえか。それに遅いって言うけど、テストの時間は夕方だ。まだ時間は充分あるだろ」 「休みに申し訳ないとは思ってますけど、私はこれからテスト会場の準備に行かなければなりませんし、習の神には最後に少しでもテスト勉強する時間をとってやりたいんです。なので、今から神社のことは南の神がやっておいてくれますか」 「わかった、わかった。神社のことはやっておくから」  南の神はそう言って本殿の奥へと入っていった。 「今から、私はテスト会場に向かいますから、後、お願いしますよ」  野々神は、南の神の背中に向けて声を張ったが、南の神は無言で背中を向けたまま右手を上げるだけだった。 「ハァ、大丈夫かよ」  野々神はため息を吐き、両手を上げてお手上げといったポーズを見せた。僕は苦い笑みを浮かべた。 「じゃあ、先に行ってるから、遅れないようにな。今日は南の神に任せるしかないから、何かあったら、遠慮せずに南の神にやってもらえよ」 「わかりました」  僕は野々神がテスト会場へ向かう後ろ姿を見送ってから、本殿に腰を下ろした。  何度も深呼吸したが、やはり落ち着かない。参拝者が来てない間に、とりあえず問題集を開いた。ここは絶対にテストに出ると野々神から念押しされマーカーを引いた箇所の問題を復習することにした。 「気張ってるな」  背中から声がしたので、振り向くと南の神が肩越しに問題集を覗きこんでいた。 「ああ、南の神。もうすぐテスト会場に行きますので、あとお願いしますね」 「何度もうるせえな。わかってるよ」  南の神はそう言って、僕の隣に腰を下ろした。  南の神は僕の隣に座った途端に背中を掻いたり咳払いをしたりするので、気が散って勉強に集中できなくなった。  南の神は、わざと僕の勉強の邪魔をしているのかと思うくらい隣で音をたてているので、僕は南の神を睨んだ。  僕がテストに合格すると南の神は自分の立場が危うくなるとわかっているのかもしれない。だから僕には合格してほしくないと思っているのだ。  野々神が南の神を追い出したがっていることを南の神も薄々は勘づいているだろう。  さっきも野々神は、僕がテストに合格したら北地区を担当して、北の神が戻ってきたら南地区を担当してもらうようなことを話していた。そうなると、南の神の居場所はなくなる。  自分の立場が危ういからといって、邪魔をする暇があるのなら、一生懸命に頑張って仕事すればいいのにと思った。  そんなことを考えていると、南の神に対して無性に腹が立って勉強どころではなくなった。気が散るから、南の神は奥にいてくれればいいのにと思った。全く集中できなくなり、「クソー」と問題集を床に叩きつけた。 「たいくつだなぁー」南の神が掠れた声で言った。  こっちの気も知らずにと僕は一段と苛立った。怒りのせいで僕の呼吸が荒くなっていった。南の神に関わりたくないので、僕から南の神に向けて言葉を発することはしなかった。南の神の存在は無視して冷静になろう。  静まりかえった境内で、こんどは「ガァー、ガァー」と南の神の痰を切るような音がした。 「静かにしろよ」  我慢の限界で、つい言葉が出てしまった。 「おっ、あいつはなんだ。なんかおもしろそうな奴が来たな」  南の神は僕の言葉を無視して、鳥居の方を指さした。南の神の相手はしないでおこうと思っていたが、つられて鳥居の方に視線を向けてしまった。そこには地元の中学校の制服を着た少年が鳥居を見上げて立っていた。  少年の顔を見ると唇を噛みしめていた。そして糸のような細い目は潤んでいるようだった。少年の手元を見ると、両拳を強く握りしめ小さく震えていた。  学生服のお腹のあたりには靴の跡が白くついて汚れていた。右肩の辺りは濡れているようだった。ズボンも裾から脛のあたりまで濡れているように見えた。 