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僕はテストに行かなくてよかったのだろうか、野々神に迷惑かけてしまったんじゃないだろうか、そんな思いを頭に過らせながら、少年の萎んだ背中を追いかけた。
もしこの少年が苛められているわけでなく、自殺なんてする気もなかったのなら、僕の今の行動は全く無意味なものになる。
少年は野々神社を出てから月の光に反射し白く光るアスファルトの小道を五分程歩いたところで立ち止まった。右側には大きなマンションがそびえ立つ。十五階建ての去年できたばかりのきれいなマンションだ。どの部屋の窓からも灯りがもれている。今はどこの家庭も一家団欒の時間なのかもしれない。
マンションの敷地は広く、建物の奥には芝生が敷き詰められた広場が見える。広場の右側には自転車置き場やごみ捨て場があり、左側には小さな子どもが喜びそうな遊具が並んでいる。今は暗くてひっそりしているが、昼間の明るい時間には子供の声が響き渡るのだろう。
少年はマンションの敷地内に足を踏み入れ、辺りを見渡してから、背筋を伸ばしマンションを見上げた。僕の立つ位置からだと、少年はエントランスの明かりのせいで黒いシルエットになって表情までは見えない。
このマンションが少年の自宅だろうか。自宅マンションの前まで来たが、学校で喧嘩でもして服が汚れ顔に痣があるので、親と顔を合わせづらくて、入るのに躊躇しているのかもしれない。
少年は「フゥー」と息を吐いてから、両側に花が植えられている通路を通り、エントランスの前まで行った。僕もエントランスの前まで向かった。
少年はそこで鍵を出す様子もなく、インターホンを押そうともせず、ぼんやりと立っていた。たまにガラス張りの自動ドアからエントランスの中を覗いていた。
しばらくすると、エレベーターが開いて両手にゴミ袋を抱えた年配の女性が出てきた。女性がエントランスから自動ドアの前まで来たところで自動ドアが開いた。
女性が少年に視線を向けて、すれ違い様に「こんばんわ」と口角を上げて挨拶をした。
少年は言葉は発せず、小さく首だけひょこっと縦に動かし、自動ドアが開いている隙にマンションのエントランスの中へ入って行った。僕も少年を追いかけて、自動ドアをすり抜けてエントランスの中へと入った。
少年は、年配の女性が乗ってきたエレベーターのドアが閉まる前に、そのエレベーターに乗りこんだ。僕も少年に続いて乗りこんだ。少年は一番上にある十五階のボタンを押した。エレベーターのドアが閉まり上昇を始めた。
エレベーターの中で少年はエレベーターの壁に額を押しつけて、首を小さく横に振っていた。少年の顔を覗きこむと涙が溢れていた。エレベーターはそのまま十五階に着いて止まった。ドアがゆっくりと開いて少年は顔を上げて、エレベーターから飛び降りた。僕も少年に続いてエレベーターを降りた。
エレベーターから出た少年は、等間隔に並ぶドアの前をトボトボと歩いていった。この階に少年の自宅があり、このまま自宅に帰ると思いたいが、そんな様子には見えなかった。
通路の途中に階段があり、少年はその階段を下りて行った。数段降りたところに階段の踊り場があり、少年は、そこで立ち止まった。両手を踊り場の手すりにかけて背伸びをし下を覗きこんでいた。
ゴクリと唾を呑み込む音がした。少年は地面を突き刺すような視線で見ていた。少年はここから飛び降りるつもりかもしれない。ここから飛び降りたら、きっと命は助からない。それは絶対にさせてはならない。
僕はどのようにして、この少年を止めればいいのかと考えた。しかし、思い浮かばない。少年はまだ背伸びしてじっと地面を見ていた。
僕は、とりあえず少年の背中にしがみついてみた。しかし、そんなことをしても意味がない。少年は僕がしがみついていることを感じないのだから。
少年の背中に、「早まるな」と声をかけてみたが、それも少年の耳に届くはずはなかった。
僕は自分の無力さが情けなくなった。神の力をもっと身につけたい。今の自分にはこの少年を助けるだけの力がないのだ。少年の体をおさえることも、少年の心に訴えることも、僕の力だけではどうにもできない。
少年がピョンと跳ねて自分のお腹を踊り場の手すりに預けた。少年の上半身がマンションの手摺から外に出た。バランスを崩せばそのまま落ちてしまう。
僕は慌てて階段を上がり、自分に出来る神の力はこれくらいのことしか出来ないと、すぐ前の部屋のインターホンを何度も鳴らした。
インターホンから『はい』という声が聞こえた。少年は、その声に慌てて浮いていた体を踊り場に戻した。僕はそれからも何度も続けてインターホンを鳴らした。
インターホンを鳴らした部屋の中から激しい物音がして、勢いよくドアが開いた。その部屋の住人が飛び出してきた。丸坊主の頭をした恰幅のいい、少し怖そうな男性だった。
