親切なおじいさんと金縁の丸眼鏡

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親切なおじいさんと金縁の丸眼鏡

 翌朝、学院へと向かう馬車の中で私は焦っていた。  昨日やっと手に入った『星影の峡谷』を読み始めたら、とても面白くてページを捲る手が止められず、すっかり夜更かししてしまったせいで寝坊したのだ。  お母様やお兄様からは呆れられ、お父様からも困ったような笑顔で「ほどほどにしなさい」と言われてしまった。  急いで支度を済ませて家を出たが、いつもより十五分も遅れている。外を見てソワソワとしていると、御者から話しかけられた。  なんでも、もう学院のすぐ近くまでは来ていて、あと数分で着くはずなのだが、いつもの道で何か事故があったようで馬車が通行止めになっており、迂回しないといけないようだ。 「迂回してもよろしいですか?」 「うーん、遅刻しそうだから歩いていくわ。徒歩なら通行できるでしょう?」 「はい、馬車だけ通れなくなっているようです。申し訳ありません」 「いいのよ。寝坊した私が悪いもの。ここまでありがとう。また帰りによろしくね」 「はい、行ってらっしゃいませ」  私は鞄を片手に馬車を降り、駆け足で学院へと向かう。往来で走るのは伯爵令嬢として褒められたものではないのは分かるけれど、今は遅刻するかどうかの瀬戸際なのだ。私は走りに走った。幸い、重いドレス姿ではなく、比較的身軽な制服姿なので走りやすく、なんとか間に合いそうだ。  ──あそこの角を曲がればすぐに学院の入り口だわ。  そう思って角を曲がろうとした瞬間、角の向こうからローブ姿のおじいさんが現れたのに気づいた。咄嗟に避けようとして体を捻ったが、バランスを崩して勢いよく尻もちをついてしまった。 「お嬢さん、すまんかった。怪我はないかね?」  おじいさんが心配そうに尋ねる。 「大丈夫です。こちらこそ、慌ててぶつかりそうになってしまって、すみませんでした」  慌てて立ち上がっておじいさんの顔を見ると、どうしたことだろう。おじいさんの顔がぼんやりしていて、目が二つ、鼻がひとつに、口がひとつあることしか分からない。しばらくおじいさんを見つめた後、私はハッと気がついて自分の目元に手をやった。 「眼鏡がない!」  そう、私はド近眼なのだ。本の読みすぎのせいではないと思いたいが、とにかく目が悪くて眼鏡がないとほとんど何も見えない。  ちなみに最近、巷では目の角膜に直接装着する「接触(コンタクト)眼鏡」なる魔道具が人気らしい。角膜に直接つけるなどと聞くととても恐ろしいが、目に近づけるだけで魔法が反応してスッと目に馴染むとのことで、痛かったり危なかったりすることはないらしい。  たしかクラスメートでも何人か「コンタクトデビューだね!」なんて言われていた人がいた気がする。ただ、かなり高価なようで、眼鏡よりも本にお金を使いたい私は特に買ってもらおうとも思っていなかった。  だいぶ話が逸れてしまったが、つまり、眼鏡がないと相当困るのだ。とりあえず、尻もちをついた拍子にどこかに落としたであろう眼鏡を求めて辺りを見回すが、なかなか見当たらない。 「おかしいわね……。あの、おじいさん、この辺に眼鏡が落ちてないですか?」  おじいさんにも尋ねてみると、無情な現実を突きつけられてしまった。 「眼鏡って、この粉々にひび割れた眼鏡のことかい?」  なんてことだろう! 手渡された眼鏡に目を近づけて検めてみると、ガラス部分は粉々で、ツルもひしゃげてしまって、まるで使い物にならない状態だった。 「そんな……。予備は持ってきてないのにどうしよう……」 「悪かったのぅ。弁償しようにも手持ちがなくてなぁ……」  おじいさんはとても申し訳なさそうにしているが、元はと言えば夜更かしして寝坊して、慌てて走っていた私が悪いのだ。弁償をしてもらうなんてとんでもない。 「気にしないでください。勝手に転んだ私がいけないんです」 「でもなぁ……。そうじゃ、眼鏡の魔道具なら持っておったわい」  おじいさんはそう言って、背負っていた籠から金縁の丸眼鏡を取り出した。 「これは、かけると周りが普通に見える眼鏡でな。これならお嬢ちゃんも困らんじゃろ」  眼鏡を受け取って、よく近づけて見てみる。元々使っていた眼鏡と色は違うけれど、形は似ているので、違和感なく付けられそうだ。試しにかけてみる。 「どうだね?」  おじいさんを見てみると、さっきまでぼやけていた顔がはっきりくっきり見える。顎に蓄えた長い白髭以外は特徴らしい特徴もない、どこにでもいそうな顔のおじいさんだ。 「ちゃんと見えます!」 「そりゃよかった。その眼鏡はお嬢ちゃんにあげるから、好きにお使い」 「すみません、ありがとうございます。とても助かります」 「ほっほ。じゃあ、わしはもう行くよ。今度は気をつけて行くんだよ」 「はい、本当にありがとうございました!」  私は親切なおじいさんにお礼を言って角を曲がると、今度は走らず、少しだけ早足で学院へと向かった。
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