「ありゃ、おかしいな。普通じゃねえな」  南の神がそう言って、後ろから僕の肩に手をのせてきた。 「そ、そうですね」  無視しようと思っていたが答えてしまった。 「ありゃー、絶対やばいな」  南の神が僕の耳元で呟いた。 「あの子の体、震えてますもんね。怒ってるんですかね」  僕は少年のことが気になり目が離せなくなった。 「怒ってるというより悔しがってるか、悲しんでるんじゃねえかな」 「一体こんなところに何しに来たんだろう」  僕は首を傾げた。こんなに若い子が一人で神社に来ることは珍しい。高校の合格祈願や恋愛成就で来ることはあるが、彼を見る限りそんな様子には見えない。  少年はゆっくりと僕たちのいる拝殿へと向かって歩いてきた。その足取りは重く、右足を引きずるように歩いていた。右足を怪我してるのかもしれない。 「こっちに来るぞ」  南の神が僕の耳元で呟いた。少年のことが気になり、南の神への苛立ちは消えていた。 「あっ」つい、声が出た。 「どうした?」南の神が訊いてきた。 「あの子の顔見てください。アザがありますよ」 「あー、本当だ。顔がだいぶ腫れてるな」 「喧嘩でもしたんですかね」 「うーん、あれは、ただの喧嘩じゃないぞ。ちょっとヤバいんじゃないか」  南の神が珍しく参拝者のことを心配して、僕の前に出て少年を見ていた。 「なにがヤバいんですか?」 「ああ、とりあえず様子を見ようか」 「わかりました」  僕は南の神と並んで拝殿の前に立ち、少年の様子を窺った。  少年は僕たちの前に立ち、鈴を鳴らしてから賽銭箱に十円玉を投げ入れた。 『カタカタ、コトーン』  十円玉が音を立てて賽銭箱に吸い込まれていった。そして少年は僕たちに向かって手を合わせた。五秒、十秒、二十秒、三十秒、長い時間、少年はじっと目を閉じて手を合わせていた。その間、僕たちに向けて願い事をすることはなかった。  少年は合わせていた手をほどき顔を上げて「フゥー」と息を吐いた。 「お父さん、お母さん、ごめんなさい」  最後に涙声でそう呟いて、踵を返し手水舎の方へと歩き出した。 「あの少年はあんたの担当の地区のようだな」  南の神が資料を広げながら言った。 「そうですか、中地区ですか」 「そうだ。中地区だ」 「彼になにがあったんでしょうか」 「これは、だいぶヤバいパターンだな。多分苛めにあって、自殺を考えてるのかもしれんな」 「えっ、自殺、ですか」 「ああ、間違いない。この子はこれから自殺するつもりだ」 「嘘でしょ。自殺なんて絶対ダメですよ。まだまだ人生は楽しいことがあるんだから」 「あんたの性格からして、これは放っておけないよな」  南の神が僕の肩に手を置いた。 「放っておけないです」  僕は少年をじっと見つめた。 「そうだよな。習の神は正義感の固まりだからな」 「でも、今日はこれからテストがあるんです」 「そうだったな。忘れてたわ」 「だから、南の神、すいませんが僕の代わりにこの少年のことお願いします。彼を助けてあげてください」  僕は南の神に向かって頭を下げた。 「いやいや、他の地区のことなんて、わしは知らんよ」  南の神は右手を横に振って、右の口角だけ上げて笑った。 「えっ」  僕は言葉を失った。さすがの南の神でも、この少年を見たら僕の代わりになんとかしてくれると思った。なのに、南の神は『知らんよ』と平気で言った。 「あんたの担当地区なんだから、あんたが責任持ってやりな」 「何言ってるんですか。自分はもうすぐテストに行かなければならないんです。テストに合格しないと、自分は正式な神様にしてもらえないんですよ」 「正式な神様って協会に入ることかい」 「そうですよ。協会から正式に神様と認めてもらわないといけないんです。その為に自分は今日まで頑張ってきたんです。