男性が階段の踊り場に立つ少年の姿を見つけ、睨むような視線を向けた。
「おい、今、インターホン鳴らしたのは、お前か?」
男性は真っ赤な顔をして怒鳴りながら階段を下りてきた。男性のサンダルの音がマンションに響いた。
「す、すいません」
少年は慌てて階段をかけ下りて行った。男性は少年を追いかけようと階段を下りかけたが、数段下りたところで足を止めた。少年が勢いよく下りていったので、追いかけるのをあきらめたようだ。
「バカガキが」
男性はそう言って舌打ちをし、踵を返し部屋へと戻って行った。
僕は男性に手を合わせて「ごめんなさい」とお詫びし、そして「ありがとうございました」と頭を下げてから、慌てて少年の後を追いかけ階段をかけ降りた。
下まで階段をかけ下りると、少年は両膝に両手をついて息を切らし立っていた。僕が少年の後ろに立つと、少年は僕を待っていたかのようにすくっと体を起こし歩き始めた。僕はまた少年を追いかけた。
二、三分歩いたところで少し広い道路に出た。少年は赤信号で立ち止まり、左右を見ていた。少年の目の前を猛スピードで車が行き交っている。少年の様子を見ていると、ここで車に飛び込むんじゃないかと不安になった。右側から大型トラックが猛スピードで走ってくるのが見えた。
もし、少年がトラックの前に飛び出したら僕の力では少年を止められない。そう思うと体がガクガクと震えた。今の僕より人間の方が少年を助けることができる。人間なら優しく声をかけて話を聞いてあげられるし、説得もできる。強引に手を引っ張って力づくで止めることもできる。僕に出来ることは、ここで神様に祈ることだけだ。
大型トラックが近づいてくる。トラックは青信号を渡りきるつもりのようで、スピードがあがっている。少年の視線は、近づいてくるトラックにじっと向けられていた。
トラックが信号の手前まできたところで、車道側の信号が黄色に変わった。トラックはブレーキを踏むことなく突っ込んできた。少年が車道に一歩足を踏み出した。
「やめろ。早まるなー」
僕は、そう叫んで、少年の体にしがみついた。しかし、少年に僕の声が届くはずはないし、しがみついたところで、少年の体は僕の手をすり抜けるだけだ。何の意味もない。自分の力の無さが情けない。
トラックは少年の鼻先を猛スピードで走っていった。目の前を走るトラックの風で少年の髪が揺れた。
「フゥー」
僕は体中の力が抜け、地面にへたりこんだ。冷えたアスファルトが僕の尻を冷やした。
へたりこんだまま少年を見上げると、少年は僕を見下ろしていた。少年と目が合った。ニヤリと笑ったように見えた。しかし、少年に僕の姿が見えるはずがない。でも、確かにこっちを見て笑ったような気がした。
僕は地面に腰をついたまま首を傾げ、少年の顔を見ていると、少年は、すぐに視線を外し信号を渡りはじめた。少年には僕の姿は見えてないはずだが、僕の気配くらいは感じていたのかもしれない。
少年は早足で信号を渡っていくので、僕は慌てて腰を上げ信号を渡る少年の背中を追いかけた。
少年の歩くスピードがドンドン速まっていった。少年はどこに行くつもりなんだろうか。死に場所を探し続けているのかもしれない。少年から絶対に目が離せない。
しかし、もし、少年がまた死のうとした時、僕は少年を助けることができるだろうか。少年がマンションの十五階から下を見下ろしていた時、トラックが少年の前を猛スピードで走り去った時、僕は何もすることができなかった。でも、僕は少年についていくしかない。
不安な気持ちのまま、少年の背中をじっと見つめながら歩き続けた。
少年が急に立ち止まった。そこで僕も立ち止まり、辺りを見渡した。驚いたことに、ここは野々神社の鳥居の前だった。無我夢中で少年の背中だけを見て歩いていたので、野々神社に戻ってきていたことに気づいてなかった。
少年は鳥居を見上げて両手を高く上げて伸びをした。
「うわーっ」と大声をあげてから両手を一気に下ろしダランとさせた。
「ハハハ、ハハハ」
今度は大きな声で空を見上げ笑いはじめた。
どうしたんだろう。少年の後ろに立ったまま、僕は少年の揺れる背中を見ていた。
少年は、ゆっくりと踵を返し、僕の方へ体を向けた。少年は口角を上げて僕の方を見て笑っていた。少年とずっと目が合っているような気がしたが、でもそんなはずはない。少年には僕の姿は見えてないはずだ。不思議に思っていると少年が口を開いた。
「習の神さん、テスト、終わっちゃいましたね。これで協会から追放されるかもしれませんね」
少年はそう言って、細い目を光らせた。口元は右の口角だけを上げて笑っている。
「えっ?」
どういうことかわからず、少年の顔をじっと見ていた。
「今の状況がまだわかりませんか」
僕は首を傾げるしかなかった。
「習の神さん、あなたは南の神に嵌められたんですよ」
