プロローグ

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 習の神が神様協会のテストを受けなかったことで、管理責任を問われた私は始末書を持って協会長をたずねた。  協会長室のドアの前に立ち、深呼吸してからドアをノックした。  中から「はい」なのか「おう」なのか「あー」なのか区別がつかない低い不機嫌そうな声が聞こえた。  体中のありとあらゆる所から汗が吹き出た。このドアを開ける勇気がない。  私がドアを開けることを躊躇していると、中からまた区別のつかない声が、さっきの二倍くらいの大きさで聞こえてきた。協会長の不機嫌さが増したようだ。  これ以上、待たせればもっと不機嫌になる。私は意を決して、ドアノブに手をかけた。ドアノブが私の手汗でべっとりと濡れた。  そこで一度息を整えてから、ドアノブを回しゆっくりとドアを開けた。 「失礼いたします」  体を小さくして、ドアの隙間から中を覗いた。  協会長が椅子に座っているのが見えた。苦虫を噛んだように顔を歪めていたので、そのままドアを閉めて逃げ出したくなった。 「中に入るならさっさと入れ」 「は、はい」慌てて中に足を踏み入れた。 「なんだ、お前か」  協会長はそう言って、ギロリとした目で私を睨んだ。その後、「フン」と鼻を鳴らし、宙に視線を向けた。私の話など聞きたくないといった態度に私の体は震えた。 「習の神がテストを欠席した件では大変ご迷惑をおかけいたしました」  協会長の座る机の前に立って深々と頭を下げた。 「その件で詫びに来たのか」 「はい、申し訳ございませんでした」 「お前のところは、本当によくトラブルを起こすな」  協会長はもう一度私を睨みつけてそう言った。 「申し訳ございません」  協会長と目を合わすことが出来ず頭を下げたままだ。  協会長はそれから言葉を発しなかった。私は頭を下げたまま、協会長の次の言葉を待ち続けた。  あまりにも沈黙が続くので、恐る恐る顔を上げると、協会長はハ虫類のような目で、じっと私を睨みつけていた。 「あ、あの……、この度は私の監督不行き届きで協会長には多大なご迷惑をおかけいたしました。本日は始末書を持って参りました」  始末書の入った封筒を協会長の前に両手で差し出した。 「始末書ねぇ」  協会長は顔を上げ、面倒臭そうに封筒を片手で受け取った。私を一瞥してから、封筒のなかを覗き、フーッと息を吹き込んでから始末書を引っ張り出した。む 「本当に申し訳ございませんでした」 「バカの一つ覚えみたいに、何度も謝るな。謝れば許してもらえると思ってるから、何度も失敗をやらかすんだ」 「は、はい、申し訳……」  言いかけた時にギロリと睨まれた。  協会長は封筒から引っ張り出した始末書を広げて目を通していた。小さな黒目だけが行ったり来たりして、最後にまた「フン」と鼻を鳴らして、始末書を机の上に投げた。  私は言葉を発することをせずに、もう一度、深々と頭を下げた。 「まあ、いい。お前もこれまでよく頑張ってくれていたし、今回はこれで許してやろう。今後はしっかりと部下を教育してくれ」 「お、お許しいただけるのですか」  もっと怒られると思っていたが、意外にあっさりと許してくれたことに驚いた。 「まぁ、終わったことだ。お前だけの責任でもないしな」 「温情あるお言葉に感謝いたします。今後も協会のために労を惜しまず邁進する所存でございます」 「わかった。ところで……」  協会長はそこまで言って、言葉を切った。 「あ、はい」  協会長の次の言葉を恐る恐る待った。  協会長は笑みを浮かべているが、目は笑っていない。 「今の野々神社は、お前と役立たずの南の神だけになってしまったわけだな」 「あ、はい。そ、そうです」 「それなら、今、お前も大変だろう?」 「そ、そうですね、忙しいのは確かです」 「神様の補充はいらないのか?」 「えっ」  協会長の思いもかけない言葉に声をあげてしまった。出来れば神様の補充をお願いしたいところだが、自分の監督不行き届きのせいで、北の神と習の神がいなくなったわけだから、補充をお願いする立場ではないと思っていた。  