南の神もそれくらいわかってるじゃないですか」 「そうかい。協会に認められるのが正式な神様ねー。正式な神様になるためには、困った人間が目の前にいても無視してもいいわけだ。あんたが、ここに来た当時は、ああいう少年が来たら放っておけなくて飛んで行ってたんじゃなかったかな」 「そりゃあ、この少年のことは心配ですよ。放っておけない気持ちはあります。でも、何度も言いますが、自分は今日テストがあるんです。だから、南の神にお願いしてるんです」 「じゃあ、結局、あれかよ」  南の神が顎を突きだした。 「あれってなんですか?」 「人間を幸せにしたいとか偉そうなこと言っておきながら、結局自分の出世の方が大事ってわけだな」 「そう言われても、困ります」 「たいしたことない奴だな」  僕は返す言葉がなかった。このままこの少年を放ってテスト会場に向かっていいものだろうか。この少年の命と僕がテストに合格すること、どっちが大事なことなのだ。決まっている少年の命の方が大事だ。  きっと南の神は、この少年に何もしてくれない。自分がテストに行ってしまえば、この少年はどうなるんだ。もしこの後、少年が自殺してしまったら、僕は悔やんでも悔やみきれないだろう。  しかし、テストに行かなければ、野々神に迷惑をかけてしまう。それに、僕があの少年のために出来ることなんて、たかが知れている。自分の力だけで少年を助けることはどうせできない。だから僕はテストに行くべきなのだ。 「そろそろ、テストに行きますね」  僕はそう言って、テスト会場へ向かおうとした。神社を出る前に少年を見ると、彼は手水舎の前に立っていた。そこで柄杓で水を掬い、掬った水を頭からかけた。少年の髪の毛から水が滴り落ちる。  僕はテストへ向かう足をとめた。  少年はそれからまた柄杓で水を掬い頭からかけた。それを何度も何度も繰り返した。十回くらい繰り返して、少年の体はビショビショになっていた。  少年はそのまま体育座りをし、膝と膝の間に顔を埋めていた。  南の神が僕に少年の様子を近くで見てくるように言った。何で自分がと思ったが、少年の様子は確かに気になったので、少年が座りこんでいる手水舎へと向かった。  少年の元へ行き、膝の間に埋めた彼の顔を覗きこんだ。少年の目から涙がボロボロとこぼれ落ちていた。 「おい、元気だせ。何があったんだ?」  僕は少年に向かって言った。  その言葉は少年に届くことなく、少年は右腕で涙を拭っていた。  それを見た僕まで涙が出てきた。 「あらら」という声が耳元で聞こえた。  振り向くとすぐ近くに南の神の顔があった。僕はビックリして跳び跳ねた。 「やっぱり泣いてるな」 「そうですね」 「こりゃ、思った通り深刻だぞ。お前、どうすんの?」 「いや、だから、自分は今からテストへ行きますので、この少年のことは南の神が面倒みてください」 「少年よ。ここで泣いても、助けてとお願いしても、どうしようもないわ。あんたが来た神社が悪かったね。ここの神様は、あんたのことより、自分の出世の方が大事なんだって。ごめんなー」  南の神が少年の顔を覗きこみ、嫌味っぽくそんなことを言った。  それを聞いて僕は南の神を睨みつけた。こんな時に北の神がいてくれたらと思ったが、そんなことを思っても仕方がない。 「南の神が何もしてくれないなら、自分はテストには行きません。今からこの少年についています」  僕は南の神を睨みつけた。 「ほぉー、なかなか骨があるねぇ。習の神はそうでなきゃーな」  南の神が僕の目の前でわざとらしくパチパチと手を叩いた。 「クソーッ、もうやるしかない」  僕は拝殿へと戻り、さっきまで読んでいた問題集を床に叩きつけた。
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