《一》

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 僧侶がごくりと唾を呑んだ。 「私も僧だから、念仏をあげられない事もないが」 清盛は言った。 「いかんせん、法名を得てからまだ日が浅い。死者を弔うに、私の念仏はまだまだ年季が足りぬ」  清盛が出家し、浄海という法名を得たのは一昨年の事だった。ちょうどその頃清盛は重病に罹っていた。死ぬかもしれぬと思うほどの苦しみに苛まれた。回りの薦めに従い、出家し法名を得るとその二日後、便と一緒に百足の虫が体内からひり出てきた。それを境に夢であったかのように苦しみが霧消し、病は快癒した。  砂浜に読経が響く。最初は頼り無さげに見えた僧侶だが、読経が始まった途端、朗々としたよい声を砂浜に響かせた。六人が協力し、為朝の剛弓をこちらに引きずってくる姿が視界の端に映った。本当にあんな化物のような弓を自在に引いていたのか。清盛は嘆息を漏らし、右脇にある為朝の首を見た。剛弓を引きずる六人は皆、顔を強張らせ、こめかみから汗を流している。  読経も終わりに近づこうかという時、清盛の背後で獣の嘶きが響いてきた。振り返った。砂煙があがり、景色がぼやけている。真っ黒で巨大な影がこちらに向かってきていた。馬、黒く巨大な馬が突進してくる。  清盛の前に景清が立った。その手には抜き身の太刀が握られている。突進してくる黒馬に向かい、太刀を上段に構えた景清が走り込んでいった。清盛は静かな気持ちで黒馬を見つめた。為朝の愛乗だった馬だ。ふいに清盛はこの馬に跨がる為朝の姿を思い出した。馬脚は凄まじいが殺気は感じない。景清が馬の左側を駆け抜けるのと馬の首がその胴から離れるのはほとんど同時だった。  首を失っても尚、黒馬はその脚を止めなかった。疾駆する首無しの黒馬が清盛の右側を駆け抜ける。疾風が清盛の頬を撫でた。
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