それが協会長の方から神様の補充の話を持ちかけてくれた。これはありがたい。ここで補充をお願いしてみようかと思った。  いや、しかし、補充をお願いしますと言った途端に協会長の機嫌が悪くなることも考えられる。 「野々神社は神様が足りないだろう。困っているなら遠慮なく言え」  協会長が念押しして言ってきた。今がお願いするチャンスかもしれない。今、協会長に神様の補充をお願いした方がいいのだろうか。お願いすると、甘えるなとか言い出しそうな気もするし、お願いしないと、わしの厚意を無駄にするのかと怒り出しそうな気もする。どうしようかと悩んだ挙げ句、素直にお願いすることにした。 「はい、それでしたら本当に勝手を言って申し訳ないのですが、野々神社に神様の補充をお願いいたします」  私は背筋を伸ばしてから深々と頭を下げた。  その後、協会長の表情が、にわかに険しくなった。 「お前の管理不行き届きでいなくなった神様をわしに補充しろっていうのか? お前も偉くなったもんだな」 「い、いえ、補充しろだなんて、そんな滅相もございません。私のせいでこうなってしまったわけですから、私はこれまでの二倍も三倍も働くつもりでいます」 「二倍も、三倍も働けるわけがないだろ。いや、二倍くらいならいけるか。ハハハ」  協会長は冗談を言っているのか、嫌味で言っているのか、機嫌がいいのか、悪いのか、笑ってくれるのか、それとも怒り出してしまうのか、全くわからなかった。 「無理しなくてもいい。南の神は相変わらずやる気無しだろうから、確かに大変だとは思う。どうせ南の神は使いもんにはならんだろ?」  自分の部下の南の神のことを悪く言うと、私の責任が問われそうだ。また協会長の機嫌が悪くなるかもしれない。部下を庇う上司のほうが協会長の受けがよいかもしれない。 「南の神は使い物にならないわけではありません。南の神は本当は力のある神様です。それを私の指導不足で、力を発揮させることができていないので、責任を感じております」 「なに、南の神に力があるだと」  協会長の眉間に深い皺が入り、目がハ虫類の目に変わってしまった。 「えっ、いや、あの、み、南の神が力を出せないのが私の責任だと反省しているのですが……」 「お前は本当に南の神に力があると思っているのか?」  ドスのきいた地獄から響くような声だった。 「えっと、南の神に力があるというか、私の指導不足が原因かと思っております」 「きれいごとは聞きたくない。南の神に力があるかどうかを訊いてるんだ。さっさと答えろ」 「いえ、あの、その」  南の神に力があると言うと協会長の機嫌は悪くなりそうだった。かと言って部下を無能扱いしても機嫌が悪くなるかもしれない。 「どっちだ。早くこたえろ」 「あっ、はい。南の神にはもう少し頑張ってほしいのですが、なかなか私の力が及ばなくて難しいのが現状です」 「南の神は力がない、そうはっきり言え」  協会長が顎を突きだした。 「あ、はい。そ、そうですね。私にも責任はあるかと思いますが、南の神にはもう少し頑張ってもらわないといけません」 「お前でなくても誰が上司になっても南の神は無理なんだ。あいつに力がないんだから。そうだろ、はっきりとそう言え」  協会長は苛ついた様子だった。ここは協会長に同意するほうが良さそうだ。 「はい、そうですね。南の神は力がない上にやる気もありません。そのため野々神社は大変な状況です」 「そうだろ。最初からそう言え。南の神が力があるなんて言うから、お前の頭がおかしくなったのかと思った」 「南の神は大先輩なもので、少し遠慮してしまいました」 「先輩も後輩もない。力のない奴を庇うのは、組織を弱くしてしまう。ダメな奴はダメなんだ」  協会長は南の神を嫌っているようだ。それも異常なほどに。それはなぜなんだろうかと思った。 「そう言えば、南の神は協会長と同期だと聞きましたが、それは本当ですか?」 「そうだ。わしとあいつは、若い頃に同じ神社で働いていた。その当時は、まだあいつも頑張ってたけどな。頑張っても結果が出せなくて、だんだん気持ちが失せてしまったんだろうな。