《一》

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 清盛はきびすを返した。黒馬の胴体は為朝の墓穴に突っ込んでいった。清盛を馬蹄に掛けようとしたのではない事は最初からわかっていた。黒馬は為朝と同じ場所へ行こうとしたのだ。清盛は墓穴の淵に立った。為朝の胴体と黒馬の胴体が折り重なっている。黒馬の首を小脇に抱えた景清がこちらにゆっくりと歩み寄ってくる。郎党たちの手で為朝の息子らしき童の体が墓穴の中に横たえられた。 「それも一緒に入れてやれ」 清盛は言った。景清が小さく頷き、墓穴に中に入っていく。馬の首が墓穴にそっと置かれた。 清盛は眼を閉じて南無阿弥陀仏と呟いた。こんな男はもう二度と現れるまい。矢、一本で我が心を奮わせた男、鎮西八郎為朝、清盛は眼を開けた。墓穴に砂がかぶせられている。さらばだ。清盛は内心で言った。為朝の胴体はもう見えなかった。  帰路の船の甲板で清盛は床几に腰を下ろしていた。傍らには景清が立っている。空が赤い。夕刻近くになっていた。順風の中に帆を立て、八丁櫓すべてを遣っている。いわゆる押し航走(ハシ)りというやつだ。馬の疾駆を思わせるほど船は速く進んでいく。この分なら夜明け前には京に辿り着いてしまいそうだ。 「あの弓を」 ほとんど無意識に清盛は言った。ほどなく、為朝の剛弓が六人がかりで運ばれてくる。清盛は立ち上がった。なぜこの剛弓を持ってこさせたのか清盛はよくわからなかった。ただ触れてみたくなったのだ。為朝の魂に。清盛は剛弓を両手でしっかりと掴んだ。それだけだった。足がよろめき、構える事などとてもできそうになかった。左手一本で弓を上げようとした時、後ろに倒れかけた。景清の両手が背中に触れる。
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