《一》

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 海鳥の群れが独特の鳴き声をあげながら頭上を飛び交っている。波が静かな音を立てて船腹を叩く。四半刻(約三十分)ほど前に繰り広げられた激しい光景がまるで夢幻であったかのように、海はどこまでも穏やかだった。宋船の舳先に立った平清盛は、眼を細めて潮の匂いを鼻孔に吸い込み、春の陽を照り返す海面を見つめた。傍らには影のように平景清がぴたりとついている。清盛が乗っている宋船の甲板では、工藤茂光が尻をつき、瘧のように身を震わせている。すっかり腰が抜けてしまったようだ。潮の匂いに尿(イバリ)の臭気が混じり込む。清盛はあらんかぎりの軽蔑を眼に込めて茂光を見下ろした。この臆病者めが、失禁までしよったか。清盛は茂光から眼を逸らし、前方に眼をやった。前部分を砕かれた安宅船が海面を漂っている。安宅に乗っていた三百人はすべて、海に落ちた。溺れ死んだものも少なくない。船の残骸の中に、銛と見違えるほどの巨大な矢が漂っている。ただ一人の男が、ただ一本の矢で船を沈め、軍勢を撃破した。目の当たりにして尚、清盛はその事実を受け入れる事ができなかった。 「化物じゃ、あれは化物じゃ」 工藤茂光が頭を抱えて何度も呟いている。  源八郎為朝。なんと凄まじい男だっただろう。清盛は浜を見た。つい今しがた己の腹に太刀を突き立てた為朝が砂浜の上に立っている。その姿はまるで砂浜に生えた一本の大樹のようだった。為朝がすでに絶命している事は間違いない。その首さえ落とせばすべてが終わる。
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