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変わり始めた世界
個展の会場に着いた私たちは馬車を降り、受付にチケットを渡して中へと入る。
すると、ミーシャ・ヘドウィグの繊細で優美な絵の数々が私たちを出迎えてくれた。白黒の線画や幻想的な色使いのリトグラフまで、ミーシャの描く様々な世界が額縁の中から呼びかけてくるようで、私はうっとりと見惚れてしまう。
「さすが素晴らしい絵ばかりだね」
「はい、いつまででも眺めていられそうです」
「はは、じっくり楽しもう」
そうして私たちは「あ、これ『星影の峡谷』の挿絵ですね」「本当だ。あっちは『魔導士シリーズ』の絵だね」「こっちの連作も素敵です」などと小声で話しながら、ミーシャの世界を堪能した。絵を眺めている間に、いくらか心も落ち着き、いつも図書室でエリックと話していた時の感覚を取り戻していた。
個展の観賞を終えた後、私たちは今話題のカフェでランチをし、何軒か古書店を巡って、今は公園のベンチに並んで座って休憩をしていた。初めてのデートはとても楽しくて、あっという間に時間が経ってしまった。もう日が傾き始めていて、そろそろ帰らないとお父様の機嫌が悪くなりそうだ。でも、そう思いながらも、このまま家に帰るのは寂しいような気がしていた。特に話なんてしなくても、エリックと一緒にいるだけで心が満たされるような、ずっとこうしていたいような。そんな想いを胸に秘めて、隣に座るエリックを見ると、彼もこちらを見て微笑んでくれた。
ああ、きっと私はエリックに恋をしているんだ。魔法の眼鏡を外しても他のクラスメートには抱かなかったこの気持ち。
──これが人を好きになるということなのね。
やっと自分の気持ちを確信した私がエリックの名前を呼ぼうとした時、エリックが私の名前を呼んだ。
「ローラ。今日は付き合ってくれてありがとう。とても楽しかった」
「私のほうこそ、誘っていただいてありがとうございました。本当に楽しかったです」
「……日も暮れそうだし、そろそろ帰らないとね」
「そうですね。……でも、ちょっと名残惜しいですね。もう少しだけこうしていたいような」
私がそう呟くと、エリックは驚いたような切なそうな表情をして、私の手をそっと握った。
「……エリック?」
「ローラ、君のことが好きだ」
エリックに触れられて顔を赤らめる私を、彼が愛おしげに見つめる。
「本当は今日言うつもりはなかったのに、君がそんな可愛いことを言うから……。それに、丸眼鏡を外してすっかり垢抜けた君を誰かにとられてしまったらと思うと、我慢できなかった」
エリックが困ったような笑顔で告げる言葉に、私は恥ずかしさと嬉しさで固まってしまう。
「ずっと君が好きだった。今だから言うけど、去年図書委員になって、図書室で君を見かけるようになってから気になって仕方なくて、君が図書室に来るのを楽しみにしていたんだ。恥ずかしがり屋で、本を借りる時さえ赤くなって上手く喋れないのに、本棚で本を選んでいる時や、窓辺のテーブルに腰掛けて読書をしている時は、嬉しそうだったり、切なそうだったり、色んな表情を見せる君に惹きつけられた。でも君は図書室の外ではいつも俯いて人を避けていたから、何とか近づきたくて、翌年も図書委員に立候補して、君が好みそうな本も読んだりした。だから、あの日に君が話しかけてくれた時は、夢じゃないかと思った。本当に嬉しかったんだ」
まさか、エリックがそんなに前から私のことを見ていて、好きになってくれてたなんて知らなかった。
「あの時に私のことを知ったんじゃなかったんですね」
「……うん、ずっと嘘をついていてごめんね。怖かったんだ。君に僕のことを知ってもらいたいけど、こんな執着を抱えた人間なんて嫌がられるんじゃないかと思って……」
知ってほしいけど、知られたくない。近づきたいけど、近づけない。そんな想いは私にも経験があった。
「嫌がるなんてこと、ないです。私はエリックのことを知れてよかったと思ってますし、エリックに想ってもらえるのは嬉しいです……」
「……よかった。僕も、君のことをもっと知れて嬉しかった。図書室で君と過ごす時間は奇跡みたいで、このまま時間が止まってしまえばいいのにと思った」
エリックが握っていた私の手を、両手で覆って閉じ込め、儚げに笑った。
「君が僕だけのものになってくれたらどんなに幸せだろうと、そんなことを考えてしまう。本当に好きなんだ。君は、こんな僕のことを好きになってくれるかな?」
「あの、私はずっと人付き合いが上手くできなくて、友情とか恋愛とかは、本の中でしか知らなかったんです。でも、最近親友と呼べるお友達ができて、クラスの人たちとも話せるようになって、友情を知りました。そして、エリックと仲良くなって……恋も、知ったんです」
エリックが大きく目を見開く。
「私もエリックが好きです。どんなエリックも、これから知っていきたいです」
「ローラ……。本当に君が愛しくて仕方ないよ」
エリックが、握っていた私の手を彼の頬に当てる。
「よし、これから君のご両親に婚約のお願いをしに行こう」
「えっ、こ、婚約ですか!?」
いくらなんでも急すぎやしないだろうか。驚いて声が裏返ってしまった。
「そうだよ。ちゃんと僕のものってみんなに分かるようにしないと。噂だけじゃ不安だし」
「そういえば、クラスメートが、エリックの噂がどうとか言ってましたけど、何なんですか?」
「ああ、君が横取りされてしまわないように、僕が噂を流したんだ。僕は君に夢中だから、君に横恋慕したら公爵家に目をつけられる。あと、火曜と木曜は図書室デートの日だから図書室に近づくなって」
エリックが爽やかな笑顔で教えてくれた。……そんな噂がされていたなんて知らなかった。どうりで、もともと人気の少ない図書室だけど、エリックと会う日だけ人っ子ひとり来ないと思った……。
「ごめんね。嫌わないでくれるといいんだけど……」
エリックが悲しそうな目で見てくるのが可哀想で、私は何も言えなくなる。ちょっとやりすぎじゃないかなとは思うけど、これが彼が私にだけ向けてくれる感情なのだと思うと不思議と嫌ではない。惚れた弱みというやつだろうか。
「一生大切にするからね」
「……お手柔らかにお願いします……」
私の初恋の相手は、少し愛が重そうだけど、現実の恋愛に疎い私にはこれくらい分かりやすく好意を表してくれる人のほうがいいのかもしれない。
魔法の眼鏡をかけてから変わり始めた私の世界。友情を知って、恋を知って、明日はどんなことが待っているだろう。
──いつかエリックにも、魔法の眼鏡のことを教えてあげよう。きっと、家宝にするとか言いそうだわ。
そんなことを考えて、私はふふっと小さく笑った。
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