結果を出し続けていたわしを近くで見ていたから、余計に自信を無くしたのかもしれん。わしの成績が優秀だったから南の神がダメになったんだとしたら、今の南の神のやる気の無さは、わしにも責任があるかもしれんな」 「協会長のような優秀な方が近くにいたのでしたら、私なら協会長からいろいろと学ばさせてもらいますが、当時の南の神はそうしたことも無かったのでしょうか」 「無かったなぁ。あいつは当時からひねくれていたからな。わしの実力に嫉妬して、わしから教えを乞うのも嫌だったんだろう」 「素晴らしいお手本である協会長が間近にいたのにもったいないですね。向上心が感じられません」 「南の神はそういう奴だよ。それが唯一の部下になってしまったんだから、お前の大変さはわかる。同情するよ」 「ありがとうございます」 「優秀な神様を補充してやらないといけないな」  協会長は補充する神様の候補を頭に浮かべているのか、宙に視線を向けていた。 「よろしくお願いいたします」 「そうだな、あいつはどうだ」  協会長の頭に神様の候補が浮かんだようだ。 「だ、誰でしょうか?」 「集会で生意気なことをほざいたあいつだ」 「えっ、もしかして野々神社にいた北の神でしょうか」 「そうだ。あの時に人間界に送る処分にしたが、神様に戻るチャンスは残しておいてやったから、予定より早く戻してやってもいいだろう」 「人間界で百八年過ごす予定でしたが、そんなに短縮してもよろしいんでしょうか」 「まあいいだろう。あいつはクセはあるが優秀な神様であることは間違いない。野々神社の経験者で君ともいっしょにやっていた仲だし問題ないだろ。人間界に行ってから今で何年になるんだ?」 「北の神は人間になってちょうど三十年になります」 「三十年か。長すぎず、短すぎず、ちょうどいいんじゃないか。あいつもそろそろ集会での発言については反省して成長している頃だろう」 「協会長は北の神の集会での無礼をお許しいただけるのですか」 「もちろんだ。わしもそんな心の狭い神様ではない。わしはあいつが憎くて人間界に送ったわけではない。彼に成長してもらうために送ったんだ。あいつもこれでわしに感謝するだろうし、もともと実力のある神様だ。戻ってきてから、わしの力になってくれれば、わしとしても助かるしな。君からすぐに彼に連絡してやれ」 「わ、わかりました。すぐに連絡してみます。本当にありがとうございます。北の神も三十年で神様に戻れるとは思っていないでしょうから、すごく喜ぶと思います。協会長のご厚意に心から感謝いたします」  私は北の神が戻ってこれると聞いて、心が晴れやかになった。習の神のことは頭から飛んでしまった。  北の神とは一緒にやってきたので気心は知れているし、全く知らない神様が来るより絶対にやりやすい。  それに何と言っても北の神は実力のある優秀な神様だ。正義感が強くまっすぐなところがあるので、集会の場で協会長に生意気な口を叩いてしまったが、本当はそんな反抗的な神様ではない。真面目で素直、そして正直な神様だ。  野々神社でいっしょにやっていた頃、私に対して、北の神が反抗的な態度をとることなど一度もなかった。あの集会の時は魔が差しただけだ。  北の神が野々神社に戻ってきてくれれば、習の神の穴は充分に埋まる。  北の神も思ったより早く神様に戻れるとなると喜ぶだろう。協会長の言っていた通り、協会長に感謝し、協会長とのわだかまりもなくなるはずだ。私は心を弾ませ北の神の元へと急いだ。  北の神に神様に戻れることを告げて、返ってきた言葉は、私にとって意外なものだった。そしてまた頭を悩ませるものだった。 『ほ、ほんとうですか。こんなに早く神様に戻してもらえるのですか。協会長と野々神に感謝いたします。このお礼は協会に戻ってから精一杯働くことで恩返しします』といった言葉が返ってくるものと信じていた。  しかし、返ってきた言葉は、『有難いことですが、俺は人間の寿命を全うしてから神様に戻りたいと思っています。なので、もうしばらく人間のままでいさせてください』といった内容だった。  何とか北の神の気持ちを変えないと、協会長はまた怒り出し、北の神の神様の記憶と神の力を奪ってしまい、完全に人間にされてしまうかもしれない。