2章

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         *  部屋中を探してみたけれど、やっぱり昔に描いてた作品は一枚も残っていなかった。まだ中学生に上がる前、母親に勉強をしたくないと反論したことが一度だけある。もちろんというべきか必然というべきか、案の定母親の逆鱗に触れてしまい、漫画本、ゲームのような娯楽品から、趣味で描いていた画材や作品もまとめて捨てられてしまった。  その時の母親が幼かった僕にはすごく怖くて、その反動かトラウマか、どんなものを描いていたのかすら思い出せない。  もしかしたら、一枚くらいどこかのノートに挟まってないかとも考えたが、見事に一枚も残っていなかった。  椅子に深く腰を沈め、鞄からスケッチブックを取り出す。  彼女と出会ってから、また描き始めた絵も順調に下書きだけが増えていっている。でも、増えているだけで何の面白みのない絵が一枚、また一枚と積み重なっているだけ。ただ、目に映った風景をそのまま描き起こしただけの、創意工夫が一つもない作品。見返すと余計にひどさが伺えた。  少なくとも、昔はこんな面白くない作品は嫌いで、もっと違う風に描いていた気がする。  スマホを取り出し、今日撮った写真の風景を鉛筆で描き起こす。夜が更けた静かな室内に、芯の紙を滑る音だけが、規則的に響く。  描いてる最中、涼音の言葉がずっと頭の中で渦を巻いていた。  ――私は私の見る景色を、私の感じる季節を否定したくない。  僕の見ている景色、彼女が見ている景色。どちらも蔑ろにせず、完璧に表現できたら。考えるのは簡単だ。でも、僕は彼女の見ている景色を見ることはできないし、その季節を肌で感じることもできない。結局は、片方を想像だけで描かなくちゃいけない。絶対に歪になる。自分の目で見たものにまさる情報はないのだから。  でも、果たして昔はそんなこといちいち考えていただろうか。描きたいものを描きたいように、そんな風に作品に昇華していたはず。  今描いてる景色も、昔一度描いたことがあるはずなのに、どうしてか筆が都度止まって中々進まない。それに、まだ下書きなのに昔の作品とはすでに大きく違う。そんな気がした。  たった七、八年前の記憶なんだから、思いだせてもよさそうなものだけど、やっぱり何度思いだそうとしてもキャンパスの上だけ霧がかっている。トラウマとは、人間が思っているよりもやっかいなものらしい。 「ねえ、何を描いているの?」 「――えっ!?」  声が聞こえてきた気がして、顔を上げる。僕の荒い呼吸だけが、静かな部屋にこだましていた。周りを見渡しても、もちろん僕以外に誰もいない。部屋のドアが開けられた形跡もない。 「……気のせいか」  でも、その声もその台詞もどこかで聞いたことがあった。 「そういえば……」  昔、あの山でスケッチブックを広げて絵を夢中で描いていた時、そんな言葉をかけられたような。  一度、思いだすと記憶はまるで濁流のごとく押し寄せてきた。  確か、同い年くらいの女の子に声をかけられて、僕は自慢げに自分の絵を見せた。少女は濡れた烏の羽みたいな艶やかな黒髪を薫風になびかせ、涙を流していた。ガラス玉みたいな大きな瞳がきらきらと輝いていて、僕は無意識に少女を描いていた。でも、やっぱり手元には霧が深くかかっている。 「もしかして……」  似ている。一度見たら忘れることのできない濡羽色の髪も、笑いながら涙を流す仕草も。 (この絵、私にくれないかな? 見せてあげたい人がいるの)  記憶の中の少女がしゃべる。  そうだ、確かあの絵は少女にあげた。まだ色塗りも雑で、パースもがたがたで、満足がいかなかったけど、少女がどうしてもと懇願するから、押し負けた。  今の僕の絵で、あの少女は笑って泣いてくれるだろうか。こんな教科書通りの作品で。  描きかけの用紙に大きくばってんを描いて、スケッチブックを閉じる。    あの絵を描いたのが僕だと伝えれば、彼女はどんな絵だったか教えてくれるだろうか。でも、なんかそれはとてもズルいことのような気がする。それに――。  真夏の猛暑日、あの時の少女は、どんな服装をしていただろうか。
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