少年は一歩二歩と僕に近づいてきた。
「ど、どういうことだ?」
「私はね、南の神に頼まれたんですよ。あなたをテストに行かせなくするために一芝居打ってくれってね」
「あ、あんたは一体誰なんだ」
僕は少年を睨みつけた。
「ハハハ、ハハハ、私が誰か知りたいですか?」
「あ、当たり前だ」
僕は少年に向かって怒鳴った。そして詰めよって行った。
「わしの仲間だよ」
拝殿の奥から声がした。真っ暗な拝殿に視線を向けると、奥の暗闇から黒い影が見えた。黒い影が月明かりのあたるところまで来て、それが南の神だとわかった。南の神は拝殿からノソノソと歩いてこっちに近づいてきた。
「南の神、うまくいきましたよ」
少年が南の神に向かって言った。少年の方に視線を向けると少年は親指を立て笑みを浮かべていた。
「ごくろうさん。あんたの芝居、なかなかのもんだったな。感心したよ」
やられた。僕がテストを受けられないように南の神はこの少年を使って僕を騙したんだ。
「南の神、どういうことです?」
「自殺しそうな少年が現れたら、あんたはテストをとるのか、自殺しそうな少年をとるのか、試してみたんだ。なかなか楽しかったな」
南の神がこっちに向かってゆっくりとした足取りで歩きながら言った。
「自分を騙したんですか?」
南の神はニコニコと笑っていた。そして少年の隣まできたところで立ち止まった。少年と目を合わせたあと、少年の肩をポンポンと叩いた。
「騙した? まっ、そういうことになるな。悪く思うな」
「悪く思うなって。バカにしないでください。このせいで、自分はテストに行けなかったじゃないですか。どうしてくれるんですか。すぐに南の神から野々神に説明して、テストをやり直せるように言ってくださいよ」
「あんなくだらんテストなんか、いいじゃねえか」
「よくありません。自分の三十年の苦労が水の泡ですよ、あーっ、どうしよう」
僕は頭を抱えた。
「ご苦労さん、ありがとうな」
南の神が少年に向かって言った。
「いえ、お役に立てて光栄です」
南の神は、僕が落ち込んでることなど気にする様子もなく、少年と楽しく話していた。
「南の神、自分を騙したそいつは誰なんですか?」
僕は少年を指さした。
「わしの仲間だよ。こいつは、いつもわしを助けてくれるんだ」
南の神が少年の方に視線をやった。少年は南の神に向かって一礼した。
「なんで、こんなことして自分がテストを受ける邪魔をしたんですか?」
野々神社に僕の声が響いた。
「あんたに神様協会に入ってほしくないからに決まってるだろ」
「自分が協会に入ると、あなたが追い出されるかもしれないからですか?」
「ハハハ、面白いこと言うねー。どちらかと言うと、わしは協会から追い出されたいんだけどな。けど、なかなか追い出してくれないんだよ」
南の神は首の後ろを掻きながら言った。
「強がって嘘つかないでください。自分がテストに合格して正式に協会所属の神様になったら、あなたは自分が追い出されると思って、邪魔をしたんじゃないんですか」
「君は南の神のことを誤解してるよ」
少年が口を挟んできた。
「うるさいな。あなたは一体何者なんだよ? 南の神とはどういう関係なんだ」
「南の神は、私の師匠です。神様のなかで私が一番尊敬する方です」
「はあ、南の神を尊敬するなんてバカじゃねぇの」
「師匠だとか尊敬する方、なんて言わんでくれ。照れるじゃねえか」
南の神は嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして、少年の肩に手を置いた。
「南の神、一体こいつは何者なんですか?」
「こいつは、協会から放り出されたフリーの神様だ。カリスマと呼ばれている神様の一人だ。こいつの神の力は協会に所属する神様の力の比じゃないぞ。すごい力を持っている。だから人間に化けてあんたを騙すことも簡単に出来たわけだ」
「えっ、こ、こいつがカリスマと呼ばれている神様ですか?」
誰も見たことがないという、カリスマと呼ばれる神様がこんなやつなのか。いや、嘘だ。嘘に決まっている。
「カリスマなんて師匠、私の方こそ照れてしまいます。今の私があるのは師匠のおかげです」
なんのことかさっぱりわからなかった。
「そんなことより僕が神様協会から追放されることになれば責任とってくださいよ。絶対に協会長に頭下げに行ってください」
「協会長に頭を下げる気にはなれんな」
南の神が額の辺りを掻いた。
「じゃあ、自分はこの先どうしたらいいんですか? あんたらのせいで神様として生きていけなくなるかもしれないんですよ」
僕は泣き出しそうだった。
「習の神、大丈夫です。あなたはこれからフリーの神様となって、いずれはカリスマと呼ばれる神様になれます」
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