北の神にすぐに神様に戻るように説得しなければならない。 「今すぐ神様に戻ってこい。今、君の力が必要なんだ。それに長い期間人間界にいて、神様に戻れないのは、君も辛いだろう」 「いえ、全く辛くはありません。人間としての寿命がある限りそれを全うします。俺はこれから人間界でやることがたくさんあります。育ててくれた両親に恩返ししたいですし、妻の優花と生まれてくる子供のために人間として生きていきます。それに今の俺は人間界で医者として多くの患者をかかえています。その患者たちのために、まだまだ人間界でやることがあります」  北の神は使命感に燃えるタイプだ。人間界での自分の使命に燃えているのだろう。  何とか今の気持ちを変えさせて神様に戻ってからの使命感を持つように説得しなければならない。そのように話をもっていって北の神の心をくすぐってみよう。 「今、野々神社がピンチなんだ。人間の幸福度が落ちている。だから、君には、人間界の自分の家族だけでなく、野々神社に参拝する多くの人間を幸福にしてほしい。君にはそれだけの実力があるし、それが君の使命なんだ」 「今はダメです。神様ではなく、人間として人間を幸福にしたいのです」 「なぜだ? なぜ人間にこだわる?」 「俺は人間になってわかったことがあります。それは人間の力の方が神様の力より人間を幸福にする力が強いということです。人間は損得なしに人間を幸福にしようとします。俺は人間が人間を幸福にする、そんな力をもっと経験したいんです」 「協会長のご厚意を無駄にするつもりなのか」 「申し訳ありません。人間の寿命を全うしてから、神様に戻って、今のこの経験を生かして協会のために頑張りますと協会長にはお伝えください」  北の神が人間として生まれた日からもうすぐ三十年になる。協会長は三十年で神様に戻してくれると言ってくれているのに、北の神はなぜ断るんだ。このチャンスを棒に振るつもりなのか。  北の神をもっと説得して気持ちを変えたいが、今のまま神様に戻しても北の神は納得しないだろう。北の神は頑固な奴だとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。これ以上、何を言っても無駄なような気がした。  北の神の表情を見ていると、人間として充実した日々を過ごしているように見えた。それをこっちの都合で切ってしまうのは、かわいそうだとも思った。  北の神の人間としての寿命を全うさせてやりたい。協会長に何と報告すればいいのかと、私は頭を抱えた。  北の神の顔をじっと見た。充実したいきいきした表情を見て、協会長に正直に話すしかないと腹を決めた。  協会長のことだから、北の神の言い分を聞いてくれないかもしれない。もし、協会長が怒り出せば、北の神は二度と神様に戻れなくなるかもしれない。しかし、北の神を説得することはやめた。 「あいつは人間の寿命を全うすると言ってるのか」 「はい」  協会長を前にして私の体は震えた。 「相変わらずわがままで馬鹿な奴だな」  協会長の眉間に深い皺が入った。 「申し訳ありません」  どうしていつも頭を下げてばかりなのかと悲しくなった。 「まあ、いい。言わせておけ。こっちで何とかする。あいつに勝手にはさせんよ」  協会長は右の頬を歪めてニヤリと笑った。  協会長になにかいい考えがあるのだろうか。しかし、それは私たちにとっていいことではない気がする。どうするつもりなのか、考えるだけで恐ろしくなった。 「どうなさるおつもりでしょうか?」  恐る恐る訊いてみた。 「お前は何も考えなくていい。しばらくは黙っておとなしく待っていればいい。また、連絡する。今日はもう帰れ」  協会長は私を追い出すように右手を払った。私が考えても仕方がない。自分が悪いわけではない。自分は協会のため、北の神のために一生懸命にやった。自分にそう言い聞かせて踵を返し協会長室を後にした。野々神社へ帰る足取りは重かった。最近はずっとこんな感じだと、ため息を吐いた。
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